かみなぎ21

 真っ白な空間、真由の夢の中からひとすじの道を見つけだした八千穂は、いままで頼りなく漂っていたのがウソであったかと思われるくらいのあっけなさで、いやにすっきりと現身に落ち着いた。

 八千穂はふと目覚めた。目を開けてすぐにでも起き上がろうとしたものの、身体がかたくこわばっており、節々がきしりぎしりと痛んだ。腕をひとつ動かすにも彼は苦い顔をしなければならなかった。

 八千穂は首だけをうごかし、まわりの状況をなんとか知ろうとした。目はさえており、頭もすっきりとしていた。しかし魂ばかりで漂い黄泉平坂を行き来していたときの、地に足がついていないというまったく奇妙な心地がまだ名残として身にのこっている。

(還ってこれたんだ)

 現身の我が身、地面に吸いつくように重い我が身が八千穂は心底うれしかった。

 あたりがうすぐらいのは八千穂の目が濁っているせいではあるまい。顔を動かすと鼻先が触れ合いそうになるほど近くに真由の寝顔があり、彼はひどく安心をした。真由は夢の中とおなじうす萌黄の衣裳の裾を小波のように波立たせ、板敷きの床のうえに身を丸めて眠っていた。誰がかけたものか、八千穂と真由のうえにはずいぶん大きな毛衾が打ち掛けられていた。それに包まるようにして真由は熟睡していたのだ。結い上げた髪も解けさり、長い黒髪がうねるようにして散らばっている。

 八千穂はそっと、真由が目を覚まさないように、身にかかっていた毛衾のなかから起き出し、腕で支えるようにして半身をおこした。朝なのか、それとも昼なのか。窓もない内籠めの部屋らしく、はっきりとした時刻はわからなかった。ただ廊下とを隔てる帳もないため、廊板のほうに差し込むあかるいひかりを八千穂はみつけていたのだった。

 音を立ててきしむ節々をもてあまし、苦労しながら身を起こしたあと、八千穂はゆっくりあたりを見回した。どうやらどこかの御館の内部らしい。しかし、どこだろうと思う前にも、八千穂はここが因幡は気高の里だと知っていた。真由が教えてくれたのだったか。

 はたはたと廊下を渡り来る音を聞くと、八千穂は室の入り口に顔を向けた。やってきたのは藍染めの、色のあせたふくら脛丈の着物をまとった若いおんなだった。頭にはふるぼけた手布をひっかけている。彼女は手にこんもりと湯気の立つ桶をかかえており、それをこぼさぬように下を向いてそろそろと歩いてきたのだった。機嫌よく鼻歌などしており、八千穂がじっと見ているのにも気づかないふうであった。

 声をかけるのもなにやら憚られて、八千穂はただ彼女を目で追っていた。薄暗いなか真由の頭のそばに桶をおろしたところで、おんなは八千穂のまなざしにようやく気づき、まず小さな悲鳴をあげた。

「ああ、びっくりした!」

 それから女はためらいがちに八千穂に笑いかけた。まじまじ八千穂をみつめる。あまりにじっくりと眺められて、彼はふしぎに思った。問うようにみつめ返すと、女はハッとして顔をあかくした。

「やっぱりあんた、寝ていただけだったのね。心の臓も動いていないし息もしていなかったから、正直、みんな死んだものかと思ってたのよ」 しかし肌はあたたかく、どうしても眠っているようにしか見えなかったのだと女は語った。名はさゆりというらしい。真由とも顔見知りのところをみると、やはりここは因幡は気高の里にちがいない。

「ぼくはたしかに死んだんだ。でも、甦りをした。・・・まゆのちからで」 八千穂は口のなかでつぶやいた。そう口に出すことで、彼の身のうちに何か途方もないよろこび、こうして息をする身体を持てることのありがたさが込み上げてきた。いままで生きてきて、こんなに震えるような喜びを感じたことなどなかったのではないか。八千穂はいかにじぶんがぼんやりとして王坐での年月を過ごしてきたのかを知った。

 彼がなにやらぼそぼそ呟いている間にも、さゆりはひとときその場から消えると、一揃えの着物を持ってきて八千穂に放り投げた。八千穂はそれをまともに顔で受けて、瞳をぱちぱちさせた。

「いい齢をした男が、いつまでその格好でいるつもり。傷ひとつないきれいな肌なんて、目に毒だわ」

 さゆりは冗談めかして言った。それは照れ隠しだったのかもしれない。八千穂はまったく頓着していなかったが、彼女には顔を赤くする理由が十分あった。上半身とはいえ、裸にはちがいない。それに八千穂はわかわかしく、うつくしくもあるおのこであった。

「傷がない?」

 八千穂は声を上げた。そういえば、あまたの矢に射られたはずだ。しかしどこをどう探そうと、矢傷の跡のひとつたりとも肌のうえには見つからず、まるで何事も無かったかのようにまっさらであった。

「あんたと真由が田畦に倒れてるのを、たまたまあかねさんがみつけたのよ。ああ、あかねさん? 真由のかあさんのことよ」

 八千穂はそれを聞くと、すぐさまやさしげに笑うおんなの姿を思い出した。高天原へ旅立つ前、真由に若草色の染め衣を手渡したひとだ。

「それよかあんた、いったいどこから来たの。どこかで見たような・・・気のせいかしら。真由が一緒にいるってことは、高天原から? でもおかしな話だわ。馬足もなしに、なにより衣一枚もつけずにあんたは意識をてばなして、葉っぱの山に埋まっていたというわ。真由もあんたといっしょに、前後不覚に眠りこけていたんだから。十日をすぎてもまだ眠たいなんて、いくらねぼすけ真由だってヘンよね、心配だわ」

 八千穂を射た矢群れよりもよほど早口に、そのうえ目まぐるしくさゆりはまくしたてたのだった。八千穂はしかしその半分も理解できていなかった。なぜ高天原から遠くはなれた因幡にこうして来れえたのかとか、そちらのほうに気が取られていたのだ。

 少しばかり萎れた、けれど洗いざらしの匂いのする土器色の染め衣と、ひざの出る袴を八千穂が着たのをみると、かいがいしくさゆりが八千穂の頭をひっつかんだ。胸元からクシをとりだし、ぼさぼさになったままの八千穂の髪を角髪に結い上げながら、さゆりは言った。

「あんたのこと、いま里長どのにお話ししてきたわ。すぐにでも会いたいと言っておられるのよ。なんだかあんたのこと知っていた風だったけど」「弘足どのとはこの間会ったばかりだ」

