かみなぎ23

 白野の庄を濡らしていた雨は、真由が目を覚ましたときには止みはじめていた。いつのまにか横になって眠っていたらしく、麻衾が肩まで引きかけてあった。もっと眠っていたかったけれど、耳に聞こえる音が気になって真由は身を起こしたのだった。いろりのそばで石皿をかかえ、すりこぎで何かを叩きつぶしていた柾人は、真由が起き上がったのを見て明るく笑った。

「雑魚寝で悪かったね」

 真由は首を横に振った。あたりを見回すと八千穂も伊住もいろりのそばのムシロに横になって眠っていた。伊住はこちらに背を向けているからわからないが、八千穂は猫のように身をまるめてすこやかに寝入っているのだった。質素な麻衾は彼の上半身しか覆っておらず、けれど雨で濡れそぼっていた袴はもうだいぶ乾いたらしい。真由は何げなくじぶんの髪に触れた。頭をいろりのほうに向けていたおかげで、髪の毛はすこし湿り気をふくんだばかりで乾き始めていた。

「何をしてるの」「ロウソクをつくってんだ」

 真由がなあに、と聞き返すと大豆くらいの大きさのマメがひとつぶ飛んできた。柾人がいままで石皿にのせて潰していたものだ。両手で挟み込むようにしてうけとってみると、灰色がかった黄色い実である。

「白銀の小太刀ひとつで、このハゼの実が大きな麻袋に三つも交換できるんだ。ここはたなつものもはたつものも期待できない土地だから、鉄に頼らないでも食っていけるようにならないと」

「これ、食べられるの」

 食べるにしても、煮たきしないことにはおいしくなさそうだった。柾人はすると、ちいさく笑った。見かけだけで柾人がじぶんよりも年下だとばかり決めつけていた真由は、大人びた柾人の笑顔におどろいた。

「おれも時々、腹一杯食べられたらと思うよ。けどこいつは火の神さまのくいもんなんだ。え、わからない? あのね、簡単に言うとこの実からは油がとれるんだ」

 真由は感心しながら、手のうえでハゼの実を転がしていた。柾人はふたたび慣れた手つきですりこぎを厚い石皿のうえにたたきつけ始めたのだった。

「こうして、この実を潰しちまうんだ。そのあと蒸して、搾ったもんが生ロウというんだ。手順をかなりはしょって喋るけど、こんどは生ロウに一本づつ芯を通して、できあがり」

 いうなれば固形の油皿というところらしい。真由は灯火といえば油皿しか知らなかったが、柾人からてわたされた黄色がかった細長いロウソクを手にとると、なにかしら支えるうてなを必要とする油皿などより、よほど場所をとらずに持ち運びも便利そうだった。まんなかに一本とおった芯が、ちょうど油皿でいえば芦管の役目をするらしい。

「でもまだ燃え方がみみっちいんだ。ポッと火がついたかと思うと、少しの風でもきえちまう」

「それじゃあ灯火にならないわ」

 真由はおかしくなった。柾人も気を悪くせずに肩を揺らした。

「ばかにしないでよ。おれのロウソクはこれでも庄の鍛冶びとに重宝されてんだから。どんな場所にだって立てられるし、油ほど高くつかない。これをもっと改良したら、きっと王坐からも注文がくるさ。みてなよ」 柾人は気持ち良く笑った。しばらく彼はすりこぎでもってごりごりやっていたが、そのうちに伊住も八千穂も目を覚ました。伊住はみじかい髪を掻き毟り、八千穂はあくびをかみころしていた。

「あんたたちが寝てる間に、ひとっ走りいって八耳どのに話をつけてきたよ。あんたたちが目を覚ましたら、すぐにでも会いたいって」

 柾人は手を止め、すりこぎをわきに置いた。石皿をそのままに、腰をあげる。柾人について外に出ると、数刻まえまでの豪雨がうそのように空は晴れ上がっていた。厚い雲はたちのき、その向こうにあかるい太陽がのぞいていた。手をかざしてあたりを見回すと、わずかな平地には茅葺きの住居が十ちかく建てられ、そのなかにひときわ大きな住居があった。高くて広々とした屋根びさしを持つ、おおきな住居である。あれが長の家ではないのだろうか。

「あそこは高殿といってね、火の神さまと白鉄の郎女が婚いをするところさ。火と砂鉄がまぐわうと、子が生まれる。それを玉はがねというんだ」「鉄の産屋なのね?」「そういうこと」

 ここの人たちは顕なる大神を炎にたとえ、闇なる大神を砂鉄にたとえる。あながち間違ったたとえでもあるまい。炎は佐那来の大神の御魂、つまり太陽にもつうじるし、大地のめぐみである砂鉄は母なる佐那巳の大神が産み出したものだ。母なる佐那巳の大神と父なる佐那来の大神。ふたりの婚いを鉄の生産にだぶらせて、鍛冶びとらはみずからを産屋の婆にもたとえるのだと、柾人は教えてくれた。

