かみなぎ24

 須佐の里への案内人役は、柾人が願い出た。

「ふしぎなんだ。この前の冬にもね、やっとみつけた獲物を追っていて、いつのまにか里の跡についたんだ」

 けものがめったに捕れない土地でたまさかみつけた獲物は、どんな苦労を支払ってでも捕らえるべきものにはちがいない。じっさい、柾人のような育ち盛りの若者には、干物ばかりの生活は耐えられないのだった。がむしゃらに獲物を追い、空腹で喉も干上がっていたが、したたる生肉のことを考えただけで疲れなどわすれたと、柾人は言った。

「いくつかあった茅葺きの住居はめちゃくちゃで、屋根なんかとうになくなって苔むしていたよ。真ん中に、ぽつんと黒焦げの御館のあとがあった。おれ、須佐ノ男というひとは知らないけど、まわりにりっぱな田畦もあったし、あそこがみんなの言っていた須佐の里だとすぐにわかった」「どこがふしぎなんだよ」

 伊住が口を挟んだが、柾人は気にせずつづけた。

「里の真ん中に、御館の跡があったと言ったよね。そこにはむかし、一本きり、真っ黒な柱が立っていたんだ」

 柾人がくちごもるように言葉を切ったので、真由は先をうながした。「はしら?」

 すると柾人は神妙にうなずいた。

「天照に里が焼き払われたときに燃え残ったものだろうね、きっと。その柱というのが、まったくいわくありげなんだ。柱によりかかるようにして、須佐ノ男は死んでいたというよ。まなこはつづらかで、歯を食いしばり、しっかりと足は地面を踏み締めていたって。何かを睨みつけるまなざしは、きっと里を荒らした敵をはげしく憎む瞳だったんだ・・・あんまり憎しみの表情が濃いから、はじめに彼のむくろをみつけた奴は、須佐ノ男が生きているものだと思いこんで声をかけてしまった、そうも聞いてる」

 柾人はいちど言葉をくぎり、くちびるを湿らせた。

「須佐ノ男のむくろは柱のそばの土に埋められた。おれがふしぎだっていうのは、これからだよ。けものたちはまるで、もがりをやるみたいに焼け焦げた御館のまわりに集まって、頭をたれていたんだ。ちょうどそのあたりが須佐ノ男の死んだ場所じゃないかな。集まったけものの数も二、三じゃないよ。山じゅうのけものが須佐の里にやってきたような数だった。そのなかに、ひときわ立派な男鹿がいたんだ。そいつが一声鳴き出すと、ほかのけものたちがみんな口々に鳴くんだ。集まってきた鳥の数もハンパじゃなかったよ。見上げても、空が見えなくなるほどだった。・・・けものたちはね、須佐ノ男が死んだ日をきっちりおぼえていて、毎年喪忌みにやってくるんだ」

「まさか」伊住は笑ったが、柾人はまじめだった。

「けものが須佐ノ男を喪すなんて」

 真由もにわかには信じがたくて、つぶやいた。すると真由のうしろでたづなをとっている八千穂が言うのだ。

「けものだってこころを持つんだよ、まゆ。ぼくたちがひとの死を悼むように、けものにとっても生は喜びだし、死は悲しみなんだ」

「けものに悼まれるなんて、どんな奴だったんだろうな」

 伊住はひとりごとを言った。

「なんとなく、想像はつくがね」

 なんとなくだったが、伊住には須佐ノ男というのが、よほどの変わり者のように思われたのだった。

 さえぎる雲が一片もみあたらない晴れ上がった空のした、緑の木々の放つむせるくらいの青臭いかおりが鼻にただよってくる。せわしい斜面をのぼりきったところで、こんどは休む間もなく切り立った白い断崖がのぞめた。先頭に馬を歩ませていた柾人はいちど後ろを振り返り、馬を休ませようと言った。

 出手母の山々を遠目にながめたときには、ゆるやかな稜線を見せる女山の連なりが、こんなにもけわしい道を内に抱え込んでいるなんて想像もしていなかった。真由は鼻のあたりに浮かんだ汗のつぶを指で拭いながら、つぎはあの断崖をどう越えるのかを思い、そちらをみつめていた。細い線のようなのが岩肌を横一本に貫いているのが認められたが、それはどうやら道らしい。この道は遠くの浜に向けて続くものらしく、須佐の里ではなく玉造で栄える明湯の庄に直結しているらしい。

「須佐ノ男は大蛇神の認めたひとさ。おれは見たことがないけど、庄のみんなは口をそろえてそういうよ。大蛇神の魂の籠められた十拳の剣の振るい手でもあり、荒ぶる神さまみたいな強さだったって。だけど心根も優しいと、みんな決まってそう付け加えるんだ。見目も良くて、腕も立つ。心根もやさしい。須佐ノ男に惚れないおんなはいなかったってね。・・・庄のおんなたちの言うことだから、ひいき目というのもあるだろうけど」

 柾人は我がことのように誇らしげに言うのだった。

「大蛇神はおれたちにとってだいじな神さまだったけど、荒ぶる霊力は川べりの里人たちを長い間苦しめてきたんだ。須佐ノ男は荒神を殺さずに鎮めてくれた。だから、おれたちにとっては英雄なんだ」