 さゆりは問うような表情になった。やがて八千穂が高天原の皇子だと知ると、さゆりは彼の顔をまじまじとのぞきこみ、声をあげた。

「そういえば、あのおとなしい皇子さまだ!」

 八千穂はそれを聞いたが、あまり愉快な気分ではなかった。

 衣をつけて身が落ち着いたかと思うと、いっせいに腹が鳴りだしたので、八千穂はおどろいた。一度は投げ出した現身だというのに、黄泉国の門前で追い返され、なにもなかったように現身におさまっていることがふしぎで、いまこうして腹を空かしているのもふしぎなのだった。

 それに彼はひどく腹を空かしたときというのがない。王坐では食べ物に不自由はしなかったし、前の食事を血肉に消化するまえに膳がはこばれてくるのだから、空腹をかんじるひまなどなかったのだ。王坐では、貴人に腹をすかせるのが失礼にあたる。つまりは彼は「腹の虫」をしらないのだった。

「なんだろう、ぼくのなかでけものが鳴いているような。もしかして、黄泉国からあちらのけものを連れて来てしまったんだろうか」

 八千穂が戸惑いながら、しかしまじめに言うものだから、さゆりは遠慮もなく笑い声をあげた。その拍子に、角髪を結い上げるために使おうと、彼女が口にくわえていた葛のツルがほとりと床のうえにおちた。

「黄泉国は死人の行くところよ」

「ぼくは死人だったんだ」

 さすがにさゆりは笑いをやめた。呆れがちに言う。

「あたしにはきちんと生身のあんたが見えているわよ。それに死人はおなかなんか空かさないものでしょう・・・もうその話はいいわ。はやくいらっしゃいよ、ほら、立って。まったく、あんたってどうしたって皇子さまには見えないわよ。皇子さまといえば、もっと、こう・・・」

「もっと、なに?」

 八千穂はすこし憮然としてたずねた。皇子らしくないと言われるのははじめてではなかったが、腹が立ったのははじめてだった。さゆりに対して怒っているのではない。ただ、天照の皇子のひとりらしく振る舞えないじぶんが、はじめて情けなく思われたのだった。天照に、母親に認められるために、いったいじぶんは何をしただろうか。じっさい、八千穂はなにもしていないのだった。何か行動をおこすまえに、すべてを投げ出していたのだから。

 さゆりは何げなくつぶやいた。八千穂のささやかな不機嫌など、彼女にはまったく伝わってはいないのだった。

「皇子さまというのは、こう、肩をそびやかしてね、金の歩揺のついた冠にかがやく沓をはいて、きざはしの何段も上からあたしたちを見下ろすような感じじゃないの」さゆりは言った。

「でもあんたはちがう。少なくともいまのあんたは、きざはしを降りてあたしと同じ目線に立っているわ。物腰もふつうだし、それが意外だったの、それだけ。・・・ああ、ふつうって言っても、あんたはかなり変わっているほうだけどね」

 角髪を結い終えると、さゆりは彼を炊飯場に連れてゆき、てばやく膳をあてがってくれた。

「十日以上も目を閉じて黙っていたんだもの、身体がごはんを欲しがるのは当然だわ。午後をすぎたばかりだから、あまりいいのは残ってないけど。はい、さじ!」

 膳といっても具は菜ばかりの羹と、すこしこげついた粟飯のみの簡単なものだった。八千穂は羹の椀のなかに粟飯をほうり込み、粥のようにして食べた。この食べ方はさゆりが教えてくれた。ずっしりと手に重い椀を持ち、木の持ち手にはまぐりの貝殻のついたさじで、夢中になって飯をかっこんでいる八千穂を眺めながら、さゆりはふとたずねた。八千穂は他に人もいない炊飯場のすみ、炊飯場と御館の廊下をつなぐちいさな階段に腰掛けており、さゆりはかいがいしく給仕をした。彼女はそれがあらかた終わると、八千穂のとなりのきざはしに座って足を組み、じつに楽しそうに、興味が尽きないようにはなしかけてくるので、彼はしばしばさじをうごかす手をとめなければならなかった。

「皇子さま、あんたはなんという名なの」

「八千穂」

 彼はごくしぜんにそう言った。生まれ持っていた名前は大穴牟遅だったものの、それはあくまで皇子としての名だった。八千穂というのは真由がくれた名なのだと言うと、さゆりはふうんとつぶやいた。

「たしかにオオナムチなんて珍妙な名前より、八千穂のほうがずっといいわ。うん、ずっといい」

 八千穂はほほえんだ。王坐で、彼はいつもひとりきりだった。母である天照にもかえりみられず、父の一族もしらなかった八千穂は、王坐のなかでも目のうえの腫れ物のような存在なのだった。大穴牟遅という名は、王坐でのただの呼び名にすぎないのだ。呼び名がなければ困る、その程度のことなのだ。

 父の名は知っている。兄皇子たちやひとびとの口の端にのぼるその名は、八千穂の胸に深々しく刻印されていたのだ。須佐ノ男。天照の同母の弟。それが八千穂の父親なのだ。同母のきょうだいの婚いは禁忌。血を貶め、汚すものなのだ。その忌み婚いの末にうまれた八千穂は、王坐では忌むべき存在なのに違いはないのだった。・・・王坐であろうと、どこであろうと。

 母はいちど、心を決めて父親のことをたずねた八千穂を激しく叱りつけ、それからやさしく撫でつけるような声音で言い直した。

「そなたの父は、神よ。このうえなく雄々しい、男神であらせられるぞ」 それからすぐに、揶揄るような笑いをする兄皇子の言葉で、八千穂は知ったのだった。・・・じぶんが生まれてきてはならなかった子だということを。

 まことに八千穂の父が神であるはずがない。須佐ノ男はたしかに生身のおとこなのだ。ただびとと違うのは、須佐ノ男が神薙ぐおのこだったということ。姉とまぐわった罪で高天原からはなれた遠地にはなたれ、その消息も当然のように八千穂はしるよしもなかった。・・・父に会いたいと思わないときは無かったような気がする。じぶんが忌み子だと知ったあとにこそ、どうにかして父にまみえたかった。

 けれど大蛇神の言葉では、須佐ノ男はもはや死んだというではないか。それも、天照の手によって殺されたと。須佐ノ男はなぜ天照に殺されねばならなかったのだろう。大蛇神は、天照のはげしい嫉妬のゆえと語った。櫛名田を妻として真由という子を成した弟を、天照は許せなかった、そう確かに聞いた。

 天照と須佐ノ男は高天原の巫。巫はふたりでひとり、かたわれなしには長く生きられないとまでいう。なのに、天照はてずから弟を殺したというのだろうか。

 それだけではない、天照の嫉妬を煽ったのは、櫛名田という出手母の女の存在だという。須佐ノ男が櫛名田を妻として産ませたのが、真由だと。・・・真由にかんじる近しさは、ふたりの血の濃さ、父を同じくする血の絆がふたりを引き合わせたせいなのかもしれない。八千穂は彼女とのたしかな絆をこの時みとめたのだった。