「そのかわり、婆とはいっても男ばかりだよ。おんなは高殿にはいってはいけないんだ」

「どうして?」

「炎の神さまは凪のむすめに鎮められた。つまりおんなに凪がれたんだ。高殿の炎はかなりの長い時間、燃やし続けなきゃならない。大事なところでおんなに炎を消されては困るから、高殿は女人禁制なのさ」

「なんだかめちゃくちゃね」

 国生みをした佐那来の女神と佐那来の男神。その子供たちである炎の神と凪のむすめ。彼らへの信仰がごっちゃになっているのが真由はおかしかったのだ。

「めちゃくちゃかあ。そう言ったのは真由がはじめてだ」

 柾人はちいさくつぶやいた。

「でもおれたちは高天原びとのように、どんな神さまを敬うとか、どんな神さまをさげすむとか言い合ったりはしないよ。ましてや神さまをころすなんて。おれたちは、おれたちを生かしてくれている神さま全部をありがたく思っているし、うやまっているだけなんだ」

 歩いてゆくほどに、さきほど雨ごしに見えていたゆるい傾斜、そこに張り付くようにして建てられている住居の数々がはっきりとのぞめた。晴れのもとで眺めても、やはり段々畑に住居が乗っているような風景は珍しかった。

 柾人は軽い足取りで大小の水たまりをとびこえると、そちらへ迷いなく歩いて行った。やがて傾斜の真ん中を貫いている岩くれの階段をのぼりはじめる。一段ごとにかなり段差がちがうところをみると、天然の岩を転がし寄せて割り砕き、計算もなく重ねたばかりの代物だろう。

 ひたいの広い苔むした丸石の階段は濡れているせいで、ひどくすべりやすい。じゅうぶん注意していたハズなのに真由は足をすべらせ、おもわず情けない悲鳴をあげた。

 たまらないのは八千穂である。真由のすぐ後ろをのぼっていた彼は、両手をさしだして真由をささえたまでは良いものの、態勢をくずしてよろけた。ゆるやかな階段ではあっても、もうかなり高いところまで登ってきていたのである。「わァっ」真由に突然しがみつかれて、八千穂はすっとんきょうな声をあげた。真由を支えそこねた八千穂のかしいでいく身体、その肩越しのはるか下方、ちいさくなった茅葺きのやねの数々を目にとめ、真由は目をかたくとじた。石の階段をもくもくとのぼっていたときは気にならなかったけれど、高い場所にいるというのはこんなにも落ち着かなく、息をするのもままならないものなのだ。

 八千穂のうしろに続いていた伊住が八千穂のからだを受け止めなければ、ふたりして今来た道をごろごろ転がり下っていたかもしれない。

「ばか、足元に気をつけて歩けよ」

 伊住はため息を含ませながら言った。八千穂の肩越しに伊住の顔がぬっとちかづき、真由をこばかにしたようにせせら笑った。

「どじ真由め」

 言い返そうにもなにぶん足元が不安定であり、伊住のしっかりと支えてくれる腕がないことには八千穂もろとも転がっていたかと思うと、自然とつよい言葉は彼女の口からでてこなかった。

 すなおにお礼も言えないし、かといって気丈に言い返すこともできず、真由はなんだか気まずいものを感じていた。・・・いつのまにか真由は伊住に妙な気後れをかんじており、彼を前にして言いたいことが半分も喉のところで立ち止まり、とどこおっている。まったくすっきりしない状態なのだった。

 柾人はそうこうしているうちに、石の階段をそれて、わきの道にはいった。白野の庄の長、八耳の住居はゆるやかな山をざっくりと削った段々のうえにある。やはり平地とは建物の建て方もちがうのだろう、木組みの太ぶとしい柱が複雑に組まれ、住居をささえているのだ。

 ざっと数えて二十を越える住居は、みなそのような造りだった。傾斜を上から下までゆるやかに蛇行しながら貫く丸石の階段をへだてて両脇に、茅をふいた屋根に高床のどっしりした住居が一段ごとにいくつか、きっちりと収まっているのだ。

「平地がないゆえ、このような造りなのだ。驚かれたか?」

 八耳は、客人を見るなり愉快そうに笑った。その豪快な笑い声は雷のようで、真由はびっくりせずにはいられなかった。もしや先刻ひびいていた遠鳴りの雷の音は、彼の笑い声ではないかとふと思ったほどだ。

「土地はないが、ひとは増える。山を削って住居を打ち立て、そうして出来上がったのが、この鍛冶びとの里、白野の庄なのだ」

 灰色の髭はまさに鉄の糸のようで、まなざしは厳しくもやさしいのだ。たくましい身体に似つかわしい大きな赤い手のひらが、いやでも目に入る。八耳は身振りをつけて話をするのが癖らしい。愉快なときなどは両手をはげしくたたき合わせるので、彼のふしくれた肉厚の手におのずとまなざしが行くのであった。

