かみなぎ25

それから何日かたつと、櫛名田にはじめての陣痛がおとずれた。

 櫛名田をまもる、と成り行きのうえでとはいえ須佐ノ男に言い切ってしまった伊住は、威勢よくタンカをきったことを少し後悔していた。この数日というもの、彼は櫛名田にだれよりも近かった。櫛名田の夫である須佐ノ男は里づくりに日々を追われていたし、同い年のむすめたちも忙しさを相手にしており、櫛名田はじっさい退屈でならないのだった。「おなかが膨らんでいたって、仕事はできるわ」

 櫛名田はいちど、そんなことを言ったものだった。

 伊住を木次の里の人間だと信じてうたがっていない櫛名田との会話は、思ったいじょうに骨が折れた。当たり障りのないことをなにかと喋りあっているうちはよかったが、伊住はなにやら櫛名田のまろやかにふくらんだ腹をみるたびに穏やかな気持ちではいられないのだった。いつのまにか彼女に真由のすがたを重ね合わせているじぶんを見つけると、伊住は苦笑いをするしかないのだ。

 櫛名田のお産のために鳥髪からついてきたという産屋のばばは、若い者たちにまじって里造りの日々にいそしんでいた。それがたたってのことに違いあるまい、やっかいなことに腰を悪くしていたのである。ひとりで歩くこともままならない産屋の間野ばあを背負い、伊住は櫛名田が痛みをうったえるたびに間野ばあを呼びに行き、背負ってこなければならないのだった。

「もう月は満ちているはずなのにねえ」

 それが間野ばあの口ぐせになっていた。

「姫ちゃまのおなかの子は、なにを出渋っているんだろう」

 間野ばあにはまったく悪気はないのだが、櫛名田はそれを聞くたびにさすがに笑顔も伏せてうつむいた。臨月を過ぎたというのに産まれない子。赤子が母親の胎内にとどまる期間の長さは、ひとりひとりに少しばかり違いがあるだろうが、これいじょう赤ん坊が櫛名田の中でふんばっていたら厄介なことになる。厄介どころか、櫛名田の身もまいってしまうだろう。

「気を楽にもてよ。いいかい、母親がしっかりしないでどうするよ」

 陣痛のやってくる周期はみじかくなりはじめていたが、やはり赤子は生まれでようとするそぶりも見せない。伊住はいつものように櫛名田をなぐさめながらも、どこか上の空だった。

 伊住は過去の世界にまぎれこんでしまっている。この数日というものあまりに安穏な日常のなかにいるために、ともすると忘れてしまいそうになるが、伊住は未来の人間なのである。櫛名田や須佐ノ男は伊住にとって、もともと関わることのありえない、とおい過去のひとびとなのである。なのに、伊住はどういうわけか取り戻せるはずのない過去の時間に生きており、こうして飯を食ったり、里人たちとの馬鹿話に笑ったりしている。まったく奇妙な心地なのだ。

 いつになったら現実にもどれるのだろう。もしやずっと過去のなかに取り残され、帰れはしないのではないか。・・・そう考えることは、やはり肝がひえることだった。ここは伊住のいてよい場所ではないのだ。このとき、この場所が十七年前の須佐の里だとすれば、伊住はまだ因幡の気高の里で五つの童男として暮らしていたはずである。

 伊住がいまここにいるということは、ただならぬことなのだ。過去と現在はけっして交じり合わない。ことわりを曲げれば、どこかにしわ寄せがゆく。それは祖母の口癖でもあった。

 もしやと思って須佐ノ男にたずねてみれば、やはり白野の庄は八耳が長としており、彼を長に指名したのは須佐ノ男自身だという。

「あの男はよく言えばおおらか、わるくいえば大雑把だ。あたらしい庄をまとめるのにあれほどの適役はいない」

 出来たばかりで真新しい白野の庄。活気がなにより必要な時期には、勢いをもって人々を指導する人間が長となるのが最適なのだと須佐ノ男は言った。細かいことをいつまでも考えている者が長では、遅々として仕事がすすまないだろう。少しばかりの手抜きが、庄のひとびとの息抜きにもなるのだと。

 八耳とは、やはりあの八耳にちがいない。伊住の耳に、いかずちのように響き渡る豪快な笑い声がよみがえった。

 伊住がいる場所は、たしかに過去なのだ。・・・もはや過ぎ去った時間のなかにいるということはやはり途方もないことなのだと、伊住はあらためて思い知ったものだった。

「今夜だ」

 須佐ノ男は、夕暮れの涼風のなかしずかにつぶやいた。櫛名田が疲れて眠ってしまったあとに、須佐ノ男は伊住を外に誘ったのである。あたりをはばかる会話、なにより櫛名田には聞かせたくない会話であったため、御館ではなく外をえらんだのだった。夕闇が落ちはじめたなかで伊住は、東の空に冴えかがやく一番星をみつけていた。

「まるで王坐にいたときのように、天照がこんなに近しく感じられる。今夜こそ、天照がわたしを殺しにやってくる」

 伊住はふかく息をついた。須佐ノ男の声の調子は穏やかで、まったく感情の起伏がかんじられなかった。語られている話の内容はこのうえなくどろどろしているというのに。同母の姉に生命を狙われる弟。すこしは動揺してもよさそうなものなのに、どうしてこうまでこの男は平静でいられるのか。伊住は舌を巻く思いだった。

 須佐ノ男は同母姉である高天原の天照に生命をねらわれている。今までもなんどとなく高天原は王坐から、すなわち天照のもとからはなたれた暗殺者たちがいる。須佐ノ男はそのことごとくを殺してきたという。伊住はもしや須佐ノ男がこのことを櫛名田に黙っているのではないかと危ぶんだものだったが、彼女も須佐ノ男が高天原から追われ、ねらわれる身であることをハナから承知のうえで彼についてきたのだという。