 馬をすこし休ませたあと、一行はしろい断崖を削ってつくられた細い道を進んだ。

「気をつけて。ここを通り過ぎるより、落ちるほうがずっと簡単だ」

 先頭をいく柾人が大きな声でそう言った。

 歩幅は人ひとりがかろうじて足を踏み外さないで歩ける程度なので、真由は息をつめて馬足がそこを通り過ぎるのを待たねばならなかった。馬をおりたほうがいいのではないかとも思ったが、根が臆病である馬には乗り手があったほうが落ち着くとの柾人の言葉だった。下を見まいと目をかたく綴じる真由の耳元に、八千穂がささやいてきた。

「まゆ、身体をかたくしてはだめだ。馬は乗り手のこころをよく読む。きみが怯えたら、この子だっておびえてしまうよ」

「そんなことを言ったって、こわいものはこわいわよ」

 目をぎゅうと綴じたまま震える声でそういった真由だったが、いままで彼女の懐にもぐりこみ、じっとしていた小さなけものが、ごそごそ動き出したのに気づいた。着物の合わせをすこし緩めてやると、すぐさま埴色の毛並みのテンが顔を出した。テンはすばしっこく真由の胸元からすべりでると、たちまち肩まで駆け上がって真由の解いたままにしてある髪の毛にじゃれついた。髪のなかに顔を潜らせてみたり、かん高い鳴き声をあげて短い四肢をぱたぱたさせ、身にからまった髪の筋から逃れようとする。こまごまとテンが身動きするたびに、真由は触れてくる毛並みのくすぐったさに黙っているわけにはいかないのだった。

「いたずらっこね、もう!」

 こわさなどきれいに忘れて笑い声をあげる真由を、八千穂は目を細めてみつめていた。やがて、真由の髪の毛から抜け出したテンが、八千穂をじっとみつめた。つぶらな瞳でみつめてくるものだから、八千穂のほうもじっとみつめかえさないわけにはいかない。テンは八千穂のまなざしになにかを探っているようだったが、ふいに八千穂に飛び移ってきた。「わァっ」

 八千穂はふいに目の前が暗くなったので、びっくりして声を上げた。テンが彼の顔に飛び移ってきたのである。足をすべらせたテンは片足を八千穂の右の角髪に引っかけてぶら下がり、あやうく落ちるところを逃れた。

「ひどいよ、おまえ。角髪が解けてしまったじゃないか」

 八千穂はおかしがって笑った。

「せっかくまゆが結ってくれたのに」

 もともと人の髪など結い慣れていない真由の仕事だから、八千穂の角髪はところどころほつれ毛がはねていて、しかも形がまるでなっていなかった。なにしろ右と左の角髪の大きさが違うのである。八千穂は文句もいわず不格好な角髪を下げていたが、小さなテンがぶら下がればすぐにでも崩れてしまうような代物なのだった。

 八千穂は、真由の奮闘ぶりを思いだすと笑わずにはおれなかった。白野の庄を出る前、髪を整えるときに真由に手伝ってもらった彼だったが、左の角髪を仕上げたかと思って真由が右の角髪にとりかかっていると、いつのまにか左が解けてしまう。左を直している間に右の角髪が解けてしまうといった有り様で、まったく完成をみなかった。それでも意地を出した真由がかろうじて形を保った角髪を作ったときには、八千穂はなにやら首が痛くてならなかったのである。角髪を結うのに顔をしかめるなんて、はじめてのことだった。

「なんだ、あなたも笑えるんだわ」

 振り返った真由は、やけに嬉しそうにそう言った。八千穂はじぶんの笑い声を耳に聞くと、たちまち心底からおかしくなった。

(こんなに簡単なことだったなんて)

 笑い方すら知らないと悩んでいた自分がばからしくて、でも胸底からこみあげる明るい衝動が心地よくてならなかった。

「笑っていたほうがずっといいわ」

 真由は重ねて言った。八千穂はこっそりと秘密を打ち明けるように、彼女の耳元でささやいた。

「きみの結ってくれた角髪と、このちいさなけもののおかげだよ」

 真由はぽかんとしていた。

「ほら、左右の大きさがまるで違っていて、柾人にかたびっこだと言われたでしょう。それを思い出したんだ」

 真由はおおげさな声を上げた。

「八千穂ったら、わたしの不器用さを笑ったのね」

「きみと一緒なら、いつだって笑っていられるような気がするよ」

「失敗で笑われたって、うれしくないんだから」

 真由はむっとした表情をつくったものの、それから八千穂と顔をみあわせると、ふたりは一緒になって弾けるように笑い出した。さっぱりと晴れた夏の空には雲一つなく、視野に広がるなだらかな出手母の山々は青々しい葉を繁らせている。若々しいふたりの笑い声がこれほどふさわしい時は、他をおいてないようにも思われた。

      *         *        *

 闇なる大神の引きずる襲のすそが、顕なる太陽をすっかり覆い隠す時刻に、三頭の馬の連なりは須佐の里に到着した。里とはいえど、人も住まない滅びた集落である。とりあえず薪を集めて火を起こすと、それを囲むようにして簡単な夕餉をとった。須佐の里に着いたはいいが、じっさい、何をすればいいか、もしくは何が起こるかなんてさっぱり見当もつかないのである。

「なんだか、ぞっとしない場所だな」

 伊住はたき火の中に木切れを放りこみながら、つぶやいた。

「こわいのか、伊住」

 柾人が言ったが、それはからかうような声音ではなかった。なにかに怯えるように柾人は身をちぢませ、その瞳はたき火の炎ばかりをじっとみつめていた。伊住は柾人の様子に目をはしらせると、あらたな木切れをつかみ、へし折ってから火のなかに放った。