「八耳どの、おれたちのここへ来た理由だが・・・」

 伊住が言いかけたが、八耳はそれを制した。

「そちらは、因幡の方々だろう。柾人から聞いた。因幡は東だ、日の昇る場所だ。であれば、ばばどのが言っておったのは、そのむすめごのことか。大蛇のむすめが東からあらわれる。それが古巫女ばばの最後の予言なのだ」

「大蛇のむすめ、か。呼月のばあちゃんは、こいつを知っていて出手母へ行けと言ったんだな。やっと合点がいったぜ」

 伊住は息をついた。真由もまったくため息をつきたい気分だった。柾人は言っていた、真由が肥川をよみがえらせ、土地をよみがえらせる大蛇のむすめなのだと。正直を言うと、大蛇神のむすめなんて言われることに気味悪さは否めなかったが、真由がかの神となにかしら繋がりがあるのもまた確かなことなのだ。

「ばばさまの予言というのを、くわしく教えてください」

 真由はこころを決めてたずねた。すると八耳はあらためて真由を見つめ、それからふいに何かを懐かしむ瞳をした。そのまなざしがとてもやさしいので、真由は戸惑った。

「ばば自らがしゃべる口を持ち合わせている間ならばよかったのだが、もはや彼女は黄泉国のひととなってしまった。であれば、わたしがかわりにしゃべろう。・・・出手母は肥川の川べりには、以前まで六つの里が連なっておった。現在となってはもはや過去のこと。痩せた土地ではどうあっても日々の生活が立ちがたく、皆ひとがよその土地をもとめて散り散りになってしまったのだ。・・・出手母は肥川の六つ里として、この土地がいや繁栄ていたのは、大蛇神が肥川の主としておられた頃までのことだ」

 八耳はそこでいちど言葉を切った。

「大蛇神は荒ぶる神だ、年ごとに肥川を氾濫させ、川べりに住まう人々をくるしめた。与えられた実りのことを忘れおおせ、水害のむごさを目の当たりにする度にわれらは大蛇神をののしり、憎みさえしたものだ。いまならば、それがどんなに愚かしいことであったかがわかる。われらは神無しには生きられぬということが」

 八耳の低い声音には、悔いと悲しみがあるのだ。

「大蛇神はあなたがた川べりのひとびとを愛しんでいました。なのにどうして、川を荒らしたりしたんだろう」

 八千穂は独り言めかしてつぶやいた。八耳がぎょっとしたように八千穂をみつめた。

「あなたはまるで、大蛇神を知っているように話すのだな」

「知っています。あのひとは、かなしくて、ひとりぼっちのさびしい神だ。まゆの夢のなかで彼と目交いあった一時に、ぼくは少しだけ大蛇神のこころを覗くことができた・・・大蛇神はぼくのこころも覗いた。大蛇神はぼくを信じてくれた。まゆ、なにを驚くんだよ。ぼくが大蛇神にこころを開かなかったら、彼はぼくが現身にもどるのをきっと許してはくれなかった」

 八千穂は言葉をきった。八耳は目を瞠ったあと、しずかに続けた。

「荒ぶる神を、さびしい神と言ったのは、あなたで二人目だ」

「二人目?」

 伊住が聞き返した。八耳はうなずいた。

「彼もあなたと同じ瞳をしていた。陰りがありながらも、したたかな瞳だ。あなたがたお二人は須佐ノ男にゆかりの方か」

 八千穂と真由は知らず知らずのうちに顔を見合わせていた。

「真由どのに八千穂どのか。・・・あなたがたは、わたしの知るひとびとによく似ている。櫛名田と須佐ノ男に」

「八耳どの、あなたはふたりを知っているんですか」

 真由は落ちつかなげにたずねた。

「知るも何も、この白野の庄を開いたのは、須佐ノ男であれば。彼は肥川の大蛇神に認められたおのこなのだ」

 八耳のはなしによると、須佐ノ男は高天原を追われたのち、出手母の鳥髪にたどり着いたという。位置からするとこの庄の下流にあたる。櫛名田は肥川に連なる六つ里をすべる鳥髪の大長の娘であり、毎年のように肥川を荒らす大蛇神を鎮めるための生け贄にならねばならなかった。川べりにすまう人々は、毎年そうして大蛇神の荒ぶるこころを鎮めてきたのだ。

 偶然、櫛名田の輿入れの時に鳥髪に来合わせた須佐ノ男は、櫛名田をあわれみ、大蛇神を鎮める。大蛇神のむくろのあとには砂鉄が大山となってあらわれ、この土地が鉄の産地なのだと須佐ノ男に教えたのである。須佐ノ男は高天原の鍛冶の技術を地元の人々に指導し、白野の庄をうちたてた。そのあと、何かに追われるように櫛名田とともに庄を旅立ち、御室山のふもとに自らの名にちなんで須佐なる里を開いた。白野の庄と須佐のひとびとはごく親しんでいたが、高天原の天照に須佐ノ男がころされ、櫛名田も行方しれずになってからというもの、かの里はぱったりと途絶えてしまったのだという。