「櫛名田は、むこうみずなひとだ。しかし、それが彼女のつよさだ」

 目を細めながらそう言う須佐ノ男のまなざしは、櫛名田の名を口にするときにひときわやさしくなるのだった。

「とはいえ、櫛名田を天照とのたたかいにまで巻き込むことはしたくない。わたしたちのする戦いは、剣や盾をもちいないたたかいだ。ただびとが関われば、すべからく滅びを見るだろう。・・・伊住、おまえはそうなるまえに、この里から櫛名田とともに逃れてほしい。わたしもこれからすぐにでも須佐からとおい場所に身を飛ばし、天照を迎え撃とうとおもう」

「あんたは高天原の神薙ぐおのこだったな」

 伊住は須佐ノ男の話すことばの内容にも、べつだん奇妙をおぼえなかった。高天原は炎の末裔の支配する土地である。その炎の末裔のなかでも、もっとも濃い血を受け継ぐのがふたりの巫。巫には神薙ぐおのこと神凪ぐおなごがおり、かれらは神代の霊力をいまにうけつぐ現人神なのだ。 巫たちはただびとならぬ霊力の行使ができる。千里の距離をまばたきひとつする間に飛び越え、風水をあやつり、死人すらも復ちさせる、神の領域にふみこむ霊力。ふたりの巫はそれらの霊力をいのままにすらできるのだ。

「あんたの見かけは、すっかりただびとなのになあ」

 伊住はまじまじと須佐ノ男をながめた。須佐ノ男はがっしりとした体躯をしているものの、丈高いせいか柳のように柔めいてみえる。八千穂とよく似たおんなのような顔をしているが、その眼差しには野に生きるけものの厳しさがある。厳しくも激しい瞳。けれどそれは荒んだものではなく、悲しみの籠められたさびしい瞳だった。陰りのある瞳だ。

 須佐ノ男は何かずっと遠くにあるものに目をこらすように、ゆるく目をほそめた。

「我が身が霊力を持たぬ、ただびとであればと思ったことは数え切れない。・・・だが、これはわたしの立ち向かうべきさだめなのだ。こうして霊力をもって産まれたことも、天照と戦わねばならぬのも、伊住よ、おまえが未来からわたしのもとに現れたことも、なにやらさだめの一部のような気がするよ」

「・・・あんた、死ぬぜ」

 伊住はみじかく言った。須佐ノ男がみつめてきたが、伊住はそうながくは彼と目を合わせていられなかった。

 伊住はうつむきがちにつぶやいた。

「勝目があるのかい。勝ち目があって、おれに櫛名田とにげろと言うのかい」

 すると、須佐ノ男はやさしくも強い笑顔をみせた。

「戦うと決めたからには、わたしは負けないよ」

      *        *        *

 それから伊住は眠っていた櫛名田をゆりおこし、馬に乗せた。身重のおんなを馬に乗せるのはかしこいことではないようにおもえた。しかし須佐ノ男が言うには、須佐の里から一足でも二足でも離れたほうが櫛名田も安全だし、里に櫛名田がいないとなれば、天照のほうもむやみに破壊をしないだろうという見通しのためだ。

 里人にも櫛名田にも恐れを抱かせたくないというのが、須佐ノ男の心底からの願いなのだ。櫛名田も夫の決意を知っているから、少しの泣き言も漏らさずに馬上にゆられていた。臨月の子を身に抱えているのだから、乗馬のつらさもひとしおなのに違いない。なのに櫛名田はつらそうなのを、表情にだってあらわさないのである。

「東へ行こう」

 どこに逃れるというあてはなかった。須佐ノ男と天照のたたかいに決着がつくまでは、どこか人里に身を隠すよりも馬で移動していた方がよほど安全におもわれた。伊住はごくしぜんにそう口にしており、じっさい因幡の方向に馬をすすめていた。

「因幡までは、四、五日といったところかな」

「どうして東なの」

 前に抱えるように相乗りさせていた櫛名田が、襲のうえから毛衾をひきかぶった格好のままささやき返すのにも、伊住はあえて目を合わせずにつげた。

「因幡はおれの故郷だからだよ」

 須佐ノ男が死んでも、子はうまれる。真由が産まれる。櫛名田には生きていてもらわねばならないのだ。そのためには何者にも侵されることのない安全な産屋と、それから母親がちからを蓄えるための食事がいる。櫛名田に生きのびる道を与えてやれるのは、出手母の地ではない。高天原とはなかば離別したようにある呼月の支配する土地、因幡でなければならないような気がしたのである。高天原の天照と並び称される因幡の呼月の支配する土地までは天照もやすやすと手は出せまい。

「因幡についちまえば、こっちのものだ。そうしたらあんたはしっかり喰って、しっかり生命をたくわえるんだ。からだをこわしたら、何にもならないからな。いいかい、あんたは須佐ノ男が迎えに来るのを、ただ赤ん坊を腕に抱いて待っていればいいんだ」

 呼月もきっと理解してくれるはずだ。理解しないはずがない。そこまで勢い込んで言うと、ふいに櫛名田がちいさく笑った。

「あなた、やっぱり木次のひとではなかったのね」

 伊住はじぶんが口を滑らしたことに気づいたが、もうどうでもよいことだった。木次というのは、肥川に連なる六つ里のひとつ。はじめて出会ったとき、伊住は櫛名田にじぶんがきつぎの伊住だと、成り行きでそう言い逃れをしたのだった。