(ぼくは、たったひとりではなかったんだ)

 当然うれしくあるべきなのに、八千穂はなぜか悲しかった。

《ぬしがまゆをほろぼす》

 大蛇神のしずかな声音が、八千穂をゆるがすのだ。それに追い打ちをかけるように、目を閉じれば真由が泣くのがみえる。声をあげもせず、ただ身を震わして泣く真由。八千穂は手を伸ばすのに、けして真由の身には触れはしないのだ。彼は真由を泣かせるのがじぶんだと思うと、悲しくてならないのだ。

 さゆりは黙り込んだ八千穂に、なにげなく言った。

「あたし正直を言って、あの子が心配だったのよ。何にも言わずに、ふらりと高天原に行ってしまうんだもの。でも、この里があの子に狭いことも、あたしは知ってたのかもしれない。今こうして真由は帰ってきたけど、またどこかへ行ってしまうような気がする」

「あなたはさびしいの」

 八千穂はきいた。その問い方がひどくおだやかだったせいか、さゆりは笑いにまぎらすこともせずに、けれど頷きもしなかった。

「真由は、あたしとちがうものを見てるのよ。ただそれだけ。ええと、うまくいえないけれど、あたしたちが欲しいものは里でみつかるけれど、真由の欲しいものはここになかった。きっと、それだけのことよ」

 さゆりは、あんたのような人だから言うのよ、と付け加えた。

「真由は高天原であんたというひとを見つけたのかしら?」

「まゆのことはわからない。ぼくはまゆではないから」

 八千穂はまじめにつぶやいた。

(でも、ぼくはまゆをみつけた)

 それだけはたしかなことだった。八千穂はさまざまな感情がせめぎあうなかで、息をついた。椀のなかはもうきれいに空っぽだった。いくら悩んでいても食べ物は喉を通るのだと彼は知った。八千穂はそれからすぐさまさゆりにうながされると、きざはしから立ち上がり、夏のひるさがりの光が、御館の廊下に四つ格子の影を斜めぎみに落とすのを、見るともなしにみつめながら、やがて三段のきざはしを踏み締め、ひろびろとした間に入った。

 ちょうど一月と半分まえに、天照の令旨でこの気高の里におとずれていた八千穂は、この板敷きの間で酒宴がおこなわれたのを思い出していた。八千穂はそのときすぐさま酒宴を抜け出しており、酒を口に含みもしなかったのだけれど。

 八千穂は御館の本殿にはいると、すぐさま声を上げた。

「伊住、卯月!彦田まで」

「やあ、ねぼすけ皇子どのがようやくお目覚めだ」

「どうしてきみたちがここにいるの」

 里長である弘足の両隣に伊住と卯月が座っていた。卯月のとなりには彦田が居た。八千穂に軽口を放ったのは、伊住である。八千穂はなぜ彼らがここにいるのか不思議だった。なにしろ高天原から因幡まで、一月はゆうにかかったというのに、十日あまりしか因幡での日数は経っていない。

「そいつは徒歩の従者人がいたからだろう。馬足でめいっぱいとばせば、十日かそこらでついちまうんだよ」

 伊住が言った。聞くと、昨日の夕暮れどきに気高へ着いたという。

「ばあちゃんに、真由とあんたの骸の居所を訊ねにきたのさ。それがどうだい! 真由と皇子どのは頭をならべて寝ているじゃないか」

 伊住はしみじみと八千穂をながめた。

「心の臓も動いてなかったから、すっかり死んだものと思っていたぜ。今朝からいつあんたを土に埋めようかみんなと相談していたんだ。ところがいくら骸だといっても、真由が寝ている間に埋めちまったら、ひどくあいつに恨まれるだろうからな、困っていたところさ。なのに、おどろいたよ。あんた、真由よりさきに目をさますんだもんなあ」

 埋めなくてよかった。伊住は冗談でもなしにそう言った。

「王坐での八千穂のもがりの最中、真由もろともおまえさまのむくろが消えた。高天原はおまえさまらを捜す兵らで大変な騒ぎぞ。わしらはその中を抜け出してきたのだ」

 卯月が言った。彼女は八千穂を招きよせ、確かめるように頬や腕、胸に触れると、それから腕組みをしてうなった。

「信じられぬ。おまえさまは確かにわしの目の前で事切れたのだ。なのに八千穂はわしのまえにおる、しゃべっておる。ふしぎなことよ。

 まさに、耳に聞いていた巫の復ちの霊力であろうな。死人すら癒す、神しみた霊力よ。心得てはいたつもりだが、目の当たりにするとなると」 卯月はまゆ根を寄せた。

「なにやら心底から恐ろしくなった」

 八千穂は里長の弘足と向かい合うように円座にあぐらをかいて座ってから、困ったように笑った。

「ぼくも今こうしていることが何よりふしぎだ。それに、おそろしいよ。ぼくは甦りして良かったんだろうか。黄泉大神は、本当のところどうしてぼくの魂を現世に送り返したんだろう」

 八千穂はひとりごとのように言った。

「ぼくは現世にほんとうに何も残してこなかった。足跡ひとつだって、ぼくはつけようとすら思わなかったんだ。でも、今はちがう。ぼくにできる何かをしなければと思える」

 今まで、ただなんとなく生きてきた八千穂である。しかし三輪山での山つ神との出会いによって・・・いいや、それ以前に真由との出会いによって、彼はじぶんの生き方に疑問をもち、なんとかしようと思ったはよしとして、棒立ちになってそれきり、途方に暮れていたのだった。

「いい心掛けだねえ。そういえばあんた、いい顔になったよ」

 伊住は八千穂を眺め、感心したように言った。八千穂は続けた。

「けれどその何かがわからないんだ。体は動きたがっているのに、どうやって動かしたらいいのかもぼくは知らない」

 八千穂はひどくもどかしい気持ちを持て余していたのだった。たしかに、現世に戻れたのはうれしい。けれど、黄泉大神にもう一度生き直す機会をもらったはいいが、一体なにをすればいいのだろう。じぶんにできること、やるべきこと。たくさんあるようなのに、実際、思い浮かべてみてもひどく漠然としており、その中のなにひとつとしてはっきりと形をとりはしないのだった。

「ぼくは何をすればいいんだろう」

 なにより、八千穂はじぶんが恐ろしくもあるのだった。三輪山でじぶんのなかに息づくけものを感じたときから、八千穂はじぶんが恐ろしくてならない。彼は身の内に巣くうけものの名もしらないし、万一けものが暴れだし抑えがきかなくなったときの事を思うと、居ても立ってもいられなかった。