「須佐ノ男が死んでのち、この庄も高天原のものとなってしまった。高天原のために武器をつくることに鍛冶らの不満はすこぶるおおきい。しかし、抗おうにもわれらには蓄えがない。大蛇神のたましいが消え去ってしまってから、豊かな土地の恵みもまたわれらの手から擦り抜けてしまったのだ。わかっておる、わかっておるのだ。あなたがたがここを訪れたわけは、国つ者の盟約にしたがってのことであろう。しかし、ようやく高天原へのあらがいの機会がおとずれようと、われら庄の人間は高天原のために武器をつくりおるようなもの。どうしてともに戦えようか」 八耳の声音が、しぼむように小さくなった。

「われらは須佐ノ男を慕っておった。それを殺した天照を憎くも思う。しかし、われらに手助けするものはもはや何もないのだ。大蛇神は死に、われらは高天原に首の皮一枚で生かされている、これが現実よ」

「大蛇神のたましいは死んでいません」

 真由は言った。八耳は信じがたいことを聞いたというように眉根を絞ったが、それは気休めなどではない。真由は胸元から八千穂にもらったヒスイの勾玉をひっぱりだし、左のてのひらに置いて八耳の目の前にさしだした。勾玉はあかいひかりを放ち、そのひかりを強めたり弱めたりしながら、一定の脈動をみせた。

「まこと、それは大蛇神の御魂のかがやきだ」

 八耳はうなった。眼は驚きに瞠られていた。

「大蛇神はいちど、須佐ノ男に御魂をあずけたと聞いている。ふしぎな輝きをその剣ははなっていたものだ。みずから剣身が輝いていたのだぞ。その血塗られたようなまざまざしい色彩、忘れるわけがない。・・・しかしその時は、十拳もある長剣であったのだ。わたしがこの目ではっきりとみたのだ、間違いない」

「その剣というのは、勾玉となにかつながりがあるのかしら」

 真由は言った。

「わからぬ。しかしたしかに大蛇神の御魂を領履いていたのは須佐ノ男ただひとり。須佐ノ男は剣に選ばれた振るい手なのだ、どんな力びとだろうと、彼いがいにあの大蛇のつるぎを振るうことはできなかった。持つことさえも、ままならなかったのだ」

「待てよ、つまりその剣というのは、大蛇神の魂を籠めた器ってところだろう。・・・わからないね、どういうわけだい。須佐ノ男の持っていた大蛇神のたましいが、どうして勾玉として天照のもとにあるんだよ」

 伊住がつぶやいた。八千穂はすると、なにかに思い当たったように声を上げた。

「いちど、大蛇の剣を砕いたんじゃないだろうか」

 ごく自然に八千穂はそうおもえたのだった。天照が剣を・・・魂の器を壊したということは、大蛇神に勝利したということ。神の御魂を鎮めるのに成功したものの、天照は大蛇神のあらぶる霊力を恐れたがために、三つに分けてヒスイの勾玉に封じ込めたのではあるまいか。

 八耳は銀色のみじかいひげをごしごしと撫でた。

「まさか、そうそう簡単に砕けるような代物ではなかったぞ。ちょうどこの勾玉のように、血の色を内からはなつ白銀の剣は、われらが鍛えた鍛冶ものなどたやすく両断する威力だったのだ。あれは、ひとならぬ者の持ち物よ。その勾玉も、あるいは、須佐ノ男のときのように持ち主の滅びを引き起こすのではなかろうか・・・情けないが、今もこの輝きをまえに、身が震えるほどの恐れをなしておるのだ」

 真由はいそいで勾玉をしまいこんだ。八耳はようやく息をついた。

「あなたがたは、この輝きをみても何ともないのか」

「神さまが籠められてる勾玉だとおもうと、気味が悪いだけさ」

 伊住は肩をすくめた。真由にしてみても大蛇神に惧れがないわけはないが、気味が悪いとか嫌っているわけではない。げんに真由の肌に勾玉はなじんでしまっているし、ないと落ち着かないくらいだ。勾玉の輝きにも、はじめの頃のように心を喰われる心配はしていなかった。

 真由の父母が櫛名田と須佐ノ男だとあかすと、八耳は声を大きくした。「あなたが、櫛名田のお子か!なんと、なんと。あのとき彼女の腹を膨らませていたのは、おなごであったか」

 それから彼は大きな手を打つと、喜色をあらわにした。目尻はさがり、くちびるからは歯がこぼれる。真由をまじまじとみつめる瞳はとてもやさしい。

「真由どの、あなたが大蛇のむすめごだというのに、これで納得がいったぞ。これで希望がうまれた。大蛇の勾玉をたずさえた大蛇のむすめが肥川をよみがえらす日は、ごく近いような気がする。あなたがたにはでき得る限り協力をしよう。・・・国つ者としての盟約は、けして忘れたわけではないぞ。庄のひとびとに代わって、わたしが喜んであなたがたを迎える」