「なんだかここは空気がちがうぜ。さっきから、ずっとそうだったんだ」 伊住は笑いも浮かべずにそう言うのだ。

「なんでこんなに肌寒いんだよ。今は夏だろうに」

「伊住こそ何を言うのよ。こんなに過ごしやすい夜ってないわ」

 真由はまったく二人の様子がふしぎに思われてならなかった。ほどよく暖かくて、しっとりと空気が湿っているような晩をだれが寒く感じるものか。着ているものが真由だけちがうというわけでもないし、袖無しの着物から伸び出た手足を時折なでていく風は、やはり優しいのだった。だから身をちぢめている柾人や、むずかしい表情をして眉根をよせている伊住が彼女にはおかしなものに思われる。

 真由はすっかり彼女になじんだ風のテンに、こまかく裂いた鹿肉の干物を与えながら、言葉をつづけた。

「ね、八千穂」

 しかしたき火をへだてて向かいに座ったはずの八千穂は表情をくもらせており、その顔色はあかい炎の下でも痛ましいほど血の気を失ってみえた。

「八千穂?」

 不安になって何度か呼ぶと、彼はやっと真由をみあげた。しかしその表情は今にも泣き出しそうに歪み、それが恐れのゆえだということは、八千穂の悲鳴めいた叫び声でしれた。

「ここにいてはいけない」

「あなたまで何を言うのよ」

 まったく取り合わない真由を八千穂はもどかしがると、不意に立ち上がって闇のむこうを指さした。そちらは、かつて須佐ノ男の御館のあった場所ではないか。柾人が言っていた、須佐ノ男の葬られた場所・・・。里に着いたのはすっかり夜も更けてからだったから、須佐ノ男を参るのは明日にしようと火を焚いたのである。

 八千穂の不可解な行動に真由は首をかしげたが、すぐにそれは驚きにかわった。暗闇のとばりを打ち払うようにして、一頭の男鹿が八千穂の指さした方向からあらわれたのだ。見ほれるほど立派な枝つのは八千に枝分かれしており、天をつくようにそそり立っている。しずかにこちらを見つめるまなざしは深い紅。暗闇の中にあってもその眼はあかあかしく輝いており、毛並みの波立ちまでほの赤い燐光をまとって見えるのは、ただの気のせいではあるまい。

 真由は息を呑んだ。この男鹿とは、まえに一度まみえている。それが稲葉山の神社に向かう途中のことだったと思い出すと、真由はふしぎな懐かしささえおぼえたのだった。なつかしくて、とてもあたたかい。

「この男鹿だよ、おれが前にここで見たのは」

 柾人が生唾を飲み込みながら、あえぐように言った。その声音にあきらかなおびえを聞き取り、なにを恐れることがあるのだろうと、真由はひとりおかしく思った。この男鹿はけして害をなすことはない。だれにも敵しない存在だ。ただ、こうして真由を見守ってくれているだけなのだ。・・・なぜそんな風に思えるのかは彼女にもわからなかったが、なんとなくそう思えたのだった。男鹿が真由によせてくる眼差しがとてもやさしいせいだろうか?

 真由は男鹿に歩み寄った。彼はしっかりと四肢を踏み締めて立ち尽くし、まっすぐに真由をみつめていた。真由だけを。真由はそのまなざしのあたたかさを受け取ると、ふいに泣き出したくなった。胸底からわきあがるのは、喜びだろうか。

 やがて、のばされた真由の手が男鹿のつのにそっと触れると、触れた指先からそろそろと熱が伝わってくるのが感じられた。それから彼女は、耳に水脈のながれを聴いた。樹木のなかをゆきわたる、ささやかな生命のながれ。それに耳をすまそうと心をこらしたとき、真由は目の前が昼間のように白々とかがやいたのを感じたのだった。

      *         *        *

「まゆ、触れてはだめだ!」

 ふらふら歩きだし、男鹿に近づいて行く真由には八千穂の声などまるきり聞こえてはいないのだった。彼女の様子はまったく普通ではなかった。何かに憑かれているとしか思えない足取りで、しかも顔には恍惚とした笑みすら刻まれているのだ。八千穂の背なを、なにか冷たいものが走りすぎた。

「こいつはどうあったって、ただの男鹿じゃあないぞ」

 伊住の目にも、まぎれもなく邪悪なものが見えていたのだった。たしかに目の前にいるのは男鹿だ。しかし、そう言うならば、あれはなんだ。男鹿のまわりに纏わり付き、その毛皮に喰いついては同化し、大きなデキモノ、膿のように解け出した突起物。それらは男鹿の足元にぼとりと落ち込み、真っ黒な水たまりをつくる。水たまりはまるでそれ自体に生命があるかのように気味悪くうごめき、鹿にふれた真由の足にも、もぞもぞと這い上っていた。

 それがまったくの闇なのだと思い当たると、伊住は心底から震えが起きるのをどうあっても押さえられなかった。

「こいつは・・・禍つ神だ!」

「いちど目交いあったら、目をそらしてはだめだ。そらしたら、すぐにでも魂を喰われてしまう」

 八千穂がいつになくきびしく言った。伊住はひたいに脂汗がにじむのを感じた。いまになって夜風の涼しさがありがたく思われる。

「冗談じゃない」

 八千穂に声をかけられなければ、すぐにでも鹿のまっすぐなまなざしから目をそらしてしまうところだったのである。たしかに、かのけものの瞳には何か神威が感じられてならない。禍つ神だと口走ったのは、伊住の直感であった。こちらへの好ましい気配はまったく感じられず、それどころか肌をびりびりと刺激するのは、ひとならぬ者の威圧だけである。