 今この時は心配ない。けものは眠っているから。けれどかのけものが目覚めたとき・・・八千穂の内部にいるけものが暴れだし、そのすえに誰かを傷つけるときのことを八千穂は心底から惧れていたのだ。八千穂がこうあれと望むすべてのことは、けものの目覚めによって叶えられるのだと彼は知っていた。じぶんが何か行動を起こすたびに、ともすればそのけものの目を覚まさせてしまいそうに思えてならなかったのである。 まるで水の満々とたたえられた水瓶を頭にのせ、一歩一歩を踏み出そうとしているようなもの。つまり水瓶の水をこぼし、だれかを濡らすことを思い、彼はおびえていたのである。じぶんは濡れてもかまわない。けれど、ほかの人たちをけものの餌にさせることはけしてならなかった。 だれよりも、なによりも、真由を傷つけることが八千穂は怖かった。「なにを怯えおるのだ、八千穂よ」

 卯月は言った。しかし八千穂はふと違和感をかんじて目を瞠った。卯月は円座のうえにあぐらをかき、しずかに八千穂をみつめていた。淡いほほ笑みを口元にはたたえ、しかしその虚ろな瞳は神懸かりした巫女のものだった。

「あなたは、だれ」

 八千穂は訊ねた。卯月の中にいるのは、卯月ではない。べつの誰かだ。しかし悪しきものではないのもまた確かなことだった。

「何を言っているんだよ、おい」

 伊住が口をはさんだが、八千穂は半分も聞いてはいなかった。

「そなたとは、いちど稲葉山の神社でまみえたな」

 その言葉ですぐさま、八千穂は憑依した存在の正体を知った。

「呼月のおんきみですね」

 卯月に取り憑いた呼月の魂が、口をきいているらしい。因幡の大巫女とあざなされる呼月であれば、魂をすべりこませ他人の口を借りることも容易いのだろう。しかし卯月が呼月として口をきくなど、やはり奇妙な光景だった。昼下がりの涼しさのなか、低くとびまわる羽虫の羽音までも聞こえる静けさのなかで、八千穂と呼月はまむかった。つぎの言葉を待つ八千穂をみつめると、呼月は前触れもなく言った。

「巫の霊力をあらわしたの、八千穂よ」

 八千穂はすぐさま真由のことを思った。

「そなたはおのれの霊力を惧れおるのだ。神薙の荒ぶる霊力をおそれおるのだ」

 八千穂は瞳をしばたいた。呼月が神凪ぐおなごである真由のことを言っているのだと思ったのである。だからにわかに自分の名がでて、八千穂はとまどった。

「ぼくはいちど、死にました。けれど黄泉大神に魂がえしをされ、まゆの復ちの霊力でこうして現世にかえることができたんです。高天原から因幡まで来れ得たのも、すべてまゆの霊力だと思います」

 八千穂は遠回しに呼月のことばを否定した。

「巫は真由だけではないのだよ」

 呼月は孫をさとすように、やさしく言い継いだ。

「わたしはそなたの霊力の発動をかんじた。ほんのわずかな一瞬、火の山が吹き上げ灼け岩の飛び出すがごときはげしい霊力があらわれたかとおもうと、すぐにかけらも残さずにかききえた。・・・そなたの死は纏向よりとおく離れたこの因幡の地でも知りおったことなのだ」

 呼月の魂のすべりこんだ卯月の口元から紡がれるのは、驚くべきことだった。

「そなたが死ぬ直前にわたしは、八千穂よ、そなたが神薙であることを知ったのだ。そしてそなたも、みずからの霊力を見いだした」

「神薙はぼくではありません。呼日のはずだ」

 八千穂は口をつぐんだ。どうあっても彼は信じがたかった。じぶんが持て余している身の内のけものが、神薙の霊力だなんて。巫の霊力というのは、八千穂にとっては手の届かないもの、手を伸ばすことすら考えたことのない神しみたものなのだ。それがとうとつに神薙はおまえだと言われても、戸惑うばかりだった。

「呼日?ああ、あの童男はちがう。まことの神薙は、そなただ」

 いったい何をもって八千穂を神薙だと断言できるのだろう。

「二人いるとは言うが、巫ってえのに何か違いはあるのかい」

 そこで伊住が待ったをかけた。いままで弘足と顔を見合わせていた彼だったが、黙っていられなかったと見える。話の展開に置き去りにされるのがどうにも落ち着かないようだった。

「おまえさんは何を聞いておったのだ」

 ふいに今まで黙っていた彦田が言った。

「ここに来るまで、姉やがなんべんも伊住に説明していたろうが。高天原が大きな顔をしていられるのは、ふたりの巫を王坐に抱え込んでいたからだろうに。・・・皇子さまが神薙ぐおのこだとしたら、とんでもないことになるぞ。そんなこと、おれにだってわかる」

「おまえにわかってどうして、おれに分からないことがある」

 伊住はおもしろくなさそうに言った。

「なあ、ばあちゃん。わかりやすくかみ砕いて話してくれよ」

「はじめからそのつもりよ」

 呼月は咳払いをひとつした。

「他人の喉はやはり慣れぬな」そうつぶやいてから、呼月は語りだした。「高天原は炎の末裔が支配する土地。それは知りおるな。炎の末裔とは、炎の神の血脈をよどみなく受け継ぐ者たちのこと。そのなかでも最も濃い血をもって生まれた者を巫と呼ぶ。神薙ぐおのこと神凪ぐおなご、かれらは神しみた霊力を今にうけつぐ、現人神なのだ。

 いままで高天原が盛ええたのは、巫の霊力が土地の地主神を押さえこみ、纏向を神なしの土地に仕立て上げたゆえのことよ」

「どうして神さまがいないと高天原が栄えるんだよ」

「神は風を運びよる。しかし運びくるのはそれだけではない、風はまた病も運びくるのだ。日照や大雨、病がことごとく高天原をよけるのは、それらをひきおこす地主神が眠っているからなのだ」

 呼月は息を吐いた。

「伊住よ、神はなんのためにおると思う? 神はわれらのためにおるのではない、芦原中津国のためにおるのだ。ひとが居らずとも、この島つ国はうつくしい。むしろひとが居らぬ方が神々は住み良いであろうな。神々はひとを愛しきものとは思っておらぬ、とくに神を殺そうとする高天原の炎の末裔は憎くもあろう」

「わからないね、神さまがひとを疎ましいと思っているんなら、なぜ秋に実りをくれるんだい」

「地主神らがひとをにくみ、殺しきれぬのは、ひとが男神と女神のすがたを映した存在だからではあるまいか。よいか、この世のあらゆるけものらは、すべて神々のすがたを映したものなのだ。われら人間も、母神や父神のすがたをうつした者の末裔よ。だから神々はわれらを憎みきれぬのだ。わたしはそう思う。伊住の言うとおり、秋のみのりはたしかに地主神の恩寵よ。・・・神々は荒々しい炎のすえごを惧れはするが、心底厭いはせぬ。なのに炎の末裔はとくれば、むやみに神を厭う。厭い、追い払う。かれらもまた、神の与えるみのりなしには生きられぬはずなのに。まさに愚かしいのは炎の末裔よ。神をことごとく滅ぼし、国つ者を追いやり、またくす高天原の支配する人代を夢見ておるのだから、手に負えぬ」