 八千穂は八耳の豪快な笑い声のなかで、ひとり目を伏せていた。伊住はそれに気が付いたが、何も言わずに鼻の頭をなんとなく掻いていただけだった。

 その日の夕暮れから、白野の庄では客人たちを歓迎するささやかな宴が開かれた。もちろん上座に座るのは真由である。地主神をうしなってやせ細った肥川をよみがえらすと予言された大蛇の娘の来訪とあっては、庄の人々が総出で八耳の住居におしよせたのだった。蓄えられていた山ブドウの果実酒や口噛みの甘酒が訪れたすべての人々にふるまわれ、塩もみそも酒のつまみとしては結構なものだった。

 庄の長の御館らしく広々とした本殿には、大蛇のむすめというのを一目みようと、座る隙間もないくらいに人がつめかけた。どこからこんなに人がわき出てきたのかと、真由は瞳を白黒させているしかなかった。それでなくとも伊住や八千穂とも離され、まったく窮屈なおもいをしていたのである。八耳は真由になにかと気を使ってくれたが、それは彼女にとって重苦しいものですらあった。

 真由は王坐での上にも下にも置かぬ扱いを思い出していたのだった。王坐ではだれも真由を真由としてみとめない、そのさびしさをふと思い出したのだ。けれど、うつむいたままの真由の髪の毛を引っ張るものがあり、彼女はそっと顔を上げた。真由の右の肩の上に、重さをかんじないほどちいさな生き物が居たのだ。

「おまえ、どこから入ってきたの」

 そのすがたを言い表すなら、くりくりとした瞳をした毛深いネズミと言えばいいだろうか。ふさふさの埴色の毛を波のようにはやしたテンが真由の肩に乗っていたのである。真由は身をおしつけてくるけものの愛らしさにほほ笑みをこぼした。高坏に目を走らせ干鰯を取ると、こまかく砕いて与えてみる。小さくも牙をもつテンは、口をめいっぱい開いて鰯をかみ砕いた。ふさふさしたしっぽが真由の頬にときおり触れ、そのくすぐったさに彼女は声を上げてわらった。宴の席はばらばらになりはじめていて、もはや真由のことなどだれも気に止めていない。気になるのはお酒のことだけだろうと思うと、真由はおかしくなった。

 埴色の毛並みのテンは、しばらく真由の両肩をせわしなく行き来していたが、やがて膝におりるとどこかへしとしと歩きだした。しっぽを立て少しばかり速足に歩いて行くが、すぐに真由の方を振り返る。彼女はためらうこともなく上座をぬけだして、テンのあとをおった。

 二足くらい先を進むテンのしっぽを追い、暗闇のなか廊下を渡ってゆくと、いつのまにか風に包まれたのを真由は知った。知らぬまに御館をぬけでてしまったようだ。白野の庄の住居はほとんどが傾斜に建てられており、もともと足場のないところに複雑に柱をくみたてて、ちょうどそのうえに住居が乗っかっているような形なのだ。

 真由はこの住居がごく高い場所にあることを思い出し、身をすくめた。「おまえ、どこにいってたのよ」

 いちど闇にまぎれて姿が見えなくなったテンをみつけたとき、真由はおもわず安堵の息をこぼしていた。ここから戻ろうとしてもあたりに灯火はなく、あと一歩でも踏み出したら暗闇の中に落ちてしまいそうに思われたのである。真由がこわがりというのでもなく、あたりに満ちるのはほんとうの闇だった。

「こころぼそくなったじゃないの」

 テンのしとしとという足音とは別に、すのこを軽やかにふみしめてくる人の足音も聞こえた。声音で柾人とわかった。

「宴にもどろうか?」

 そう訊かれて、真由はううんと答えた。柾人はちいさく笑った。

「だよね、おれも退屈してたんだ。・・・こいつめ、おれの言っていたこと、きっちりわかってて真由をつれてきたのかなあ」

 柾人はぽそりと漏らした。テンを抱き上げるのが気配でわかった。

「様子がヘンだったから、あんたのことちょっと気になっていたんだ。あのね、あんまり深刻に考えない方がいいとおもうんだ。おれが言うのもナンだけど、大蛇のむすめだなんだ言っても、みんな真由のことをダシにして、飲み食いしたいだけなのさ。・・・ああ、気を悪くしないでよ。みんなのあんな楽しそうな顔、とにかくとても久しぶりなんだから」

 柾人は真由の手を取ると、真っ暗な中をすすんだ。ずいぶん迷いなく歩くものだと感心していた真由だったが、どこに行くのかたずねる気も起きなかった。柾人は真由に歩調をあわせてくれており、足場の危険なところを抜かりなく教えてくれた。

「白野の庄で、ここが一番高いんだ」

 ぎしぎしきしむハシゴをおそるおそるのぼり、二人がついたのは高倉の茅葺きの屋根のうえだった。転がるのをおそれて這うようにして茅群れをぎっちりつかんでいると、柾人は真由を強いちからで引き上げてくれた。