 いまはただ櫛名田とともに、間もなくおとずれるであろう須佐ノ男の死から、がむしゃらに遠ざかるだけであった。彼はあじけない砂を噛み締めるような気持ちで、夜闇のなか馬を走らせていた。過去に関わるはずのなかった伊住が、いまたしかに過去の時のなかで息をして、腕には櫛名田というおんなを抱き締めている。

「知っていたのかい、あんた」

 櫛名田はけれど、はぐらかすようにいいだした。

「木次には伊住のような男はいないわ。いたんなら、むすめたちがいままでおとなしく黙っているはずがないもの」

 伊住はこの数日というもの、須佐の男たちにまじって里作りを手伝っていた。住居には茅を葺き、夕餉のころが近づくと鹿を射たり飛ぶ鳥をおとしてみせたりした。須佐ノ男について新しい里づくりを目指したのは十五組の男女であり、いずれも夫婦であるか、そうでなければ恋人どうしなのだった。しかし伊住があらわれたことにより、既婚のおんなでさえもやけに伊住の世話をやきたがり、彼はいつものことながらも欲しくもない男の嫉妬を買っていたというわけである。

 伊住はたとえ黙っていようと行動だけで人目を引くのだ。型破りぶりは彼がもつもともとの気質であり、自信と大口は彼をほめそやす周りのむすめたちの嬌声が育てたものと言っていい。・・・櫛名田はそのことを言っているのだろうかと、伊住はふと思った。

「そうさなあ」伊住はささやくような声音で、つぶやいた。

「おれだって、ほんとうに出手母のきつぎという所に産まれていたら、あんたのことを知らないわけがなかったさ。・・・さがしだして」

「さがしだして?」

 櫛名田があまりにむじゃきにたずねてきたので、伊住は口ごもった。しかし言いたいことをためこみ、我慢するのは彼の性分ではなかった。「きっとあんたを妻問いしていた。須佐ノ男よりもずっと早くね」

 伊住はじぶんの言い出している言葉をいぶかりながらも、そう言わずにはいられないのだった。

「あんたは、とてもきれいだ」

 櫛名田は、おせじでもうれしいわ、とかぼそい声で言った。おかしなことに彼女の声をきくやいなや、伊住はきゅうにじぶんの物言いを後悔する気持ちがおこったのだった。

 いままで両手の指にあまる数のおんなたち、男への媚びをしぜんと身につけている高天原の娘たちに、伊住は何度となくそういった言葉をささやいてきた。なかには顔すら思い出せない相手だっている。どんなことを話したか、どんなことで笑い合ったか、そんなものは伊住にとってその場をしのぐための軽いお遊びにすぎなかった。うわべだけの笑顔、うわすべりするばかりの優しい言葉のかずかず。

 恋には手管より真実、そんなことをのたまう奴は、たいていおんなにもてないのだと、笑い飛ばしてはばからなかった。彼は真実がともなわない言葉を、ただ彼女たちとの愉しみのためだけに、なかばうわ言のように唱えてきたのである。

 そういう意味で見れば、共寝するむすめたちの耳に囁かれる伊住の言葉も、因幡の大巫女、呼月の長ったらしい祝詞も、たいして変わりがないようにおもえた。まったく意味がないのだ。

 しかし、櫛名田をまえにすると伊住はうわべだけの言葉など、ひとかけらも浮かばないことに気づいた。今のささやかな賛辞は、伊住の心底から生まれたことば、まことなのだ。・・・そのことにじぶんで気づいたとき、伊住は決まり悪さをおぼえ、それから思いのほかにすがすがしい気分になったのだった。

「母さんの腹の中で、もそっとこらえてくれよ、真由。因幡はまだまだ遠いんだからな」

 因幡までは四、五日はゆうにかかる。それに身重の櫛名田を乗せたままでは、そんなに馬を飛ばすこともできない。伊住は須佐ノ男が天照をくい止めることを期待しながら、しかし焦りで汗が噴き出てくるのを止められないのだった。

 天照は須佐ノ男を憎むのとおなじように、櫛名田も目の敵にしている。それは須佐ノ男に愛しまれて彼とのあいだに子まで成した櫛名田に向けられた天照の嫉妬のゆえらしいが、逆恨みもいいところだ。

 それから少しも行かないうちに、彼女の息がひどく荒くなったのに気づき、伊住はおもわず舌打ちをした。陣痛の波が襲ってきたにちがいない。伊住はすぐさま馬のたづなをひくと、肩を揺らして痛みにあえぎ、しゃくりあげる櫛名田をだきかかえた。孕んでいるとはいえ、おんなを抱くのがこんなに難儀に思われたことは一度もないようにおもわれた。 緑の葉がしげる直土のうえに毛衾のたぐいを敷き重ねてから、そっと彼女を横たえる。痛みにあえぎ、たおやめとは思えないすごいちからで腕をつかんでくる櫛名田を見下ろしながら、彼女のことがつよく抱き締めればこわれてしまいそうな泡にすら伊住はおもえた。

 伊住はそれから馬につけていたムシロ荷鞍のうえから、荷物を縛っていた縄を取り払うと、こまごまとした物をとりだした。火を起こし、そのなかに石をほうり込んで焼石を用意する。口の広い金だらいに満たした水のなかに、真っ赤に焼けた石をいくつも投げ込めば、じきに多少ぬるくとも産湯ができあがる。

 なにぶん急なことで、産屋の婆である間野ばあを連れてくる余裕もなかったし、なにより間野ばあは腰を悪くしており、一人では歩くこともままならない状態だった。

 山の中での出産になることはなかば覚悟したうえでのことだったが、男の伊住ひとりにきっちり産湯がとれるかというと、じっさいおろおろすることしか出来ないのだった。

 それに産屋というのは、男がのぞいていい場所ではないのだ。男はたくさんの穢れを身に負って生きている。生きてゆくためにけものを殺して喰らい、その皮をはいで身にまとう。ひとの死にぶつかれば、それは消し去ることのできない死の忌み、穢れとして身に染み付くのだ。けれど、おんなはちがう。おんなは月が満ちるたびに、穢れを体から捨て去り、まっさらに生まれ変わるのだ。男が子を産めないのも、穢れを捨て去れないままに背負いこみ、澱として身にとどめ過ぎているせいなのかもしれない。

 ひとが産まれるふしぎ、けものが産まれるふしぎ。それらはそう変わらない。どちらも自然のことわり、厳粛な儀式にはちがいないのだ。

 ・・・厳粛な場、この世にいのちが生まれ出る神聖な産屋に、男が穢れを持ったまま立ち入ることは禁忌であり、けっしてゆるされないことなのだ。伊住のほうも、いずれ誰かを孕ませることがあるとだろうとは思っていたが、お産につきそうことになろうとは思ってもみなかった。しかも、取り上げようとしている赤ん坊は真由なのだから。

「伊住!」

 苦しさと心細さのあまり、櫛名田が悲鳴のようにそう叫んだ。伊住は手持ちぶさたに火をあかあかと燃やし、薪をほうり込んでむやみに焼石をつくっていたが、名を呼ばれたからには知らぬふりをしているわけにはいかないのだった。

「おれがあんただったらなあ」

 手を握ってやると、櫛名田は血の気がうせて白くなるまでに強く、彼の手をにぎりしめた。爪を立てられたが、伊住のかんじる痛みと彼女の負っている痛みのちがいなど、どうやってもはかれそうになかった。

 伊住はいたましい思いで櫛名田の悲鳴ともとれるうめき声を聞いていたが、正直をいって、とうていその激痛を変わってやることなどできそうにはなかった。櫛名田の顔に浮かぶのは苦悶の表情であり、まなじりに滲むのは痛みゆえの涙。ゆるんだ衣の胸元からのぞくしろい肌は、荒い息をついているために大きく上下をしていた。

(まるで、戦場だ)

 伊住はふと思った。数千の兵がいるわけでもなければ、矛盾をぶつけあう音、男たちが武功をねがって直土のうえで足を踏み鳴らす音がきこえるわけでもない。しかし、たしかに伊住は櫛名田が戦いをしていると感じたのだった。一人きりの戦場、睨み合う相手は生か、それとも死か。生きようとする生命を産み落とす裏には、つねに死が口を開いているのではあるまいか。

 神代のむかし、佐那来の男神と佐那巳の女神が千曳の大岩を差し挟み、現世国と黄泉国にわかれて離縁をしたとき、佐那巳の女神は夫を恨みぬき、呪いの言葉を吐いた。

「あなたの国のひとびとを、一日に千人くびり殺してさしあげる」

 すると夫たる佐那来の男神は妻にやさしく言った。

「あなたがそうおっしゃるならば、わたしは一日に千五百の産屋をたて、あらたな生命でこの世をみたそう」

 それから一日に千人が死に、千五百人が産まれるのだ。顕なる佐那来の大神が生命を歓迎するのに相反し、黄泉国の支配者、闇なる佐那巳の女神はひとの死こそを望む。高天原びとたちは、彼女を黄泉大神とも呼んで厭い、おそれた。彼女の名を口にすれば、悪い神々が言霊に乗ってやってくると信じていたのだ。

 産屋にあっては、顕なる佐那来だけを祀り、佐那巳は忌むべき神として追いやられているのだ。

「さなき、さなき・・・」

 緑の草葉がしげる木々の間、青々しい葉が朝日をほのかに照り返しはじめていた。まもなく朝だ、伊住は一睡もせずにたき火を燃やし続けていた。櫛名田のあえぎ声が、ひときわ高くなっていた。間もなく火は要らなくなる。赤子が生まれ落ちる時は、近かった。

「さなき、さなき」

 苦しむ櫛名田は、うわごとのようにそうつぶやいていた。赤子が安らかに生まれ落ちるように、顕なる大神の御名をとなえるのだ。きっと闇を追い払い、ひかりを招く祝詞のようなものなのだろう。

 それにしても櫛名田の様子は奇妙だった。眼皮は震えがちにうっすらと綴じられ、くちびるはわずかに開いている。そこから真珠の白をおもわせる歯がのぞいている。彼女のする表情は、もはや苦痛ではなく恍惚なのだった。

 まもなく櫛名田はひときわ高く声を上げた。身をそらしきり、身もだえしたためにゆるみきった胸元からこぼれるのは、うれた果実のようにいまにもしたたりそうな生命をはらんだ乳房であった。

「吾が背のきみ!」

 櫛名田は叫んだ。伊住が声を上げたのは、それとほぼ同時であったろうか。

「産まれた!」

 夜がしろみ、朝日が木の間から線上になって漏れ落ちてくる中で伊住がとりあげたのは、ひとの子とはとうてい思えない、けものの子であった。しわしわのちいさな体に、まるくひしゃげた鼻。髪は生えておらず、まるで野焼きをしたあとのようだった。これではまるきり子猿だが、たしかにひとの子。真由なのである。伊住が取り上げるやいなや、真由は少し喉を鳴らしてから、はげしく泣き出した。

 それでもぬるい産湯をつかわせてやると、泣き声がすこしだけちいさくなった。元気よく泣いていなければ、ただのふにゃふにゃしている物体にしか見えない。伊住はまったくふしぎな気持ちだった。

「美人になれよ、かあさんみたいに。いいかい、とびっきりのいい女になるんだぜ」

 伊住は赤子に向けてつぶやいた。間野ばあが言っていたことを、彼はおもいだしていたのだった。赤子が産まれたなら、かならず誰かが言祝ぎの言葉をあげなければならない。これから起こるだろう楽しいこと、嬉しいことを、言祝ぐことばのなかに交ぜて赤子を嘉してやるのだ。

 生きていくのはつらいことも多いけれど、楽しいことはもっと多いよと。だから泣くのをやめて、笑ってごらん。そうやってなだめてやらなければ、赤子はなきやまないのだと間野ばあは言ったものだった。

 泣き止まない子は、ほとんどが体を病んでいる。赤子というのは、母親の胞衣のなかがよほど恋しいものらしい。泣くのも、あたたかな母の腹から追い出され、せまい産道を苦痛とともに抜け出てくるからだと。「それだけではないのよ、伊住ちゃん。あかんぼというのはね、じぶんが辛い現世で生きていかなきゃならないのが悲しくて、わあわあ泣くのさ。あたしらよりもあかんぼというのは、ずっと神さまにちかいんだ。あかんぼのうちは、みんな神染みた現人神さ。ちっちゃいけれど、あかんぼは先の世の辛さをまだ覚えているから、だだこねて、母親の胞衣を恋しがる。だからね、そんなに現世も悪かないよ、いいことだって、たくさんあるよ、そういうふうにあたしらが教えてあげなきゃ」

 歯切れのいい間野ばあの言葉が伊住の耳によみがえっていた。

 真由がこれからどのように生い育ち、どんな娘になるのか。伊住にはそれがわかっている。泣き虫で、こわがりで、怒りっぽい真由。気高の里ではいつだって伊住のあとについてくるものだから、里のわんぱくな童男たちには「伊住ちゃんのひな人形」とはやしたてられたものだった。つまり、いつでもどこでも一緒だと揶揄られたのである。

 真由が「伊住ちゃん」と女の子のように呼ぶものだから、童男たちはそれを面白がっていっせいにバカにするのだ。しかし本当に頭に来たのは女の子あつかいされていることではなかった。いま思えば、真由が笑われていたことにこそ苛立っていたのかもしれない。じぶんが笑われている事にもきづかずに一緒になって笑っているちいさな真由に、どうしようもなく伊住は腹を立てたのだ。じぶんよりも二つ年上の、大将格のおおきな童男にはじめてなぐりかかったのも、「伊住ちゃん」よばわりされたせいではないのだ。

 因幡で七年ぶりに真由に再会したとき、伊住は別れたときの面影をけしさってしまった真由に、まず戸惑ったのではなかったか。中身は泣き虫のままだったが、真由はもうむかしのはな垂れ真由ではなかった。少なくとも伊住のあとについてまわる、腰ぎんちゃくではないのだ。

 伊住の方ではあきらかな隔たりをかんじたのに、真由は伊住をむかしとかわらずに「伊住ちゃん」と呼んだ。もう昔は取り戻せないのに、むじゃきに寄ってくる真由に伊住は腹が立ったのだ。昔の伊住がとりわけ優しかったわけでもないのに、むかしの話ばかり持ち出されて頭に来たのだ。

「おまえといると、おれは腹が立ってばかりだよ」

 伊住はくしゃくしゃの顔をした赤子をぬるい湯から抱き上げ、まあたらしい麻布で水滴をぬぐった。それからしおれた産着を荷物の中からとりだすと、苦労して着せた。ウサギ皮の毛衾でつくったあたたかな襲衣で身をくるんでから、伊住は櫛名田に目を向けた。赤ん坊の母親は大仕事を終えてまどろんでいるようだった。やわやわしい赤子の手を握らせてやると、櫛名田はよわくほほ笑んだ。それから、引きずられるみたいにまぶたを綴じた。伊住は櫛名田の毛衾のしとねをなおし、彼女の身に肩まできっちり麻衾をかけてやった。

 伊住はおとなしく泣き止んだ真由を腕にだきなおすと、なにげなくあたりを見回した。なにか背中にまなざしのようなのを感じたのである。 振り返った伊住は、声もないまま立ち尽くした。伊住にわずかの気配も感じさせずに、杉の木立のもと、十足ばかりはなれた場所におとこが一人、たっていた。二十歳くらいの見目麗しいおとこだ。しかし、伊住はすぐさま異様なものを見たように身構えた。男と見間違えたのは一瞬のことであり、伊住はすぐさま相手がおんなであることをみとめた。

 伊住が女装をしても誰も彼を女とみまちがえる人間はいないだろう。それと同じで衣一枚を隔てていても、男女のちがいはあきらかであり、おんなの柔々しい肢体の線は隠せない。目の前にいるのはたしかに麗し女なのだった。

 白い衣に揃いの足結いの袴。手首や胸元にはうつくしい玉をたくさん連ねた御統をまとっている。八尺賑の勾玉は下げ角髪にしたつややかなおんなの黒髪にも飾られていた。早鳴き鳥の卵よりもしろい面輪には、きりりと吊り上がったまなじりをしたするどい瞳があり、鼻すじはすっと通っている。唇は毒々しいまでにあかく、それがまことの血なのだと知ると伊住は大きく喉を鳴らした。おんなのくちもとは、真っ赤な血で汚れていたのである。伊住は体中に冷や汗がふき出るのを感じた。

「天照」

 伊住は口の中でつぶやいた。しかもあの血は、須佐ノ男のものだ。須佐ノ男と霊力を戦わせ合った後ではないのか。それは確信であった。

 須佐ノ男は、死んだのか?

「その赤子をよこしやれ」

 おんなは顔に似合わぬごく低い声でそう言った。歩み寄ってくるのにも、伊住は情けないことに一歩もうごけなかった。近づいてくる足音、草場を踏み散らす音。それを聞きながら、伊住はおんなの白い衣のあちこちに、まあたらしい血しぶきが飛び散っているのを見つけていた。

「その子は、生きていてはならぬのだ。いずれその赤子は、生い育つすえにわたしの大穴牟遅に害をなすであろう。わたしの闇見はけっしてはずれぬ。わかるであろ? そうなってからでは遅いのだということ」

「帰れ!」

 伊住は低くうなった。しかし天照のまえでは、ただ立っていることすらもひどく大儀で、際限まで気力を奮い立たせねばならなかった。彼は天照のまなざしを見返し、気負わぬように睨みつけた。腕の中の真由をいよいよ強くだきしめる。

「わたしが帰るとすれば、その赤子をころし、そちらに寝ているおなごを縊り殺してからであろうな」

 天照は聞いているこちらが震え上がるような声音で言った。しかし伊住のこころに湧き上がるのは、惧れではなくて怒りだった。

「須佐ノ男め、わたしにどんな目隠しをしたのか。できることならば、生まれ落ちる前に母親もろとも始末をつけようと思っておったのに。まあよいわ。まとめて殺すだけのことよ」

 天照は伊住ににじりよった。

「満月の赤子は神にもっとも近いのだ。産み時にはたらく霊力の源をさぐれば、須佐ノ男の生みだした多少の霧などどうということはない。霧の中であっても月はあかるくひかる、そういうことだ」

 何を言っているのかさっぱりわからなかったが、ただ須佐ノ男はもうアテにはならず、目の前にいるのはあきらかな敵ということだけだった。「さあ、よこせ。よこしてここから立ち去れば、うぬの生命は助かる」「そっちが消えな」

 命乞いするならば死んだ方がマシだった。じっさい、強がりでもなんでもなく伊住はそう思っていたのである。目の前にいるのは、高天原の支配者、天照大巫女王にちがいない。しかし、怒りをおぼえたとたんに惧れはどこかへ消えてしまっていた。息をするのもままならないくらいの緊張はあったが、伊住にとってしてみれば恐れを覆い隠すくらいの怒りが産まれたことはすこぶるありがたいことだった。彼は、じぶんが何かにおびえるということが許せないのである。とくに、あきらかに間違っている相手にじぶんが気負いするなど、どうしても許せないのだった。 いくら高天原の女王だろうと、今さっき生まれ落ちたばかりの生命を握り潰す権利が、どこにあるというのか。

「須佐ノ男は、死んだのかい」

 伊住は真由をふところにかくまうようにしながら、つとめて静かに言った。しかし声の調子はおだやかであっても、伊住は胸がむかついてどうしようもないのだった。押さえがたい吐き気は、天照の無表情を見て感じるものなのか。それとも、人ならぬものに真向かった伊住の惧れなのか。

「殺しはせぬ、まだ、な。われら巫は、互いなしには霊力の行使ができぬのだ。いまのあやつは、気を失っているだけよ。それ、そちらの母子をなぶりごろし、ただの肉塊に変えて父御といっしょに葬ってくれる。須佐ノ男はそれをどんな顔をして見るのであろうな。・・・ほほ、あやつが死ぬのはそれを目にとめてからでも遅くはあるまいよ」

 天照は顔色ひとつかえず、そう言った。まなざしは虚ろで、ほんとうに伊住に向けてしゃべっているのかも確かではなかった。会話しているというよりは、自分自身に語り聞かせているといったほうが正しく思えた。

(狂っていやがる)

 伊住はまばたきすらできずに、天照を凝視していた。わずかでもスキをみせれば、たちまち取って喰われそうな気配なのだ。しかし、すぐさまコトを仕掛けてこないのが、また奇妙であった。巫の霊力を身にもつ天照であれば、ただびとの伊住を捻りつぶすことなど容易いことであるのに違いないというのに。

「須佐ノ男は高天原をすてた。すなわちそれは、わたしに仇なすのと同じこと。高天原の血は、高天原をはなれてはならぬ。高天原のためだけに巫の霊力は使われねばならぬ。・・・高天原にあだなす霊力なら、わたしはそれを抹殺する義務があるのだ」

「須佐ノ男が何をしたって言うんだ。あいつはあんたを最後まで姉うえと呼んでいたぜ。須佐ノ男はあんたの弟だろうに。それをどうして」

 天照はそれを聞くと、歩みをふいにやめた。彼女が手を伸ばせば、簡単に赤子の頬に触れることができそうなほどの間近である。伊住は後ずさりすることもできず、天照のはなつ気迫に呑まれて固まっているばかりだった。まさに蛇ににらまれたネズミよろしく硬直し、腰が砕けなかったのがせめてもの救いとはいえ、その場にへたり込まないほうがふしぎなくらいだった。

「そのとおりだ。あの子は、最後までわたしの弟だったのだ」

 天照はふいに吐き捨てるようなはげしさで、言い捨てた。瞳にたたえられていた虚ろさが消え去り、その一瞬だけうつつをしっかりと見据えたのだ。

「にくい男。最後まで、われが大穴牟遅の父だとは認めなんだ」

 それから天照は、伊住の腕に抱かれた赤子に手を伸ばすと、しわくちゃの頭にそっと触れた。伊住は身を引くこともできずに、赤子のひたいを撫でている天照のほそい指先だけを、くいいるように見つめていた。

「この子を渡せ。わたしはそれをうぬに頼んでいるのだ。なにをうぬはおびえる? わたしはうぬを殺さぬ、いいや、殺せぬのだ。・・・うぬは何かにまもられておる。いや、そうではない、わたしはうぬを殺す気がなにやら起きぬのだ」

 赤子のひたいをなでていた天照のしろい手が、伊住の頬にまでふれた。死人のような冷たい手だった。伊住は振り払うこともままならず、ただ息を詰めてじっとしているだけだった。ごく近くで見る天照の容貌は、やはり彼の祖母、因幡の呼月と瓜二つであった。

「うぬに、なにか同じものをかんじる。そう、なにかあたたかなものだ。血の流れ、あるいは・・・うぬ、わが妹姫に縁のものか」

 天照は鼻先が触れ合いそうになるほど近くまで伊住に顔をよせると、ふいに離れた。

「いいや、たとえそうであろうと、どうでもよいことだ」

 伊住ががんとして赤子を手放すそぶりもみせないせいか、天照はしびれを切らしたようだった。

「うぬ、死ぬ覚悟はできておろうな。赤子を手放さぬのなら、うぬらともどもわたしの炎で焼き滅ぼすのみよ」

 天照の手には、いつのまにか十拳もの長さのつるぎがにぎられていた。赤子を抱き、あやすのこそが相応しいようなおんなの柔らかな手には、つるぎなどあたら似合わぬものであった。

「ちくしょう」

 男であろうと両手で支えねば持てないような長剣を、天照は片手でかるがるとかまえていたのだ。大蛇のたましいのかがやき、剣身が光をはなっているわけではなかったが、十拳もの長さで、かなりの肉厚の両刃の剣などそうそう他では見かけないものだった。形から言っても須佐ノ男のもっていた大蛇の剣に違いない。

 それに剣に選ばれた振るい手、持ち主でないから輝かないということは、真由の勾玉をみてもわかるように十分ありえることだった。伊住は天照が大蛇の剣をもつことの意味を、認めないわけにはいかなかった。剣の振るい手たる須佐ノ男が死んだから、いま天照の手にはかがやかぬつるぎがあるのではないのか。

 須佐ノ男は天照に負けたのだ。大蛇神のたましいまで味方につけておきながら、なぜ須佐ノ男は負けられるのか。伊住は須佐ノ男のふがいなさにこそ、歯がみをしたい気分なのだった。怒りも湧こうというものである。櫛名田は、ひとりの味方もなしに戦を勝ち抜いたのだ。いくさとはいえ、産屋での戦である。生と死を隣り合わせにしていきるのは、男も女も同じなのだ。男は矛盾をもち、血塗られた戦場におもむく。死とたたかい、生を勝ち取る場所は、女にとっては産屋なのである。

「なにが櫛名田をまもるだ」

 伊住は大きく振りかぶられた剣のきらめきを痺れたように見つめながら、しかし悪態をつくことだけは忘れていなかった。

(殺られる!)

 朝もやが立ち込めるなか、伊住は数瞬後には切り刻まれるであろう我が身をおもった。目をかたくつぶり身をかがめ、真由を胸内にいだくように天照に背を向けたが、しかし伊住の身のうえにはいつまでたっても痛みなどおとずれない。彼はそろそろと目を開け、天照を振り返った。「須佐ノ男」伊住はすぐさまそう叫んだ。たしかに目の前にいるのは須佐ノ男であった。体中を血まみれにし、肩で大きく息をついている彼のすがたを目にとめたとき、伊住はまず濃い血のにおいに眉根をよせた。血の匂いにまじって、肉の焦げるいやなにおいがする。

「・・・間に合ったか」

 須佐ノ男はかすれた声でそう言った。天照のふるった剣は、須佐ノ男の血まみれの腕がくい止めていた。彼のすがたはすさまじかった。ひわだ色の衣袴は血の赤に染め変えられ、しかもあちこち切り裂けてぼろぼろであった。

 伊住はこちらに向けられた須佐ノ男の背中を目にとめると、息を呑んだ。須佐ノ男の背中には大きな火傷があり、まるで焼石を背なで受けたかのように黒々と爛れ、衣もその部分だけ丸く焼け焦げていた。肉の焦げる匂いは須佐ノ男が持ち込んだものだったのだ。

 角髪はとうに振りほどけ、固まった血が髪の毛をごわごわに固めしめているのだ。須佐ノ男には右の腕がなかった。目をこらしてみても、右の肘から下がすっぱりとないのである。

「わたしの落ち度だ。天照のつくりだした幻影なのだろうが、櫛名田の悲鳴を耳に聞いたと思ったときには、すでに右手がなかった」

 須佐ノ男は息をつきざまに続けた。

「腕ともども剣がうばわれるやいなや、大蛇神の魂は剣ごと天照に鎮められてしまった。剣を失ったとたんに、このとおりだ」

 苦痛の色はあったが、須佐ノ男は動揺もにじませずにそう言ってのけた。伊住は怒りが押さえられなかった。天照といいこの男といい、一体なんなのだ。

「なにがこのとおりだい」

 伊住はうなった。

「大口ばかりたたきやがって。あんたが一足でもくるのが遅れたら、おれも真由も今頃、おっ死んでいたんだぜ」

「すまない」

「ばか、あやまるより先に、てめえの姉やをなんとかしろよ」

 じぶんが何もできないのがはがゆくて、伊住は地団駄を踏みたい気さえした。霊力をもつというのがどういうことなのか、伊住はさっぱりわからないし、興味もない。ただ、肝心なときにはなにもできない我が身がはがゆくてならないのだ。

「やはり裏切るのか、そなたも」

 天照は悲鳴のようなするどい声で叫んだ。伊住はその時ようやく、天照の感情らしい感情を見たような気がした。天照はしろい頬を憤怒であかく染め、その瞳はぎりりと須佐ノ男を睨めつけていた。

「どんなに愛しもうと、そなたには足らぬのだな。わたしがどんなにやさしくそなたを腕に抱こうと、そなたはそれを檻としか見ぬのだな」

「ちがいます、天照」

 須佐ノ男はくるしそうに言った。

「檻というなら、わたしは王坐という檻にとらわれたけものだった。ひとりでは飛ぶ空もしらない、無知なけものだった。王坐びとたちは、神薙であるわたしをまるきりの無知にしたてあげ、意のままにしようとした。天照、あなたはそんななかで、わたしをけものではなく人として扱ってくれた数少ないなかのひとりだった」

 須佐ノ男はしずかに言った。

「あなたは檻ではない。わたしにとって、自由に駆け回れる野のようなひとだった。ずっと昔から・・・いまも」

「口だけはうまくすべるのだな。しかし、そなたはそれでもわたしから逃げたのだ。わたしと大穴牟遅からにげおおせたのだ。しかも、なぜよりにもよって土蜘蛛のむすめなどと」

「わたしは逃げたのではない。立ち去っただけです。・・・王坐は、わたしの故郷ではなかった。神を殺すことを厭わず、神を領履こうとする傲慢な高天原びとの考えを、わたしはどうしても受け入れることができなかった。わたしはあなたのことが愛しい。しかし、どうしてもわれらは相いれないのです。歩み寄ることは無理だ。それはいまさっき、お互いに身をもって証明したはずだ。わたしとあなたの考えは、どうあっても相いれない・・・」

「黙れ」

「あなたが天照らす顕なる大神の末裔だとしたら、わたしは闇足らしめる闇なる佐那巳の大神の末裔だ。いまなら確かにそう思える。あなたは確かに、高光る高天原の現人神だ。あなたの激しさは、わたしには眩しすぎる。・・・わたしは光よりも、闇がすきだ。しずかな闇を足らしめる、ふかい青褐色の夜が好きだ。櫛名田の髪のいろ、彼女の髪のにおいが」「黙れ!」

 天照はどなった。しかし須佐ノ男はおびえるそぶりも見せなかった。「そなたはわたしを意のままにしたのではないか。いつの夜であったか、そなたはみずからの血肉をわたしにそそぎこみ、その一夜の共寝でわたしは大穴牟遅を腹にやどした。それをそなたは、なきものにしようというのだな。わたしに刃向かおうというのだな」

 伊住は話の内容に息を詰めた。大穴牟遅とは、八千穂のことだ。話の流れからいって、須佐ノ男が八千穂の父親ということになる。八千穂は同母のきょうだいの婚いのすえにうまれた、忌み子であったのだ。

「あなたはわたしを愛しんでくださった。おさないわたしが自由に遊ぶことのできる野を与えてくださったのが、天照、あなただ。しかしそれは、わたしにはもはや狭くなってしまったのです」

 須佐ノ男は青ざめた表情をしながらも、言い進めた。

「天照、結局あなたは、王坐びととおなじだったのだ。叔母の覆月姫を妻問いしたわたしを、あなたは許してくださらなかった。あのひとは、わたしのまことの母のようなひとだった。なのにあなたは、覆月の里を焼き滅ぼし、わたしを裏切り者とののしった」

「何が悪いのだ」天照はむじゃきに言った。

「覆月は汚らしい太った猪だ。そなたは盲いか? あんなおんなを妻問いするなど」

 須佐ノ男は天照の物言いをさいごまで聞かずに、畳み掛けるようにさけんだ。伊住が知らない激しい怒声だった。

「わたしはあなたの持ち物ではないのだ」

 天照はひととき目を瞠ったが、すぐに笑い出した。どこかうつつばなれした、やけに軽やかな笑い声であった。伊住はなにやら痛ましくなり、くちびるを歪めた。

「そなたは、わたしの言うとおりにすればよいのだ。なぜそれに気づこうとせぬ。わたしとそなたが高天原の支配者として御座にすわり、高光る日の御子を据えて高天原を領履く。それがわたしの願いなのだ。いちばん良い方法なのだ」

「目を覚ますのは、あなたのほうだ」

 須佐ノ男は吐き捨てた。

「高天原にふたつ御座はいらない。かつて高天原には、たしかに二つの御座があった。しかし御座がふたつあるということは、明の戦が芦原中津国にいや盛えるということなのだ。賢いはずのあなたが、どうしてそれをわかってくださらない」

 伊住の腕の中の真由が、ふいに声を上げて泣き出した。須佐ノ男はひととき伊住をふりかえると、真由をいちずにみつめた。伊住のほうなどまるで見てはいなかった。ただ真由をみつめながら、須佐ノ男はみじかく言った。言葉はくちびるから発せられるものではなく、頭に直接にひびく声である。

(大蛇神はまだ鎮められてはいない。鎮められるまえに、わたしが解き放った。大蛇神はどうあっても櫛名田を救う。伊住、真由と櫛名田をつれて逃げろ)

 ここからどうして逃げろと言うのか。伊住は眼差しだけで否、と言った。背を向けざまに殺されるのがオチだ。それに、櫛名田は歩けるような状態ではない。

(いい、案ずることはない。わたしが大蛇神のもとまで、おまえたちの身を飛ばす。目をとじろ)

 伊住はひきずられるように目を綴じた。すると、ふいにまわりの空気が重たくなったように感じられた。重い空気が肌を押し潰し、息をするのもままならない。腕のなかの真由が、ひときわ高く泣いた。胃の腑が上下するような最悪の吐き気に伊住は顔をしかめた。気が遠くなる。

 彼がまっしろな視界をおぼえるまでのほんのわずかな時間に、伊住はかん高い悲鳴をきいた。がんこな響きのある、娘の声だ。

「わたくしはいや! わたくしは、どこにも行かないわ」

(ばかやろう)

 その叫び声が櫛名田のものだと知っても、伊住はもはやなすすべもないのだった。

                     

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