「あなたは、須佐ノ男?」

 夜闇よりもまだ黒々しい真の闇をひきいた男鹿に向けて、八千穂はたずねた。伊住はまさか、と目を瞠ったが、八千穂にしか分かり得ないこともあるには違いないのだった。伊住がしてやれることは出手母への同行だけであり、ものごとの核心へ一歩踏み込んだとたん、じぶんはかやの外なのだ。伊住は知らぬうちにくちびるをぎりぎり噛み締めていた。「柾人、柾人!」

 伊住はそれから赤毛の少年のことを思いだし、ふいに大声をはりあげた。八千穂の言うことが本当ならば、男鹿から目を逸らすことは出来ないし、かといってこのままじっとしていれば、気がおかしくなってしまいそうだった。伊住は身の危険をひしひしと感じていたのである。

 今だって、おかしくもないのに喉元には笑いが迫り上がってきており、それを解き放ったら最後、死ぬまで笑い転げるのではないかという得たいのしれない恐怖があった。

「須佐ノ男、あなたは思い違いをしている」

 八千穂はそんな中で、ひとり声を上げていた。伊住の耳に聞こえる八千穂の声はただやるせなく、痛々しいのだった。

「ぼくがどうしてまゆを」

 八千穂はいちど、高揚のためか言葉をきった。

「ぼくがまゆを滅ぼすだなんて」

 声音の悲痛さと、八千穂のくちびるが語った禍言に伊住が目を瞠ると同時であっただろうか。凝視していた男鹿の瞳がひときわ明るくかがやき、彼はまぶしさにまなこをつぶった。綴じたままの眼皮をそのままに、けれどあたりに満ちるひかりの強さは痛いくらいに感じることができた。伊住はおそるおそる眼皮をあけ、それからあっと息を呑んだ。

 彼の目には信じがたい風景が映っていた。いままで、夜の闇がふかぶかと満ちる里にじぶんはいたはずだ。それも、ずいぶんむかしに滅びてしまった里の跡に。けれど、彼の目の前にひろがる雲一つない青空、茅葺きの屋根もまだあたらしい住居のかずかず、笑い合う人々の笑顔はどうあっても幻影ではない。

「おおい!」

 伊住は今一度目を綴じ、けれどまだその里の風景が消え去らないのを知ると叫ぶようにして声を張り上げた。住居の屋根に使う茅群れを背負い歩いていた男に近づき伊住は肩を引いた。しかし彼の手は男の肩をつかまず、空を切っただけだった。伊住のすがたが見えていないということは、男にとって伊住が幻影だということだろうか。

「どうなっているんだよ」

 伊住は舌打ちし、息をついた。ただこの幻影があの気味悪い男鹿の作り出したものだということは推測できた。八千穂は須佐ノ男と呼んでいたが、あの鹿は須佐ノ男の亡霊だったということなのか。

 鹿が禍つ神なのか、それとも須佐ノ男が禍つ神として姿をあらわしたのか。須佐ノ男は天照によって殺されたという話だ。その息子である八千穂に恨みごとの一つもあるにちがいない。・・・どちらにしても厄介な状況になったのに変わりはないのだった。

「ただの幻影にしては、手の込んだ・・・」

 足元に揺れる夏の草実を踏み締めながら、伊住はひとりつぶやいた。ここが須佐の里だというのなら、住居づくりにいそしむのは白野の庄から須佐ノ男に同行してきたひとびとだろうか。伊住はごくしぜんにそう思うことができた。なぜなら、遠目にひとりの娘のすがたが認められたからである。

「真由か?」

 彼は口のなかでつぶやいてから、すぐに思い直した。柔らかそうな黒髪を肩にながし、あかるい眉に黒曜石の丸玉を籠めたような目見のあたり。いつもほほ笑みを湛えているようなくちびるは、山桜の花の色。近づくほどに真由によくにた、真由としか思えないむすめの容姿である。だが伊住が彼女ではないと確信したのは、むすめの腹がおおきく膨れていたためだった。

「櫛名田」

 伊住はそう言うじぶんの声が、ずいぶん枯れたものであることにも気づかなかった。二足も離れていない場所でみる櫛名田は、やはり里人たちのように伊住に気が付いていない。きっと今の伊住は空気よりも軽やかなものになっているのだ。これが過去の幻影なのだと、伊住はなかば気分を悪くしながら思った。なんのためにこんなものを見せられているのかは分からなかったが、今はただじっとしている他にしようがないということだろうか。腹を据えるのも時には必要にちがいない。

 切り出した丸太を腰掛けにし、鼻歌を口ずさみながら、櫛名田は藁たばでカゴを編んでいる。手先が器用でないらしく、ところどころ藁目が崩れて、ほつれだしている。伊住は幻影とは知りながらも吹き出したくなった。不器用さひとつとってみても、櫛名田はやはり真由に瓜二つであった。

 腹を決めた伊住は櫛名田に歩み寄ると、そのとなりに腰を下ろした。彼は一瞬、木材すらも擦り抜ける我が身なのではないかと思ったが、彼の心配をよそに丸太はたしかな感触をもって伊住をささえた。