「風の通り道なんだよ、ここ。沖から吹いてくる風が、ここを通って西の伊和実にとどく。ほら、聞こえるだろ」

 柾人は真由と肩をならべて茅葺きの屋根のうえに座ると、ひととき黙った。真由は風の中に耳をすましてみた。すると、角笛の音色をずっと低くしたような、どこかくぐもった音がまず聞こえた。風は空をふるわせ、大地に息吹をあたえてまわる。

「いい風が吹くのね」

 真由には柾人や翁の言ったように、この土地が死んでいるとはどうしても思えなかった。柾人はしばらくテンの毛並みを撫でていたが、思い切ったように言いだした。

「話、聞いたよ。真由はやっぱり出手母のむすめなんだ。それも、正真の白野のむすめだ。真由の故郷はここなんだ」

 柾人がやけにうれしそうに言うので、真由はとまどった。

「櫛名田といったら、ここから下流にあった鳥髪の大首長の娘だったというよ。母親の故郷は真由の故郷でもあるだろ? 鳥髪はもうないけど、須佐ノ男が白野の庄を打ち建てるときに、里人のほとんどがこっちに移ってきたからね。だから、ここが現在の鳥髪でもあるのさ」

 柾人はながい腕を空にのばした。その先をテンが行ったり来たりするのが、闇になれた真由の目にも見ることができた。真由はひざをかかえ、顔をうずめた。

(ここがわたしの故郷?)

 ここはいい土地だ。はたつものもたなつものも採れないとは言うけれど、ならばなぜこんなに人々は楽しげなのか。生活がそれほど豊かではなくとも、庄の人々は生きるよろこびを知っているのだ。わずかな酒と、土器にちょっぴりの肴がわりの塩やみそでも気持ち良く酔い、気がおけない仲間たちとくだらないことで笑い合う。仕事に精をだし、そうして身を立てている自分たちを誇りに思っているからこその、心の豊かさではあるまいか。

「真由はここに帰ってきたんだろ。そうだよね」

「わからないわ」

 真由は正直に言った。ここが真由の故郷だというのなら、因幡は気高の里だって真由の故郷だ。

「・・・じゃあ、ここに残ったりはしないんだ」

 柾人が残念そうに言うので、真由はなぜかすまない気持ちになった。「わたし、まだやらなければならないことがたくさんあるの。それが何かはわからないけれど。だから、まだ立ち止まれない。どこかにじっとしてはいられないのよ」

 真由が高天原で神凪ぐおなごだと名指しされ、出手母では大蛇のむすめとして迎えられる。これはどうしたって偶然とはおもえない。きっと、真由には真由の役目があるのだろうと、彼女は思いはじめていた。真由しかできない何か、それをここまで探しにきたのだ。

 真由の故郷は、ここかもしれない。けれど、今はどうしたって立ち止まれないのだ。巫のひとりとして真由が霊力を持つ意味を、見定めなければならないのだから。

「真由、あれが聞こえる?」

 柾人がふいに言った。怯えをまぜた声音だった。

「ただの風の音なのかもしれないけど、おんなの悲鳴が聞こえない」

「いいえ、なにも聞こえないけれど」

 耳に聞こえるのは、風のうなり声ばかりだ。真由はそう言葉をかえしたが、柾人の物言いにふいに背筋が寒くなって身を震わした。テンがなにかに怯え、毛を逆立てた。けものは人よりも異変に敏感なのだ、何かを感じるのだろうか。

 その時、真由の名を呼ぶ声がしたから響いた。伊住だ。

「なにかしら、行ってみるわ」

「足元に気をつけなよ」

 柾人はそう言い、テンがじぶんの肩をするりと降りて、真由の合わせの着物のふところにもぐり込んだのを苦笑いとともにながめていた。

「こいつは真由を選んだみたいだ。連れてきなよ」

「いいの」

 真由ははしごに半分足をかけながら、おもわず上ずった声を上げた。正直に言うと、真由はこのテンに愛着を感じはじめていたのだ。胸元にふれる毛皮があたたかくて、くすぐったくて真由は笑った。いのちの感触が触れてくるのがわかり、いとしくてならなかった。

「そのかわり、そいつ、まだ名がないんだ。つけてやってよ」

 テンは榊の実をこのむ。だからその木の下に罠をしかけておけば、おのずとテンがとれるのだと柾人はいった。けれど、とれたのがまだ子供でありそのうえ足に傷も作っていたから、取り扱いに困っていた里人から数日前に彼がゆずりうけたのだと。