「国つ者とはなんですか」

 八千穂は訊いた。聞いたことのない言葉だった。

「佐那来の男神と佐那巳の女神の産み落とした、最後の子らの末裔の呼び名よ。いうなれば、炎の末裔をおさえる歯止め金か。彼らを炎の末裔にたいして国つ者と呼ぶ。・・・高天原では土蜘蛛などと呼びおるが」

 高天原にけっしてまつろわぬ者たち。彼らを高天原びとはあざけりをこめて、土蜘蛛とよぶ。八千穂もそれは知っていた。土蜘蛛とは、こせこせとした、闇を好む異形の者たちだというウワサだった。五穀はなく肉のみを喰らい、住居は深山のなかにあり、樹の根本に住むのだと。

「八千穂よ、そなたが真由とともに王坐をのがれたということは、高天原の支配をのがれたとおなじこと。高天原はひとを愛しみ、哀れむことを知らぬ。それが高天原のつめたい性質なのだ。かつて炎の御子が父神にうとまれたのは、かの御子が父神に敵しえるちからと炎のごとき憎悪を持っていたためよ。・・・その性質は、末裔にも受け継がれておるのだ。みるがよい、高天原の所業を。国つ者であるひとびとを、まつろわぬものとして辺境に追い払い、土蜘蛛などとあざわらう。おなじ人とはみなしておらぬ。わたしが高天原を捨てたのも、高天原びとの暴虐に愛想を尽かしたがためよ」

 呼月は八千穂をみつめた。

「この因幡は高天原に服していながらも、高天原の支配を厭う、国つ者の里なのだ」

 八千穂は素直におどろいていた。この里が国つ者の、つまりは高天原びとの言う土蜘蛛たちの里であると知ったからだった。しかしもとより、八千穂の胸に彼らへの嫌悪などはなかった。はじめから八千穂は土蜘蛛なるひとびとをよくよく知らなかったのだから、当然でもあった。彼は会ってもいないひとを憎むこともできないし、厭うこともできない。

 それに呼月やこの里の人々を土蜘蛛と呼ぶならば、八千穂は土蜘蛛が好きになれそうだった。忌々しさをこめて土蜘蛛のことを言い交わす王坐のひとびとの物言いと、気高の里人たちの生活の様子はかなりかけはなれているものがあった。

「高天原を捨てた国つ者として、腹のうちを言えばわたしはそなたと真由が欲しい。そなたらの持つ巫の荒ぶる霊力を、高天原にみすみす渡したくはない。神凪である真由は鎮めのすべしか知らぬが、八千穂よ、そなたならば神薙のあらぶる霊力の行使もできる。神を殺すほどの霊力をもちいれば、高天原を滅ぼすこともたやすい」

「ほんとうかよ」

 伊住が声を上げ、それから八千穂を凝視する。八千穂は黙っていた。声が出なかったのは、呼月の語る途方もない話への呆れのためではない。八千穂はしずかな確信があったのだ。高天原のほろびを望めば、きっとかなえられると。そのために八千穂がするべきことは、彼の内部から出たがっているけものを解放してやることだけ。

(これを神薙の霊力と呼ぶのか)

 けものは高天原の血脈が生み出したものだったのだ。

(ぼく自身がけものなんだ・・・)

 八千穂はひどい痛みとともにそれを認めた。神薙として嘉されていた呼日を、彼がうらやまないときはなかった。なぜなら呼日は神薙として王坐に欲せられているのだから。だれからもかえりみられることのない八千穂にとって、呼日のむじゃきな笑顔がどんなに眩しかったか。

 彼は心底では、神薙の霊力が我が身にあれば、あるいは誰かがじぶんをひとりきりの暗い室から救ってくれるのではないかと思っていたのだ。なんてばかなのか、なんて愚かなのだろう。望んでいた霊力が与えられたというのに、ちっとも嬉しくない。

 それはきっと、八千穂が身に棲まわせているけもの、すなわち神薙の霊力が、真由の癒し、鎮めの霊力とちがって、あらゆるものを滅ぼす荒ぶる霊力であるせいなのだ。げんに、八千穂は高天原のほろびすら引き起こせる。炎につつまれる王坐、人々の悲鳴、怒号。滅びの幻影をたぐりよせ、うつつの事態として返してやることが八千穂にはできるのだ。やったわけではないものの、彼はじぶんの霊力に対してかなしい確信をしていた。

「風向きが変わろうとしておる。いままでとどこおっていた風が、高天原を揺るがそうとしておるのだ。わたしはその機会を、見逃したくはない。いまこそ国つ者が立ち上がり、高天原の引き絞る矢群れにあらがうあまたの盾をかかげ、その下から返し矢を射返すべきときなのだ」

「高天原にあらがうなんて、たたではすまないだろうな」

 伊住がたまりかねて言った。高天原にさからうということがいかなることか、彼でなくとも簡単に知り得ることだった。高天原は恭順を示すものにはある程度寛容だが、ひとたび抗いをみせた者に容赦はしない。敵を完膚無きまでに踏み殺し、御館にはためらいなく火を放つ。血をあまたと流すゆえにそうよばれる「明の戦」が、このおだやかな浜風吹き来る里を踏みけちらすということなのだ。

 この気高の里は、高天原のものではない。かつては高天原のひとであった呼月が、もう四十年もまえに因幡は気高の地に里を打ち立て、土地の地主神を夫として支配する場所なのである。高天原びとは呼月の希有なる霊力に天照と同等の敬意をはらい、膝を折る。それはこの里を独立した呼月の領なのだと証明することなのだった。

 けれど、この里が高天原にひとたび抗いをみせたなら、どうなるか。五つの童男でもわかりそうな質問であった。その末には滅びしかありえないのだ。気高のほろびしか。

「須佐ノ男が死んで十数年、先代の巫の霊力がうしなわれてからのち、われらが何もしないでおったと思うのか。わたしは高天原をはなれ、高天原に放つべき八千の弓矛を揃えておったのだ。たやすくは折れぬ鉄のやじりを。それはそなたも知りおること。わたしは何度も言い含めておったはずぞ、伊住よ」

 伊住は円座にあぐらをかいたまま、一声うなった。

「そんな大事なこと、さっぱり聞いた覚えはないぜ」

 呼月はすこしほほ笑むと、何かの旋律をくちびるに乗せた。手鞠うたのような、子守歌のような、やさしい歌だった。伊住はすぐさま何かにおもいあたると、じぶんも呼月につづいて歌い出した。

「岩ばしる、水脈のながれの玉すだれ」

 あつめてつらねる 玉のみすまる

 火の山いきづく 紅なるちくし

 八雲立ちたる 白銀なるいずも

 稲穂そよめく 青なるひたち

 ふたがみ坐す 凪なるむさし

 満月およぶ 黄金なるいなば

 あつめてつらねる 玉のみすまる

「こいつはてまり歌だ。おれががきのころ、かあさんに教えてもらったやつだよ、たしか。子供ならだれでも知ってた。・・・そうだよ、真由のやつが何度やりなおしても満月のところでつまづいてたのをおぼえてる」「その歌は、国つ者どうしの盟約をあらわしておるのだよ」

 弘足が説明した。

「火の山のふところに住まう筑紫のひとびと、青田がどこまでもひろがる常陸。呼月の坐すこの因幡、そして凪の一族が里を打ち立てている武佐師。鉄を有する出手母。これら五つの領が高天原の支配をかいくぐり、ひそやかに抗いをみせ国つ者を統べてきたのだ」

 呼月はそれに続けた。

「いまこそこの五つの玉を御統として連ねるときなのだ。土蜘蛛などという呼び名に甘んじておるのはこれまで」

 土蜘蛛とは、あくまで高天原を否定し続ける人々に高天原びとがつけた呼び名だ。神を領履こうとする高天原をうべなわず、土地を高天原に奪われようと、ふるい神々とともに生きようとするひとびと。神を殺し、またくす人代を築こうとする炎の末裔にとって、国つ者は古きものにしがみつく遅れた人々とみなされていた。いいや、ひととも見なされてはいない。国つ者ひとりの死は、高天原びとにとって獣の死にすらおとるのだ。

「高天原の滅びが、国つ者の平安を手に入れるために必要なのだ。国つ者たちが堂々と胸を張り、おんなたちが若やいだ顔に泥を塗らなくとも暮らせるような穏やかな生活は、高天原のほろびによって初めて手に入る。・・・しかし、このようなことを唱えることすら無益でおろかなことなのやもな。国つ者であろうと炎の末裔であろうと、ひとには変わらぬというのに」

 呼月のそのまなざしには少しの澱みもない。前を見据えるしたたかさがある。けれど瞳のなかに悲しみがあるのも八千穂は見逃さなかった。「たたかうことしかわれらはできぬのか。しかし戦からのがれつづけることはできぬのもまた確かなことなのだ。いっそのこと、高天原にひざを折り、貢の品でも差し出せれば楽なのだろう。しかし、国つ者のほこりがそれを許さぬ。わたしとて、この場所の土地神を殺す暴虐を許すことはできぬ。・・・わたしは高天原にそぐわぬものを感じてしまったのだ。神を殺し、領履こうとする高天原のおろかな所業は、わたしに天照へのにくしみすらおぼえさせる」

 たとえ恭順をしめそうと、高天原びとが国つ者をひととみなして扱うかなど怪しいところだと弘足が口をはさんだ。高天原で国つ者がいかに扱われているか。かれらは一度捕らえられればみせしめに人々の面前で首を刎ねられ、そのうえ腐り落ちる首をさらしものにされるのだ。

・・・高天原に愚かしくも抵抗した者のなれのはて、おとなしく沓の下に踏まれなかった者たちのたどる道。高天原びとは指さしあって気味悪がり、嗤いあうことだろう。

 呼月の瞳のみせる深い悲しみは、孤独と言えるものなのかもしれない。高天原にそぐわぬものを感じ、みずから故郷を捨てたという呼月。彼女のまなざしには、八千穂などではとうてい掬いきれないような孤独があるのだ。

「八千穂、そなたは何をすべきか解らぬと言ったな。ならば、みつけてくるがいい。そなたの問いに答えるものは、そなたが思うよりもよほど近くにあるのだから」

 呼月は痛ましいとさえ言えるほほ笑みをしながら、告げる。

「出手母へゆくがいい。そこで見つけるのだ、そなたの成すべきことを。目にしたことを、そなたは受け入れようと、断ち切ろうと構わぬのだ。すべてがそなたのこころざしひとつ。そなたの思いひとつなのだ」

      *        *       *

 呼月はそれきり黙った。しばらくの間しんとしたままだったが、どうやら呼月のたましいは卯月の身体を離れたらしい。卯月はまなざしもどこを見ているのかわからないありさまで、しばらくぼんやりとしていたものの、伊住がすぐさま近づいて肩を揺すぶってやるとやがて一声うめいた。

「わしは、何をしておった?」

 卯月はまどろみから覚めたひとのように軽くまばたきをすると、伊住をみあげた。彼女の表情はひどくつかれており、顔色は血の気をうしなって青ざめていた。

「なにやら、頭痛がひどい・・・」

 神おろしならぬ巫女おろしのあとでは、体力の消耗がはげしいのに違いなかった。なにしろ自分でない別の存在に体を明け渡すのだ、そのあいだはまったくの無防備。ふつうならば心を静め、そのうえで神ないし祖先の御霊などを身に呼び寄せるのだが、卯月の場合はなにぶん急だった。

「ばあちゃんめ、おれたちが神社へ出向くのを待っていればいいのに。前触れもなしに他人に魂すべりするなんて、早急なのはどっちだい」

 ぐったりとしたまま物も言えない卯月を当然のようにかるく横抱きにすると、伊住は大股で室を出て行った。彼のしぐさはまったく機敏でさりげなかった。そのあとには八千穂と彦田、弘足だけがのこされたが、彦田がやけにそわそわしているので八千穂はふしぎになった。

「どうかしたの」

 訊いても彦田は答えず、じりじりと室の入り口の方ばかりみつめているのだった。なにかやって来るのだろうかと奇妙に思っていた八千穂だったが、弘足の方はにこにこして彦田の不機嫌のわけを知っている様子である。すぐにも伊住は戻ってきたが、彦田をみるなり伊住はにやにやしだした。

「なにをおっかない顔をしているんだよ」

「なんでもない」

 彦田はやはりむすりとして答えた。伊住はおかしそうに言った。

「おれがおまえの姉やになにかいたずらしないか、しんぱいだったんだろう。そう顔に書いてあるぜ。ま、安心をしなよ。おれは姉やのようなおんなはあまり好きじゃない。たしかに美人だが、おなじ美人ならもっとやわやわしいほうがいい」

 彦田は口のなかで悪態らしきものをつぶやくと、そっぽをむいた。すると八千穂とまなざしが会い、彦田はばつが悪そうにくちびるを歪めた。「きみと卯月はきょうだいなんだね」

 そう言われてみれば彦田の容貌は卯月と似通ったものがあり、八千穂はすんなり納得した。すっきりと通った鼻のあたりや穏やかな目見のあたりは、ふたりを並べてみれば似ているのが誰の目にもはっきりとわかるだろう。

「ええ」彦田がためらいがちにうなずくと、伊住が口をはさんだ。

「王坐から追い出されて路頭に迷っていたところを、青田彦が連れて帰ってきたんだ。そうさ、青田彦が、おれの住居にな」

「いやらしい言い方をするの、おまえさんは」

 彦田はにがにがしく言った。けれど表情は存外にあかるく、少し前まで顔中に青アザをこしらえていた彼のする笑顔とは思えなかった。

「青田彦どのは気にするなと言ってくれたし、阿多流さまもおれを好いてくれたようだ。ありがたいことだ」

 彦田は笑顔をした。

「阿多流さまは伊住をすてて、おれを息子にしたいとまでおっしゃっていたぞ。そうなれば伊住よ、こんどはおまえさんが居候だ」

 弘足は愉快そうに笑った。伊住はあんがい痛い冗談だったのか、憮然とした表情になった。今度は彦田がにやりとする番だった。

「おお、これは言い過ぎたか?すまん、あやまろう」

 伊住はそれを聞くと、声を上げて笑った。心底からの気持ちいい笑い方だった。腹に含むものなどなさそうな、明るい笑い方だ。八千穂はふと、伊住がうらやましくなった。八千穂は伊住のように笑えない、それどころかじぶんの笑い声というのすら知らないのだ。いまさらながら、八千穂はそれが奇妙なことなのではないかと思い始めていたのである。「そいつは困るぞ。住居から追い出されたら、毎晩女の子の寝所をハシゴしなきゃならなくなる」

「伊住にとっては願ったりだろうに」

「ばか。いくらおれでも、くたばっちまう」

 ひとしきり笑ったあと、伊住はふいと八千穂を見た。

「なんだい、皇子どの。やけに元気がないなあ」

 八千穂はなんだかやりきれないのだった。前々からじぶんが無知なのは知っていたが、ひとに笑い方を訊ねるほど物を知らないとは思ってもみなかった。知りたいことは多すぎて、けれどどこから片付けて行けばいいかわからない。八千穂はとほうに暮れていた。

 笑い方すら知らないじぶんが、どうして強さを知り得るのか。どうしてけものを調伏できるのか。出手母にゆけばよいと呼月のおんきみは言ったが、そこで何を知れというのだろう。八千穂の知らないことは多すぎて、しかも世界は果てなく広いのだった。・・・この身のなんてちっぽけなことだろうか、いちど魂のみで漂ったときのことを八千穂は思い出していた。

 昼間はどこまでも青い空が、夜になると漆黒のとばりをひきいてこの世をいちどきに覆うことのふしぎ。天にまじろぐ八千の星ぼし、かれらはいったいどこまで行ったら手に触れることができるのか。

 魂のみでさまよった、ひろい宇宙。あまりの広さ、虚ろさゆえに宇宙とよばれる暗闇は、八千穂にとっておそろしく、そしてどこまでもやさしかった。闇なる佐那巳の大神の御手と、宇宙に満ちるやさしい風はまるきりおなじものなのだ。

 八千穂はそのなかで、ちっぽけなじぶんをみつけた。ちっぽけではありながらも、たしかに存在するじぶんをみつけたのだった。そのときはじめて真由のところに行くことができたのだ。

 まずは見つけることだ、八千穂は思った。理解するということは、ひとつひとつ拾い上げて行くことだと八千穂は信じていた。

 八千穂はまじめな顔で伊住をみつめた。伊住はぎょっとしたが、おとこに見つめられるのは気味が悪いなどと、八千穂の気勢をそぐようなことはさすがに口にしなかった。それはひとえに八千穂がいたいくらい真剣だったからである。

「なんだよ、言いたいことがありそうな顔つきだな」

 八千穂はうなずくと、とてもだいじな言葉のように、そろそろと質問をつぶやいた。

「伊住のようにするには、どうやればいいんだろうか」

 伊住は眉根をよせると、なんだって?と聞き返した。やがて八千穂からくわしいことを聞きだすと、彼はすぐさま腹を抱えて笑い出した。ひょろりとした身体をおりまげて、じつに愉快そうだった。弘足も彦田も伊住ほどあからさまではないにしても、八千穂の物言いにあきれ、おかしがって笑っているのに疑いはなかった。

「ずるい」八千穂はおもわず憮然となった。「ぼくだけ置いてけぼりだ」 まがりなりにも高天原の皇子が、子供っぽく拗ねるのがまたおかしくて彼らは笑っているのだが、八千穂はなにぶんじぶんの物言いがずれているのにも気づかなかった。彼はしごくまじめなのだ。

「やっぱりおかしなやつだなあ、あんたは」

 伊住は笑いの下からそう言った。

「あんたが高天原をほろぼす霊力を持ってるなんて、信じられないな。世の中はまったくふしぎだよ」

 伊住は目のはしに涙までにじませながらつづける。

「でもおれは、そういうふしぎなら大手を振って歓迎するね」

「伊住、これは遊びではないのだぞ」

 弘足がようやくとってつけたようにそんなことを言ったが、伊住は鼻を鳴らしただけだった。

「今までさんざ笑っておいて、それはないよ。なあ、皇子どの。なにも四角くきっちりやることはないんだよ。あんたも考えすぎなのさ。笑おうとおもって気持ち良く笑える奴なんているもんか。どうやればいいって言われて、教えられるモンじゃない。自然に湧き上がってくるもんなんだよな、つまりは」

 伊住はにやりと笑ってみせた。

「ばあちゃんはああいう風に話をやたらめったら難しくしようとするが、どうってことはないんだよ。いいかい、おれたちは食いたいときに食う。寝たいときに寝る。笑いたいときに笑う。それが自然ってことなんだよ。じぶんが生きてて気持ちいいのが最高なんだよ」

 八千穂はうなずいた。

「ところが、天照だとか八十神だなんて、ふんぞりかえっていばり散らしているやつらは、自然をきらう。神さまのくれる実りを否定して、まったく窮屈に生きているだろう」

 天照ひきいる高天原は、神をことごとく芦原中津国から追い出し、人だけの暮らす完全な人代を夢見ている。それが豊かになることだと信じているのだ。神の存在をわすれた王坐の人々がどのようにして暮らしているか、八千穂は身をもって知っていた。

 つめたい含み笑い、ひとを見下す目付き、だれかを貶める悪意にみちた数々の言葉。どこまでもそらぞらしい王坐を八千穂は知っていた。

「おれたちは国つ者だ。国つ者はどうあったって自由に生きる。どんなに古ぼけていたって、苔むしていたって、おれたちはそういう神さまを忘れて生きていけるはずがないんだよ」

 伊住はじぶんでじぶんの言いように納得したのか、なんども頷いた。

                          

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この記事へのコメント

兼倉
2011年10月27日 14:50
追いついた!
読むのが遅い自分にジリジリしつつ、暇さえあれば携帯やパソコンでひたすら追いかけてました!
赤い猪はそう料理されましたか!っていうか八千穂が動物と言葉を交わせる設定がここで活かされるとは!
因幡の隣の伯耆国にはこの猪の岩を祭っている「赤猪岩(あかいいわ)神社」があって、以前神話萌えに突き動かされながら訪れて写真を撮ったりしたことがあります。
田んぼの近くにひっそりと佇んでいる神社でした。
ご神体のはずの岩も何と鳥居よりも外に放置されていて他人事ながら「いいのかこれで・・・」と思いました。
あ、そういえば八千穂が16で「今夜、きみのところに行くから」とか言い出したあたりは「や、八千穂…!!」とそれは真由以上に様々な期待に萌え滾りました。
何も知らないと思ってたのに八千穂、君という人は!(嬉しそうに)
16と17の間にあったであろう『めくるめく何事か』を妄想せずにはいられません。(汚れた大人でスミマセン)
自分を顧みず雨と降る矢の中に飛び込んでいった八千穂は、子どものころから動物たちと心を交わしていたところから、皇族よりも動物たちにこそ心を添わせていたからこそ二人の皇子の行いが許せなかったし、赤猪と森の動物たちを守りたかった気持ちもあったんでしょうね。
そしてそれ以前に命に対してとても無垢に慈しむことを知っているようにみえるのは、自分がそれを長いこと求めていたからでしょうか。
八千穂の生い立ちにホロリとなりました。
伊住も卯月も彦田も青田彦も随分物語の中に食い込んできましたね。
青田彦はショックを受けていたのが可哀想でした・・・早く八千穂が無事なのを教えてあげたい。
建御雷の役どころにもかなりびっくりしましたが、どこか武内宿祢命を髣髴とさせる趣を感じて(勝手に・・・)こちらも気になる存在です。
兼倉
2011年10月27日 14:51
スミマセン・・・相変わらず長くなりすぎたので続きです。

↓↓↓つづき↓↓↓

しかし、一番驚いたのは、物語にカグツチが関わってきたことでしょうか。
まさか天照一族がカグツチの末裔設定とは!
まったく予想してませんでした!
読み返してみたら初めの方でもチラチラそれらしき記述が出てきていましたが、全然気づけなかったです。(鈍い)
物語はいよいよ出手母ですね!
タケミナカタはいるのか!?(さすがに子ども世代は無理か・・・)
スクナヒコナはいるのか!?(好きなので気になってます)
クエビコはいるのか!?(さすがにこれは無理ですね・・・)
そして須佐ノ男と櫛名田の物語が遂に明かされるわけですね!
今後もますます楽しみです!
Rie 
2011年10月28日 03:58
>追いついた!
読むのが遅い自分にジリジリしつつ、暇さえあれば携帯やパソコンでひたすら追いかけてました!

読んでくださって、ありがとうございます!

>赤い猪はそう料理されましたか!っていうか八千穂が動物と言葉を交わせる設定がここで活かされるとは!

古事記の、萌える(いや違う、燃える)真っ赤な岩をオオナムチに落としたお兄さんの場面を読んで書きました。山つ神はアカイコにひきつがれています。

>因幡の隣の伯耆国にはこの猪の岩を祭っている「赤猪岩(あかいいわ)神社」があって、以前神話萌えに突き動かされながら訪れて写真を撮ったりしたことがあります。
田んぼの近くにひっそりと佇んでいる神社でした。

そんなすばらしい神社があるのですね!

>ご神体のはずの岩も何と鳥居よりも外に放置されていて他人事ながら「いいのかこれで・・・」と思いました。

なんだか切ないです。もっと大事にしてほしい…。ご神体ですよね…。

Rie
2011年10月28日 03:59
>あ、そういえば八千穂が16で「今夜、きみのところに行くから」とか言い出したあたりは「や、八千穂…!!」とそれは真由以上に様々な期待に萌え滾りました。
何も知らないと思ってたのに八千穂、君という人は!(嬉しそうに)
16と17の間にあったであろう『めくるめく何事か』を妄想せずにはいられません。(汚れた大人でスミマセン)

「今夜、いくから」と言って来た18歳が、チッスだけで帰るなんて、これを書いたときのわたしは純粋(というか世間知らず!?)だったですわ。汚れたんじゃない! 傷ついただけ! デーヤモンドは磨かれて美しくなるの! (なんか支離滅裂ですみません)

>自分を顧みず雨と降る矢の中に飛び込んでいった八千穂は、子どものころから動物たちと心を交わしていたところから、皇族よりも動物たちにこそ心を添わせていたからこそ二人の皇子の行いが許せなかったし、赤猪と森の動物たちを守りたかった気持ちもあったんでしょうね。
そしてそれ以前に命に対してとても無垢に慈しむことを知っているようにみえるのは、自分がそれを長いこと求めていたからでしょうか。
八千穂の生い立ちにホロリとなりました。

無垢な心VSオトナのずるさ・汚さ どちらか勝るのか。
むずかしい生い立ちの中で、自分の足で立てるか…。まだ道は遠いようです。

>伊住も卯月も彦田も青田彦も随分物語の中に食い込んできましたね。
青田彦はショックを受けていたのが可哀想でした・・・早く八千穂が無事なのを教えてあげたい。
建御雷の役どころにもかなりびっくりしましたが、どこか武内宿祢命を髣髴とさせる趣を感じて(勝手に・・・)こちらも気になる存在です。

武御雷はすくね的な人です。別の力に踊らされてるような…。
(コメント、続きます)
Rie
2011年10月28日 04:14
>しかし、一番驚いたのは、物語にカグツチが関わってきたことでしょうか。
まさか天照一族がカグツチの末裔設定とは!
まったく予想してませんでした!
読み返してみたら初めの方でもチラチラそれらしき記述が出てきていましたが、全然気づけなかったです。(鈍い)

カグツチがなんだかすごく気になったのでした。生まれてすぐ斬り殺されるなんて、あんまりだと思った覚えがあります。

>物語はいよいよ出手母ですね!

 はい! もうそろそろ、ヤツミミも出てきます。

>タケミナカタはいるのか!?(さすがに子ども世代は無理か・・・)
スクナヒコナはいるのか!?(好きなので気になってます)
クエビコはいるのか!?(さすがにこれは無理ですね・・・)
そして須佐ノ男と櫛名田の物語が遂に明かされるわけですね!
今後もますます楽しみです!

スクナヒコナという人を忘れていたようです…! なんてことだ! オオクニヌシのそばにスクナヒコナがいないなんて、梅干ののってない白米…な、の、に…。
クエビコという重要な存在もいたというのに。
クエビコをスルーしていた自分が恥ずかしいです。

こんな私ですが、どうかこれからもお付き合い下さい。
コメントありがとうございました!

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