 頬をなでて通り過ぎていく風はすがすがしく、なにやら甘い匂いがした。おんなの匂いだ。櫛名田の身からふわりと漂い出てくるものなのかと思いあたると、伊住はやはりふしぎなのだった。櫛名田は丸太をいくつも積み重ねたうえに座っており、足がつかないぶん裸足をぶらぶらと遊ばせていた。ウコンで染めた濃い赤みの黄色の衣裳のすそを風にゆらし、口ずさんでいるのは出手母の山々を言祝ぐ歌であったり、やさしい子守歌であったり、恋の歌であったりした。

「へたくそ」

 伊住は完成品と思われるいくつかの藁カゴを眺めながら、そう言った。どうせのこと身重の身であれば里造りにも参加できず、ひとりきりでこうしてカゴを編んでいるといったところだろう。伊住にはそれでも、藁たばの無駄遣いとしか思えないのだった。なかには底のすっぽり抜けたカゴもあり、伊住は吹き出さずにはいなかった。

「ひどいじゃない。これって、けっこう難しいのよ」

 櫛名田は藁たばと格闘する手をふいにとめた。それから伊住のほうをしっかりと向き、ほほ笑んでみせたので彼は仰天した。

「あんた、おれが見えるのか」

 あえぎながらそう言った伊住をみつめ、櫛名田はおかしそうに笑った。「あたりまえじゃないの。わたくしは盲いではないもの」

 櫛名田は重ねて言った。

「おかしなひと。・・・正直を言って、声をかけてくれるまであなたが居ることわからなかったわ」

 伊住は頭を抱えたい気分だった。なにがどうなっているのだろう。櫛名田は伊住がいることにも全く不審を覚えておらず、それどころか楽しそうに話しかけてくるのだった。

「あなたどこのひと?」

 どこのひとと言われても、伊住は答えかねていた。ここがまことに過去の須佐の里ならば、須佐ノ男もいるはず。もはや目の前のむすめがただの幻影とはいいがたかった。

「ああ、白野を打ち建てるときに、木次からお手伝いにきてくれたひとね? そのままこちらに来てくれたのかしら」

「・・・そうさ。白野はあれでいいだろうが、おれは須佐ノ男が気になったからね。きつぎ、そうきつぎから」

 伊住はとっさにでまかせを言い出していた。

「でしょう、だって鳥髪では見たことがない顔だもの」

 ひとりで納得している櫛名田を眺めながら、伊住はふとこちらへ歩いてくる男があるのに気づいた。

「皇子どの・・・」

 はれやかな笑顔をしながら歩いてくるのは、八千穂などよりよほど体躯のがっしりとした、齢でいえば二十六、七の男盛りの丈夫であった。まったく齢も体つきもちがうというのに伊住が八千穂とみまちがえたのは、その容姿の柔和さのためであった。八千穂を大きくしたら、ちょうどこの男のようになるだろうと思えた。

 だが柔和とはいえ、八千穂にないものを男は身につけている。それは笑顔の裏にある剣呑さ。いざとなれば人を殺すのも厭わない、はげしさである。八千穂のような弱腰は彼にはみじんもなく、ただ晴れ晴れとした精悍さのみが伊住の目をひいたのだった。

(こいつが、須佐ノ男か!)

 伊住はひらめくようにそう思った。なぜなのか、この男を前にして伊住の胸に湧き上がる感情は、いわれのない嫉妬、焦燥なのだ。

「おや、午前より藁たばが減っている。どうやら今日はおとなしくしていたようだね、あばれんぼうの姫は」

「あばれんぼうは余計よ」

 むっとしたように櫛名田はいいかえした。須佐ノ男は彼女へのからかいを瞳ににじませて、おかしそうに笑った。

「きのう、茅葺き屋根から危うくおっこちそうになったのは、どこのどなただ?」

 櫛名田は言葉につまり、伊住はといえばその情景を思い浮かべておもわず吹き出した。身重のおんながなぜ屋根にのぼることがあるのか。

「そこの・・・」

 須佐ノ男はそう言いざまに伊住に目をとめ、ふしぎそうにしていた。やはり伊住のすがたが見えているらしい。伊住は問われる前に先手を打った。もう半分ヤケになっていた。

「きつぎの伊住だよ。あんた、須佐ノ男だね」

 須佐ノ男はああ、と言って笑った。

「まだあいさつもしていない男がいたか、これはちょうどいい。これから住居を見に行くのだが、おまえも一緒にこないか」

「だれの住居だい?」

 須佐ノ男の狎れた物言いは、ふしぎなことに不愉快ではなかった。腹を決めた伊住が丸太から腰を上げると同時に、櫛名田のぶぜんとした声がした。

「須佐ノ男、あなたはわたくしを誘いに来たのではないの?」

 櫛名田は須佐ノ男が伊住を誘ったものだから、ふくれているのだった。「ばか、何をふくれているんだよ。あまりぷんぷんしていると、腹の中の娘まで怒りっぽくなるだろうに」

 伊住はあまりに櫛名田が真由ににているせいか、思いのほか狎れた口調で言いだした。櫛名田は驚いたように瞳を瞠ったが、それからすぐにほほ笑んだ。

「やっぱりふしぎなひとね。わたくしのおなかに居るのが、女の子だってわかるなんて」

「わかるさ、なんだって・・・」

 伊住は言ううちに息苦しさをおぼえた。なぜこんなものを見せられねばならないのか。いまいちど、こんどは突き上げるような激しさのなかでそう思ったからだった。・・・これは、すべて過ぎ去ってしまった過去のなかのできごとだ。伊住がまことに過去のなかにいるというのなら、近いうちに高天原の天照によって須佐ノ男は殺され、櫛名田もまた行方知れずになる。真由がどういう状況で産まれたかは知るよしもなかったが、過去のひとびとにとっては未来をしる存在である伊住が、こんな場所に居てよいものだろうか。

 過去、現在、未来。すべての時をつかさどる時波量師の神以外にはなし得ないようなことを、伊住はしている。

「みなのおかげだ。このようにして須佐の里が開けたのも、こうして雨風を防げるりっぱな御館ができあがったのも」

 須佐ノ男はまだ木の香もつんとする白木のちいさな御館の前に櫛名田とともに立ち、その周りには満足げな人々をしてささやかな祝杯をあげていた。なりゆきで伊住もその真昼のうたげに加わりながら、実際、酒の味などわかりそうもなかった。

 伊住は騒ぎに興じるひとびとの中、なにげなく御館をみつめた。急いで設えたものらしく、おせじにも立派とはいいがたい。雨風は十分に防げるだろうが、気高の里の里長どのの御館にすら遠く及ばないちいさな御館である。須佐ノ男のことばは、里人たちへの感謝の気持ちから生まれたものに違いはないだろう。

 御館から目を外し、伊住はそれから櫛名田をみつめた。彼女は須佐ノ男の肩に寄り添うように足を崩して座っており、まろやかにふくれた腹をやさしくなでていた。伊住のまなざしに気づいたのか、櫛名田がほほ笑んだ。須佐ノ男もこちらに気づき、伊住を手まねいた。

「ひとの若草の妻をじろじろ見るものではないよ」

 須佐ノ男は笑いをにじませながらそう言った。伊住はなにやら決まり悪くなったものの、請われるままに人々をかきわけて須佐ノ男のとなりにあぐらをかいた。すると、須佐ノ男のごく近くにひとふりの剣があるのに伊住は目をとめた。抜き身ではなく鞘につつまれていたものの、男のこぶしで十拳はあろう長剣であった。伊住は息を呑んだ。

(大蛇の剣か)

「なあ、こいつはあんたの剣かい」

 伊住はたしかめてみないことには気が済みそうになかった。すると須佐ノ男は神妙にうなずいて見せた。

「わたしの持ち物というわけではない。わたしが持つことを許されたまでのこと」

 剣が持ち主をえらぶかのような口ぶりに、伊住は確信した。

(こいつは、大蛇のつるぎだ)

 おそらく真由の持っていた勾玉のように、持ち主の手でしか輝かないのだろう。意志ある剣をもつ須佐ノ男は、つまり大蛇神にえらばれた御魂の振るい手ということなのか。

 あまりにじろじろ剣をみつめる伊住にさすがに不審をいだいたか、須佐ノ男は眉根をよせた。伊住はあわててまなざしを外すと、話題をかえた。

「いつ産まれるんだい、あんたたちの真由は」

「なんだって」須佐ノ男は目を丸くして聞き返した。

「い、いやね、赤ん坊のことさ」

 伊住ははぐらかしたつもりだったが、うまくいかなかったようだ。櫛名田のほうが耳聡く伊住の言葉をききつけていたのである。

「伊住、あなたは未来をしっているの? まるで闇見なさる巫女さまのように。さっきもそう。わたくしたちの赤ちゃんが女の子だと言い切ったじゃない。今だって、まゆって」

「あれはねえ」

 伊住は心底困った。まさがじぶんが未来からまぎれこみ、とおい過去のひとびとと口をきいているのだなんて言って信用されるものか。伊住だっていまこうしているのが不思議なくらいなのだから。

「あんたのような美人の産む子なら、女の子じゃなきゃもったいないってことを言いたかったのさ。真由というのは、女のみどりごにつければ美人になるって霊験があらたかな、すばらしい名前だよ」

 よくもこうぺらぺらとウソが口をつくものかと、伊住は苦笑いをするしかなかった。どうやらふたりは伊住の苦しいウソでも納得したようだった。櫛名田など美人といわれてすなおに嬉しがっている。伊住は深く息をつくと、みじかい髪の毛をむちゃくちゃに掻き毟った。

「ノミでもいるのか」

 須佐ノ男がふしぎそうに言った。

 いつになったら過去の世界から抜け出せるのかは、時波量師の神の心しだいらしい。もしくは、あの男鹿のこころしだい。

 夜も更けて、里には暗闇としずけさが落ちた。伊住は用意された寝床のなか、ムシロを敷衾として身には麻の衾を肩まで引き被りながらも、どうにも寝つけなかった。じりじりしながら寝床にいるのもすっきりしないので、彼は里人たちが集って雑魚寝している小屋からそっと抜け出した。入り口にかけられた薦簾を引きあけると、おんなの眉のように細い月が淡いひかりをひきいて夜の空に引っ掛かっているのが望めた。

「どこへ行く?」

 ふいに闇のむこうから掛けられた声にも、伊住はべつだん驚きはしなかった。眉月のごくささやかなあかりの下ではあっても、近づいてきた男のすがたはみとめることができたのだ。

「あんたかい、須佐ノ男」

 須佐ノ男はそれを聞くときびしい表情をくずし、微笑をにじませた。その笑顔はやはり八千穂につうじるものがあり、まなざしはどこか陰りがあった。

「若草の妻をおいて、夜歩きかい」

 伊住はなにげなく言った。須佐ノ男がこの場にいるなど奇妙なことだった。それとも、伊住に不審をいだいてその正体を突き止めにきたのか。あり得ないことではなかった。むしろ、当然だ。なかばごまかすようにしてきつぎの伊住だなどと言ったものの、ウソがばれるのは目に見えてあきらかなことだった。

「ここにいる木次の者で、伊住という男を知る人間は誰もいなかったぞ」「そうだろうね」

 伊住は苦笑いをした。昼間は狎れた口調で伊住に接していた須佐ノ男だったが、やはり伊住への不審は拭えなかったにちがいないのだ。だからこそ、こんな宵時に小屋をおとずれもしたのだ。里人が寝静まっているうちに、厄介事の芽は摘み取ってしまうにかぎるとでも思ったか。

「おまえは何者だ。どうしても、高天原の刺客にはみえぬ。伊住、おまえはいったい何者なのだ。それを教えてほしかった」

(刺客?)

 伊住は須佐ノ男のことばに引っ掛かりをおぼえた。けれど問うようなことはせず、ただ彼の得意な掴みどころのない笑顔をするばかりだった。「なにも夜を選ばなくても教えてやったのに」

 須佐ノ男はそれを聞くとちいさく笑った。

「おまえの纏う空気は、わたしの吸っている空気とはちがう。なぜかは知らぬが、なにやらそんな気がする。昼間おまえを見たときも、はじめ櫛名田に影がよりそっているのかとも思えたのだ」

「・・・おれが未来の人間だといったら、信じるかい」

 伊住はささやくように言った。須佐ノ男が信じようと信じまいと、どちらでもよかった。ただ、言っておかねばならないような気がしていた。なにかに怯えているような目の前の男に、おびえるなと言ってやりたかった。

「おれは未来の人間だ」

 伊住はかさねて言った。須佐ノ男が息を呑むのが気配でわかった。

「うそかホントか決めるのはあんたの心だ。だが、こいつはただのでまかせじゃあないぜ。おれはあんたと櫛名田のむすめをとてもよく知っている。それだけは確かなことなんだ。いままでだって、真由と一緒に出手母へやってきた。それが、一体どういうわけだろうな、さっぱりわからない。おれは過去に紛れこんでしまったみたいなんだよ」

 須佐ノ男は信じ難いことを耳に聞き、しかし伊住を嗤うようなことはけっしてなかった。

「未来のおのこが、何をしにきた」

「ばか、今のおれのはなしを聞いていなかったのかよ。そいつはおれのほうが聞きたいね。いいかい、おれは、あんたや櫛名田の怯えるモンじゃない。まずはそれを理解しな」

「わたしが怯えていると、おまえはいうのか」

 須佐ノ男の声音がふいに頼りなくなった。伊住はたしかにこのとき、須佐ノ男のなかに八千穂をみた。頼りなげにうつむき、ひとの顔色を窺うかのような上目使いの表情。ふと、伊住は須佐ノ男にこんな表情をして欲しくはないと思わずにはいないのだった。そう思うのはたぶん、彼にこれからふりかかる運命のむごさ、厳しさ。それらに付け込まれる弱さを怯えがちの表情に見たせいなのかもしれない。

「あんた、頼むからそんなカオをするなよ」

 伊住はすこし口調を強めて言った。

「おれはあんたが何におびえているのか、知っている。きっと、天照が原因だろう? 白野の庄を抜け出したのも、天照の影が消え去らなかったからだ」

 なにも確かな根拠をかさにしゃべっているのではなかった。言いながら伊住自身が驚いていたのである。・・・この過去の世界は、いままで伊住がしらなかった事実を、呼吸するのと同じ自然さで教えてくれるのだ。 伊住にはわかっていた。須佐ノ男が大蛇神を鎮める情景も、その八またにわかれた首のひとつを須佐ノ男が斬り落とした瞬間も。それだけではない、伊住にはすべて見えていたのだった。鍛冶びとの庄、白野を作り上げるときの須佐ノ男の満ち足りた表情、男たちと酒を酌み交わすときの、はじけるような笑い声。櫛名田との共寝の夜よる。

「あんたは櫛名田をどうするつもりなんだ」

 じぶんがなにを喋っているのか、なにを言いだすつもりなのか、伊住はまったく見当もつかないのだった。しかしぶちまけずにはいられない須佐ノ男への怒りばかりがある。

「まもる。そう誓約した」

 伊住はそれを聞くと、鼻を鳴らした。

「だれに誓約したって?」

 大蛇神だ、と須佐ノ男はごくちいさな声で言った。

「わたしは何もあのひとに与えてやれない。高天原の皇子だということを捨てれば、わたしにはなんのちからもないのだ。わたしは櫛名田を不幸にする。もはや大蛇神とかわした誓約も死にかけているのだ。誓約をかわしたわたしが、天照の影に震えるほど怯え、死にかけている・・・」

 いまにもすすり泣きそうな声で、須佐ノ男は言うのだ。

「無理だ、もう、どうあっても、わたしは櫛名田を守り切れない。彼女の死がわたしの眼裏にうかび、目を開けても消え去ってはくれないのだ」「ちがうだろう。あのなあ、あんたは何をやっているんだよ」

 伊住はなかば叫ぶように言い捨てた。

「泣くヒマがあるんなら、櫛名田をまもる方法を考えたらどうだい」

 須佐ノ男がだれに櫛名田をまもると誓約したのかも、伊住は聞かずとも知っていた。大蛇神から櫛名田を預けられるそのときに、大蛇神はいのちを賭けてでも櫛名田をまもれ、そう須佐ノ男に言い残したのだ。須佐ノ男は誓約した。だからこそ、大蛇神はみずからの御魂を籠めたつるぎを彼に与えもしたのだ。

「櫛名田は好きな女なんだろう。てめえのがきを孕ませた女なんだろう。なら、きっちり守るといいなよ。櫛名田はあんたを信じたんだろう、惚れたおとこについてきたんだろう。なんてけなげなんだよ。・・・あんたはそれを分かっていても、櫛名田をまもれないと言うんだな」

 須佐ノ男が豪胆な人物だと勝手に解釈していた伊住の目が濁っていたのか。そうとはいえ、伊住はなにやらやりきれない気持ちだった。須佐ノ男はなにも言わなかった。ただ嗚咽ばかりが耳に聞こえてくる。伊住はひどく苛立ったまま、言葉をなげすてた。

「なら、いいよ。もういい。おれが櫛名田をまもる。だめだ、あんたのような情けないやつにはとうてい任せておけない。おれは櫛名田と、真由をまもるぜ。むざむざ天照に殺させてたまるか」

 須佐ノ男は伊住がそう言うやいなや、嗚咽をやめた。それから顔を上げてほほ笑む。その強くもやさしい笑い顔に、伊住はぎょっとした。いままで泣いていた男のする笑顔にしては、やけに強い笑顔なのである。それに彼の目元には涙などひとしずくも見つけることができなかった。「助かる。そう言ってくれる者が欲しかったのだ」

 須佐ノ男は息をついた。伊住はなにがなにやら、さっぱりわけがわからなかった。

「おい?」

「すまなかった。その言葉を聞きたいがために芝居をした」

 伊住は眉根をよせて、眉間にしわをつくった。

「はあ?」

「俳優にもひけをとらぬ芝居だったろう。未来のおのこも騙せるとは、正直、思わなんだが」

 須佐ノ男はまだぽかんとしている伊住をみつめると、すこしだけ笑った。それから伊住に近寄り、その肩を何度かたたいた。

「わたしは大蛇神に誓約したのだ、櫛名田をまもると。しかしそれ以上に、わたしはじぶんの意思で彼女をあらゆる禍事から守り抜き、腹の子ともどもやすらかに生活させたいと願っているのだ。しかし、それをこころよく思わないひとがいる」「天照か」

 須佐ノ男のよどみない力強い言葉を聞いて、伊住はようやく息をついた。なぜ櫛名田や須佐ノ男のことでこんなにもムキになれるのか、伊住自身もふしぎであった。しかし、過ぎ去ったむかしに踏み込んでしまった伊住が真由によくにた娘をまえにして、知らぬふりを決め込むことなどできるはずがないのもまた、当然のようにおもわれたのである。

「天照はわたしを憎悪している。何度となく彼女が高天原からはなった探男に、わたしは生命をねらわれ続けてきたのだ。いままではそのことごとくを殺してさしあげたつもりだったが、今度ばかりは天照自身がわたしを殺しにやってくる。そんな予感が日に日に強まっているのだ」

 須佐ノ男は息をついた。

「わたしは天照と戦わねばならぬ。今まで逃げ続けてきたわたしは、今度ばかりは天照と真向かわねばならないのだ。だから、櫛名田を託せる誰かが・・・伊住、おまえのような男をわたしは欲しかったのだ」

 伊住はふと、須佐ノ男という男になにやら羨望の気持ちをおぼえた。彼の真っすぐな生き方、たとえそれが滅びの道であっても、顔を上げて前に進もうとする強さに、今この時、共鳴したからかもしれない。

 須佐ノ男と会話しながらも、呼吸をおこなうような自然さで、伊住はやり直しのきかない過去の出来事を見つめていた。

 天照と真向かう須佐ノ男、その瞳にうかぶのは、憎しみよりも天照へのいとしさと憐れみではないのか。須佐ノ男はやがて死に、剣はくだけた。それを悼むかのような、赤子のはげしい泣き声。生と死。まったく背きあったふたつの事柄がいちどきに伊住の頭を駆け巡り、いいようのない苦さを彼に与えたのだった。

「それにしても、なぜ天照はそんなにもあんたを憎むのさ」

 その部分だけはどうあっても伊住にはのぞけなかった。いくら憎しみをもった相手だろうと、高天原をはなれた人間をしつこいまでに追い回し生命を狙うなど、並々ならぬ執拗さではないか。天照はなぜそうまでして、同母の弟を弑したがっているのか。

 しかし知ろうとすると、水面に顔を突っ込んだときのように呼吸がままならなくなり、溺れかけてしまう。どうやらそこまでは伊住の立ち入れるような事柄ではないらしい。

 須佐ノ男は自嘲するようにくちびるを歪め、ただ一言つぶやいた。

「わたしは天照に、手酷い裏切りをした。その傷はけっして彼女のこころから消えることはないし、わたしも消そうとは思わないのだ」

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