「瞳がひとつ星みたいにきれいだわ。だから、そうねえ、すばるはどう。ひかるとか」

 すぐさま提案した真由だったが、柾人は首を振った。

「だめだよ、そんなの。そいつは男だからね、なよなよしいのじゃなく、もっと強そうなのじゃないと」

「あまり強い名前にして、かわいらしさを忘れさせるのもどうかと思うけど」

「肝が強いってとこで、八耳というのも考えていたんだけどね?」

 うたげの席から漏れ出してくるのは、白野の長、八耳の豪快な笑い声だ。柾人が冗談めかしていうので、真由はふきだした。

「でもテンとおなじ名だと聞いたら、さすがに気を悪くするかなあ」

 そういう間にも伊住の呼び声がふたたび響いて、真由はハシゴをおりだした。今日いそいで決めずとも明日ゆっくり考えればいいこと。

「柾人が決めて。わたしが考えると、みんなやさしくなっちゃいそうだもの」

 そう言い置くと、真由はハシゴをおりきった。闇に慣れたとはいえ足元に気を配り、やがて宴の席から漏れでる灯火のなかに伊住の背中をみつけると、真由は彼に声をかけた。

「どこにいっていたんだよ、おまえは」

 伊住はそうこぼしたが、真由の胸元がやけにごそごそ動いているのに目をとめ、結んでいたくちびるをゆるめた。

「ふところで何を飼っているんだい」

 真由がすこし胸元の合わせをゆるめると、テンが首を出した。伊住はすかさずその首根っこをつかまえると、ぞんざいにつまみあげた。

「へえ、こいつはテンじゃないか。それにしても、チビだなあ」

 伊住は毛を逆立てて威嚇してくるテンをかるく睨むと、意地わるく笑うのだ。

「ちびテンとちび真由で、いい組み合わせだねえ」

 真由はむっとした。

「ひどいわよ。わたし、もうチビじゃないんだから」

「いつまでたっても、チビはチビさ」

 真由は不服を唱えたが、伊住はもうとりあってはくれなかった。

「八耳どのが話があるとさ」

 真由にテンをほうりなげると、彼は廊下をひとりで歩いて行く。

「そのチビ真由をくどいたのはどこのだれよ、ばか」

 伊住の背中に真由は悪態をついた。あまりにひどい子供扱いが、真由は不満だった。だんじて伊住にちやほやして欲しいと言っているのではない。ただ一人前としてみてほしいだけなのだ。

 真由はすこし落ち込んだ。やはり真由はいつまでたっても伊住にとってチビなのだろうかと、幼いままなのだろうかとふと思ったからだった。

 八耳の話というのは、宴のいそがしさに追われる前にも彼が口にしていた、須佐の里についてのことだった。白野の庄をはなれた須佐ノ男が、櫛名田を妻として伴い、打ち建てた里。八耳はそこを訪ねることを提案したのだった。

「じつを言うと、古巫女が予言したのは大蛇の娘の訪れだけで、そのあと、どのようになるのか見当もつかんのだ」

 八耳はすまなそうに言うのだった。

「まあ、げんに真由どのはあらわれたことだし、これからもどうにかなるだろうとは思うが」

 真由はすこし呆れた。どうにかなる、で済ませてしまっていい問題だろうか。よく言えばおおらか、わるく言えばてきとうな庄の長に、伊住もいささか閉口ぎみだった。宴の席をあらためることもせず、八耳は伊住と真由、それに八千穂をひろい室のすみにまねいて話し合っていたのである。盛り上がっている庄の人々を尻目に話し合うようなことではないように思えたが、八耳はべつだん頓着していないようだった。

「御室山はここから東南に馬足で一日ばかりの距離。そこには田地にするに最適の、すばらしい湿地帯が広がっておる」

 八耳のくちぶりは、そのような湿地帯がまるで役に立たないものであることを惜しんでいるようだった。大蛇神のたましいが高天原の天照に持ち去られてから、土地神をうしなった肥川やその川べりでは、満足に穀物もとれないのだ。

「須佐ノ男が死んだ忌むべき土地だが、そういう土地にこそ何か遺されているように思われてならん。須佐ノ男の魂が、なにかを呼んでおるような」

「ぼくたちはそこに行かなきゃならない」

 とつぜん八千穂が強い調子で言った。

「因幡でもずっと感じていたんだ。なにか、鈴の音のようなのを。あのときはすぐに消えてしまったけど、いまならはっきりと聞こえる」

「何が聞こえるんだい」

 伊住が訊いた。

「ひとつひとつははっきりしているけれど、まったくまとまっていないんだ。だれかの泣き声だったり、笑い声だったり、男の怒声だったりする。そのなかにまじって、まゆを呼ぶひとがある。風に乗って、その声が東から流れてくる」

「須佐の里?」

 真由がそろそろと訊ねると、八千穂はたぶん、と答えた。その表情がやけに淋しそうなので、真由は気になった。

「ぼくが出手母にひかれたのは、きっとあの呼び声のせいだ」

 八千穂はなにやら青ざめた表情で言った。八耳は八千穂のおかしな様子も気にかけず、すぐさま手をたたくと、手の空いている者に酒を運ばせた。

「なにを青い顔をしておられる。酒でも含まれよ、たちまち気分が良くなるぞ。・・・須佐の里に赴くというのならば、早いほうがいい。馬につける飼い葉は今夜のうちにでも用意させよう。案内はそちらの地理に詳しい者をつける」

 八耳は八千穂の背中を手のひらでばちんとたたいた。八千穂は咳き込み、真由はなにやら八耳の無神経さに少しむっとした。

 八千穂はまた何かひとりで悩んでいるのかもしれないのだ。八千穂がなにかと物を考え過ぎる性格なのは否定できないけれど、相手がそういうひとならば、きっちり安心させてあげなければ駄目なのだ。そうでなければ、いつまでたってもささいなことで八千穂は悩み続けてしまうだろう。

「お酒で紛らせることのできないことだってあります」

 真由はすこしまなざしを強くして、八耳をにらんだ。

 それ以前にも彼の無神経さは真由にとって不愉快ですらあったのだ。さきほど、名前をまちがえられたことも真由の不興の原因だった。八耳は真由を「櫛名田」と呼んだのだ。そんなことでぷんぷんするほど心が狭くはないつもりだが、なんだかじぶんが櫛名田の影のように見られているのが真由はイヤなのだった。ただの考えすぎなのかもしれないけれど、どうしても反感の気持ちがおこってしまう。

 八耳は真由の不機嫌の理由もわからず、ふしぎそうな顔をしていた。八千穂はすっと立ち上がると、しずかに言った。

「すこし風にあたってくるよ」

「待って、八千穂。わたしも行く」

 うまい具合に八千穂が席を立ってくれたので、真由もそれに続いた。このまま宴の場にいるのは、どうしても気まずかったのだ。

「なにか彼女に気に障るようなことを言ったか」

 ふたりがその場から消えたあと、八耳は髭にふれながらため息をついた。伊住は肩をすくめ、土器にみたされた山ブドウの果実酒を呷っただけだった。酒はぴりぴりと舌に酸っぱく、伊住は口のなかで少しのあいだ液体をころがしてから一息のうちに呑みくだした。

「似ておるのだ、しかし」

 独り言のように八耳は言った。

「真由が、櫛名田というのにかい?」

 伊住はつぶやいた。八耳の声音は、ただの知り合いを語る口調ではない。なつかしさ以上に、せつなさがある。伊住はそれを耳聡くききつけていたのだった。

「真由どのは、櫛名田と生き写しだ。母子であれば当然だろうが、わたしにはまこと十七年前の櫛名田を見ておるような気がしてならん。あのむじゃきな笑い顔に、おこればすぐにでも顔を赤くする短気さ。みょうに鋭いところがあるとおもえば、ひどい泣き虫でもある」

 伊住はふいにおかしくなった。それではまるきり真由と櫛名田はおなじ性格だったということだろうか。

「そのうえ、手に負えないどじで?」

 言うと、八耳がそのとおり、と相槌をうった。

「真由どのが櫛名田ならば、八千穂どのは須佐ノ男だ。彼はまだおさないが、たしかに須佐ノ男に瓜二つだ。一体彼にはどんな血が流れているのか」「天照のすえの皇子だぜ、あいつは」

 隠しておいてもいずれ知れてしまうことなので、伊住はそう明かした。「やはり高天原の血か」

 八耳は一瞬目を瞠ったものの、納得したようだった。

「ふたりを見ていると、昔をおもいだす。須佐ノ男と櫛名田のむつまじさは、はたで見ていて妬けてくるほどだったぞ。白野の庄が一番活気づいていたのは、あのころだ。あのころがわたしは恋しくてならん」

 大きな手には不似合いなほどのちいさな土器に酒をつぐと、八耳は飲み干した。伊住に笑顔をみせる。

「すべてが落ち着いてからでも、ふたりには庄にとどまって欲しい。真由どのにならば、この庄をゆずってもかまわぬのだ。かまわぬどころか、そうせねばならん。なぜなら真由どのは鳥髪の大里長、足名椎どのの孫娘であれば。わたしなどとちがい、正当な長だ」

「けっこうなことだ」

 伊住はかるく口笛をふいた。いつも居場所をもとめていた真由。彼女にとって、出手母は白野の庄が故郷であったのだ。真由にしてみれば喜ぶべきことではないか。

「伊住どの、まことにけっこうなことか?」

 前触れもなく八耳がなにか含んだ物言いをしたので、伊住はぎょっとした。飲みそこなった酒が口の端からこぼれてしたたる。伊住は舌打ちしながらそれを荒っぽく指でぬぐった。

「八千穂どのはいささか頼りないが、これからもっともっと伸びおるぞ。まったく楽しみなおのこだ」「なにが言いたいんだよ」

 伊住は取り乱したじぶんを心中でののしりながら、やや乱暴に言い返した。

「いまさっき、ふたりが連れ立って出て行くところを、あなたはなんという顔をしてみていたのだ? まるで恋に追われた・・・」

「おっと」

 伊住はうすら笑いを滲ませながら、八耳の言葉を制した。

「たのむから、それ以上は言ってくれるなよ」

 それから彼は口ににがい果実酒を、一息のうちに腹に呑み込んだ。

                 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック