かみなぎ29

 真由はふいに暗闇のなかに突き飛ばされたような気分で、あたりをせわしなく見渡した。けれどいくら目をこらそうと、真由のまわりに満ちるのは本当の暗闇、顕なるかがやきをすべて閉め出した深い闇であった。 ふつうならば、ひとは闇をおそれる。闇のなかに何か得たいの知れないもの、恐ろしげなものが潜んでいると考えるからだ。闇は死人たちのもの。闇なる女神の領のひとびとのもの。だからひとは夜になると寝床にもぐりこみ、闇の女神の手によって黄泉国にひきずりこまれないように、朝が来るまでじっと眠るのだ。

 けれど真由はこの深い暗闇がいとおしくすらあった。闇は真由にとってどんな柔衾よりもあたたかく身を包んでくれるものであり、母の胞衣にたちもどった赤子をしっかりと守ってくれる母のような存在にさえ思えたのだ。

 すべてを忘れさせてくれる闇。つらいことや苦しいことのかわりに、まどろみだけをあたえてくれる。あたりにはすばらしい風がふいていた。風はときにゆるやかに、ときにせわしなく真由の頬やくびすじをかすり、どこかへ吹きすぎてゆく。真由は目をとじた。ここがどこかはまるでわからなかったものの、ただ、ここにずっといられたらいいなと思っただけだった。真由にまつわるすべての事柄をたちきってでも、彼女はここにいたかった。いとしいひとたちの事を忘れてしまったとしてもかまわないと、真由は心から考えさえした。

 真由はそっと綴じた眼皮をひきつらせた。まぶたに、いいや全身に、はちきれんばかりに光の洪水、はじけた光のつぶてがぶつかってくるのを感じたせいだった。顕なる太陽のかがやき? 真由は目を綴じたまま、光のあまりの明るさに胸が悪くなった。

 真由の闇を打ち破ろうとするのはだれなのか。こんなあからさまな輝きは、この闇にはそぐわない。そぐわないどころか、闇そのものを滅ぼそうとする意志、勢いがある。じっさい、まさに光はどとうのごとく闇を追い払い、打ち払った。

 光は、炎なのだ。真由は気づいた。飛び散り空を満たす光のなか、まぶたをこじあけた彼女の目に燃え盛る炎の群れがおどっていた。猛り狂ったように炎は御館や住居を焼き、そのなかに対峙する人影をみとめたとき真由は息を呑んで、立ち尽くした。

「ばかな男よ。あやうい土地神の霊力などにすがりおって。だからそなたはわたしに勝てぬのだ。そなたはどんな神々よりも雄々しい男だった、それがなんだ? 須佐ノ男よ、いまのそなたはまるで腑抜けぞ」

 時化のときの海よりも荒れた炎の海のなか、天照と須佐ノ男がいた。しろい衣袴に髪は角髪に結った天照は、その勇ましい外見とはちがっておんなの顔をしていた。りりしくもありながら、彼女は慈愛のこめられたやさしい瞳をしていたのだ。そして赤いくちびるから紡がれるのは、この荒々しい場面にはまるでそぐわない、いとしい恋人に甘言をささやくやさしい声音だった。

 天照は須佐ノ男の喉元にぴったりと剣の刃をあてがっており、須佐ノ男はといえば息をするのも難儀なように肩を揺らし、身すべてで呼吸をしている。片足を黒焦げの直土のうえにつき、しかしそのまなざしだけは天照を睨みつけていた。櫛名田や八耳らにはけっして見せなかったような、怒りにまみれたけものの瞳だ。猛っているけれど、とても悲しい瞳だ。

 彼には右の腕がなかった。ただしく言えば、右手の肘から下がすっぱりとないのである。

「いまの汚れたそなたは見るにたえぬ。ひと思いに殺してくれようぞ」 天照は剣をふりあげた。女の柔腕なら触れるのも恐ろしくてためらわれるような十拳もの長さの長剣である。だいの男でも両手で支えもたねばならないしろものを、天照は片手でかるがると振るっていた。

「わたしのいとしい背の君」

 恍惚とした顔で天照はつぶやいた。

「いまいちどわたしにひざを折れ、須佐ノ男よ。心から高天原に屈すのだ。さすればわたしはそなたを許し、そなたと共に歩みを同じくもできよう。よいか、わたしが甘い顔をするのはこれが最後ぞ」

 須佐ノ男はするとくちびるに皮肉な笑みさえきざみながら言い切った。「わたしのいとしい天照。言ったはずだ、わたしとあなたはもはや相いれないのだと。高天原をはなれたわたしは、あなたにそれに気づいていただきたかった。わたしがあのとき高天原にとどまりつづけていたら、あきらかにおおきな戦になっていただろう」

 いちど激しく咳き込み、須佐ノ男は血の混じったツバを吐き下した。「あなたにはなぜわからないのだろう、呼月が高天原をはなれたわけが。高天原に御座がふたつはいらないように、大巫女王がふたりはいらない。だから呼月は高天原を捨てたのだ。おなじように、あなたがわたしと同じ場所に立とうとしたときに、すべての歪みが生まれたのだ」

「何を言う。わたしの決断がまちがっていたとでもいうのか、そなた。呼月はみずから高天原をすてた・・・わたしを捨てたのだ。あやつは因幡などに引っ込み、わたしとのかかわりを断ち切った。なぜだ、わたしがなにをしたのだ。大巫女王がふたりおってなぜ悪い。御座をめぐる争いなど、われらのあいだでは起こるべくもなかったというのに」

 天照ははじめて狼狽をみせた。天照がうろたえたのは、須佐ノ男が呼月という名をだしてからだった。須佐ノ男はそれを知ったうえでしずかに言った。

「呼月や天照、そしてこの須佐ノ男に争う気がなかろうと、周りはそうはとらない。どちらかがあるじで、どちらかが側近なのだ。それをはっきりとさせなければ、王坐びとたちは納得をしないだろう。

 もしわたしが大王になろうとする気があれば、わたしはまちがいなく天照と呼月、あなたがたを殺していただろう。さいわいわたしは大王の御座などに興味はないし、父上は天照を大巫女王に指名した。そこには建御雷の思惑もからんでいただろう。だが、高天原は平和におさまった。それでいいではないか。なのにあなたは、いまさらになってそれを乱そうとする。和の乱れはなにより忌むべきものだ。なのに天照、あなたはとほうもないことを言い出した。女王と大王の共同統治、などと」

 須佐ノ男は笑い声をあげた。しかしまるきりおかしくて笑っているのではないということは、悲しみばかりがたたえられた表情からあきらかであった。

「なぜあなたはそれがわからないのだろう。いいや、わかろうとしないだけだ。炎は風によって生まれ、風のながれる方向に進むしかないのだ。われら炎の末裔は、猛々しさとあきらめを血のなかに息づかせている。もはや、すべてが遅い。たとえわたしがあなたにひざを折ろうと、わたしがあなたを領履いた事実は消えないのだ。消えるどころか、大穴牟遅が生い育つごとにあきらかになる」

 須佐ノ男は息をついた。

「あなたの婚いは、神聖なものでなくてはならない。わたしとの婚いは、あきらかに隠されるべき忌み婚いだった。高天原をゆるがす忌み子だ、大穴牟遅は」

「そなたは高天原から、いいや、わたしから逃れたいが為に、わたしを抱いたというのか。しかし、あれが忌み婚いだったというのなら、わたしが八十どもを孕んだまぐわいは、よいものなのか? 山城、近江、摂津、河内、居畝。それらの一族の首長らとおこなったまぐわいが、美しきものなのか?」

 天照はふいに須佐ノ男のくびすじにあてがっていた剣をとりさり、振り上げかけた剣の切っ先を足元につきたてた。

「そなたもわたしを裏切るのだ」

 そう叫ぶとき、天照はすべての権威をかなぐりすてていた。そこにいるのは、ただのおんなであった。大巫女王という地位に振り回された、あわれでかなしいおんなばかりだった。

「よかろう、そなたがわたしをうべなわぬのならば、こちらにも考えがある」

「何をなさるつもりか」

 須佐ノ男が苦しい息の下からそう問うと、天照はほほえんだ。しかしどこかおかしな、正気ではない微笑であった。ほほえむことで天照はどうにかして須佐ノ男の優位に立とうとしたのかもしれない。いいや、そんなことにまで考えがおよんでいたかどうか。

「そなたのいとしいものを、わたしがこの手でひとつひとつ握り潰してやろう。そなたが心引かれるものが、わたしにとって憎むべきもの」

「覆月をころし、櫛名田までころし、あとはだれが残るというのだ」

 須佐ノ男ははじめて憎悪を籠めた瞳で、天照を睨みあげた。

「あの赤子がおるではないか」

 須佐ノ男は全身をふるわせた。それから血まみれの我が身を舌打ちとともに返り見ながら、よろよろと立ち上がった。天照はそれを愉快そうにながめながら、つめたく言い放った。

「わたしとてそなたを殺せば、よもやただびと。この剣に鎮めた土地神のたましいは、わたしが王坐へ身を飛ばすためにつかう。よかろう、今は殺さぬ。わたしにはそなたとおなじく、霊力の涯がちかづいたようだ」 天照は独り言のようにささやかに言った。それから目を細めて須佐ノ男をみつめる。まなこに彼の姿を刻み込むようにみつめながら、天照は言い切った。

「この場はそなたの生命を消し去ったことだけで満足しよう。しかし、いずれわたしの大穴牟遅はそなたのむすめと目交いあい、ひかれあう。われらがそうであったように、そうならねばならぬ。そして、そなたの裏切りのぶんをむすめにあがなってもらうのだ」

「なにを・・・」

 須佐ノ男はあえいだ。

「そなたの裏切りはそなただけの死ではとうてい足りぬ。肉をわけて産んだわたしの大穴牟遅がわたしのかわりに剣を捧げもち、そなたのむすめを切り刻むのだ。大穴牟遅がむすめをころす。わたしには見えるのだ、手に取るように。そなたはわたしを何者よりもいとしみ、わたしの剣によって死ぬのだ。すべてが無に帰る。そなたが育ててきたもの、いつくしんできたもの、それらがすべてはじまりに帰る」

 うつろな高い笑い声を振り払おうとするように、須佐ノ男は頭をふった。天照はもはや正気など持ち合わせてはいなかった。

「八人ものけがらわしい子らを孕んだわたしのまぐわいも、すべてだ。すべてがはじまりに還る」

 須佐ノ男は天照に最期まで言わせなかった。唸るように叫ぶ。

「霊力ある巫女の禍言は禁忌だということも、あなたは忘れてしまわれたのか」

 言葉にはちからがある。ひとびとはそれを言霊とよび、ふだんの会話であっても不吉な言葉はさけ、よりよい言葉、つまり吉なる言葉だけを口にする。不吉な言葉は禍言とよばれ、禍言をききつけた悪い神がそれを真実に変えてしまうとしんじられていた。

 言霊のありようは人々にごく近く、効用は野の薬などよりはるかに大きい。霊力をもつ巫女のような存在にいたっては、毒を盛らずとも言葉だけでひとをころし、薬をもちいなくともひとを癒すことができる。

 霊力をもつ者は、だからひとを貶めるようなこと、ひとの死を願ってはならない。人のさだめを変えることすら、けして不可能ではないのだから。

「ほほ、禍つ誓約か。禍つ誓約というのならば、それでもよい。そなたが苦しむのならば、わたしの汚れた血肉などよろこんでいくらでもくれてやる」

「まゆは須佐ノ男ではないのだ。須佐ノ男はまゆではない。あなたは何をしようというのだ、禍つ誓約など口にして。何が欲しいという」

 心をふりしぼるようにして須佐ノ男は叫んだ。彼の目の前で、いままで須佐の里人たちと打ち立ててきた住居のかずかず、そしてちっぽけな御館が燃えてゆく。須佐ノ男はとうに燃え崩れた御館に目をはしらせ、それから天照をみつめた。ほんの二足の距離にたつ天照は、無目的に燃え盛る凶暴な炎のなかにあってこそ、うつくしく見えた。

「わたしの望むもの?」

 むじゃきに天照は笑った。しかしその声は女童のように頼りなげだった。須佐ノ男は、彼女のまなじりから流れ落ちるひとすじの涙をみつけ、しびれたように目を瞠った。

「わからぬ、わからぬよ。ただ、すべてを滅ぼしてしまいたい」

 須佐ノ男はなにかを言いかけた。しかし乾いたくちびるから何かが語られることはなかった。天照は須佐ノ男から語られる言葉を待った。声をまった。やがて声のかわりに、須佐ノ男のくちびるの端から血がながれだした。流れ出した血は彼の胸を刺し貫いたつるぎの白銀をくもらせ、胸からふきでる血は、柄をにぎる天照のしろい手までも真っ赤にそめた。 剣を引き抜き、その手を見つめながら、天照は笑う。ただ笑ったのだ。「そなたがわるい」

 それから天照は剣をなげすて、きつく弟のむくろをだきしめると、満ち足りた熱い息をついた。

「そなたを手に入れるのがこんなに簡単なことだと知っていたならば、まぐわった夜に殺してしまうのだった」

      *        *        *

「かわいそうなひとだ」

 真由はふいにその声を耳に聞いた。熱いまでの炎はきえさり、天照と須佐ノ男のまぼろしもにじむように、溶けさってしまったのだった。きっとあれも過去のまぼろしなのだ。かなしいまぼろしなのだ。

「どうして憎みあうことしかできなかったんだろう」

 しずかにそう言うのは、やはり八千穂だった。真由はうしろを振り返り、すぐにも彼のすがたをみつけると訳もなくかなしくなった。あたりは前のような暗闇でありながらも、八千穂のからだはほのかな白いひかりをはなっていた。八千穂のにじませる淡いひかりは天照のように激しいものではなく、闇によりそうおだやかなかがやきだった。

「いまなら、母うえの悲しみがわかる。どうやってもふさがらない傷口が、母うえをおかしくしてしまったんだ。傷をつけた剣をこわそうとして須佐ノ男を追って、けれど剣を壊してしまったあとに途方に暮れてしまった。傷も癒せないままで、こころを壊してしまった」

「天照のことをかわいそうと言ったのね」

 八千穂はすると困ったように笑った。やさしい笑い顔だったがひどく物憂く、疲れたような笑みだった。

「かわいそう、そうだろうか。ぼくにもわからないよ、まゆ。母うえをかわいそうといったら須佐ノ男も、櫛名田だってかわいそうということになってしまう」

 八千穂は言い続けた。

「いったいなにをかわいそうというんだろう。母うえは後悔をしていない、櫛名田も、須佐ノ男だって後悔なんていっぺんもしていないんだ。じぶんをかわいそうだとは思っていない」

「言っていることがよくわからないわ」

「ぼくもわからない」

 正直に八千穂はいった。真由は彼をみつめた。八千穂のまなざしは、前とはなにかが、どこかが違っていた。

「禍つ誓約ということばを聞いたね、まゆ」

 真由はおそるおそるうなずいた。

「ちからのある巫女さまの禁忌のひとつだと聞いたことがあるわ。巫女さまは口にする言葉が真実だけでなくてはならないって」

「言霊は言の葉としてあらわれるとき、たしかに霊力をもつ。ぼくらはやれると言えば何だってやれる気になるし、だめだといったらどんな簡単なことでもみんなだめになってしまう。それが言霊のちからなんだ。母うえは禍つ誓約を口にしてしまった。高天原の現人神、天照大巫女王の禍言だったとすれば、とても霊力のうえでぼくらでは抗えないよ。げんにぼくときみは、こうして出会ってしまった」

 八千穂は首をふった。あきらめが籠められたしぐさだった。真由はなんだか腹立たしくなって言い立てた。八千穂は真由との殺しあいを恐れているのだ。天照の禍言が実現されると思いこんでいる。

「禍つ誓約がなによ。天照大巫女王がなによ。いまのまぼろしが確かなら、須佐ノ男をころした天照にはもう巫の霊力は残ってはいないわ」

 巫はふたりでひとり。かたわれを失った巫は、霊力の行使ができない。「もう天照はまるっきりのただびとよ。ただびとの禍言なんて、こわくない。跳ね返してやればいいじゃない」

 いさましく言った真由だったが、不安がないといったらウソになる。天照のうつくしいくちびるから語られたむきだしの悲しみ、にくしみ。狂気のいろがあったのは疑いようもないことだったけれど、天照の物言いにはたしかにちからがあった。嵐風の中にあってもたゆまない力強さ、気を抜けば抗う間もなくそれに呑まれそうになる惧れをかんじた。

「まゆ、ぜんぶ聞いていたね? ぼくは、彼らの忌み婚いのすえの子なんだ。ぼくがここに存在することだけでも、じゅうぶん禍事なんだ」

 八千穂は目を伏せながら言った。須佐ノ男に目見のあたりがよくにた八千穂。真由は幻影のなか、はじめて須佐ノ男を見たとき、身が痺れたようになってみつめずにはいられなかったことを思い出していた。真由は須佐ノ男の容姿に、とくに陰りのある眼差しのあたりに八千穂をみたのだった。

「それがなんだというの」

 真由は首を振った。八千穂の瞳にかげりを落とし続けていたのが出生にまつわる後ろ暗さだというのなら、真由にとってはほんのちっぽけなことにすぎない。たしかに、驚かないわけはなかった。同母のきょうだいの婚いはけものでもしないといい、かたく守られるべき禁忌なのだ。その末に産まれた子は忌み子とよばれる。言祝がれるべき赤子の誕生は、それが忌み婚いのはての子であったなら、とたんに忌むべきものになってしまう。けれど、八千穂は八千穂でないか。

「なぜあなたが落ち込むことがあるのよ、なぜあなたが悲しまなくてはならないのよ」

 たしかに、王坐で不当なこともたくさんあったとは思う。八千穂が身内もなしでずっとさびしい思いをしてきたのもわかる気がする。王坐の一室でひざを抱えていたちいさな童男。それが八千穂だった。八千穂は笑い方すらひとにたずねるような物知らぬひとだけれど、その原因は八千穂をなかば捨て置くように扱った、王坐のひとびとの上にもあるのだ。

「でもあなたはここにいる。きっちり息をしているじゃない。こんなにすてきなことってないわ。わたし、わたしね、あなたが生きていることがこんなにうれしいの。禁忌だってなんだって、もう過ぎてしまったことはどうやっても変えられない。変えようとしたなら、あなたの存在を疑うことにもなってしまうでしょう。たいせつなのは、あなたがいま生きていること。どれだけ下を向かないで歩いてゆけるかだわ」

 真由は慎重にことばを選びながら言った。

「禍つ誓約がなによ。たいそうなことを言っても、天照の予言はだいたいがはずれているじゃない。あなたはわたしを殺したいほど憎んでいるわけではないし、わたしだって、ええ、そうよ」

「ぼくらの意志があらがう余地があるだろうか」

 八千穂はごくたよりない声で言った。

「ぼくらに母うえの禍言を反故にできるだろうか」

「できるわ。しようと思ったら、できないことはなにもないのよ」

 やさしく真由はささやいた。しかし八千穂は首を振った。

「きみは禍つ誓約のおそろしさを知らないんだね。巫女が口にした誓いは、みずからの血肉を支払ってでも叶えられるべき願いだと聞いたことがある。たとえ母うえが霊力をなくしてしまったとしても、禍言が口にされたのは母うえが巫だったころだ。誓約はとうに発動してしまった」

 八千穂の言葉のはしばしは、たよりなくふるえていた。八千穂はすがるものをもとめて手をのばし、真由の腕をとってひきよせた。真由はおとなしく抱き寄せられ、あたたかな胸に顔をくっつけた。八千穂は真由の耳元に顔をよせると、いまにも泣きだしそうな頼りない声でいうのだ。

「これですべての答えがでたよ。ぼくのなかにいるけものの正体も、なぜぼくには高天原のしろき炎が見えなかったのかも。巫なら、とうぜん目にすることができるはずの炎がぼくだけに見えなかったのは、須佐ノ男の御霊がぼくにやどっていたからだ。須佐ノ男がぼくの霊力の歯止め金として、ぼくにとり憑いていたからだ」

「何のために」

「きみを守るために。ぼくの霊力がめざめなければ、きみは無事だ」

 真由は八千穂にきつく抱き締められながら、息をつめた。

「さっき、りっぱな男鹿をみたね。ほら、須佐の里でたき火をしていたときだよ。その鹿が須佐ノ男の化身だった。ぼくから離れたあと、黄泉国へいくこともせずにさまよっていた、須佐ノ男のたましいだったんだ」「ほんとうなの」

 あえぐようにささやく真由をいよいよ強くだきしめながら八千穂はうなずき、つぶやいた。

「ぼくの現身がいちど死んで、魂がはなれた。そのとき、ぼくはべつの輝きをみたんだ。ぼくのものとは違う、強くてやさしいかがやきだった。鹿はそれとまったく同じかがやきを身にまとっていたよ。たぶん、それは須佐ノ男のたましいだったんだ」

 八千穂は首を振った。

「霊力の歯止め金としてぼくに取りついていた須佐ノ男のたましいは、ぼくの身の内のけものを押さえてくれていたんだ、いままで」

「けもの?」

 真由がたずねると、八千穂は小さな声で答えた。ささやかで、頼りない声だった。

「けものというのは、巫の霊力。きみをころす霊力のことだよ」

「ばかをいわないで」

 真由はさけんだ。どこまで八千穂は弱気なのか。どこまでいくじがないのだろう。どうして、禍言なんかはねのけてやると力強く言ってくれないのか。真由がそう言っても、八千穂は聞き入れなかった。

「言えるはずがない。だって、ぼくは前までの八千穂じゃない。ぼくの恐ろしい霊力を押さえ込む須佐ノ男のちからはもうない。・・・きみが言えというのなら、言えるだろう。母うえの禍言なんて物の数じゃないと」 八千穂は痛々しく言い放った。

「でもそれはうそだ。うそは真実にはならない。いくら言い続けても、うそはうそだ」

「ばかなひとね!」

 真由は八千穂の腕をのがれ、彼を睨みあげると、ののしった。

「須佐ノ男がいなくなったのなら、じぶんで押さえ込むことを考えたらどうなの」

「むりだ」

 八千穂は苦しそうに言った。

「・・・ぼくはたしかに変わりはじめている。どうしても止めることなんてできそうにないよ。正直をいって、甦りをしてからぼくには鳥やけものの声が聞こえなくなってしまった。前まではあんなにはっきりと聞こえていた、けものたちのささやき声が、さっぱり聞こえない」

「須佐ノ男のたましいが抜け出てしまったから?」

 八千穂の声の調子にやるせないものを聞き取り、真由は少しだけ声の調子をやさしくした。そろそろとたずねる。

 八千穂はわからないと言った。

「鳥やけものばかりじゃない、風の子守歌や、気高の里で聞いたようなわだつみの笑い声や、雲のきれはしからのぞく顕なる太陽のひかりのようなもの。そのすべてを、なぜだろう、ぼくはもう、うつくしいものだと思うことができない」

 真由にはさしあたってそんなに重要なことではないように思われたが、八千穂にとってはなにより切実らしい。

「すべてのやさしいものがうるさく感じられてしまう。因幡で目を覚ましたときから、ずっとそうだ。とても息苦しいんだ。ぼくはおかしくなってしまったんだろうか、ぼくのことを考えて、それからきみのことをずっと考えていた。それからだ、いつも、落ち着かない」

「焦ってはだめよ」

 真由は言った。それから八千穂には怒ってもむだなのだと考えた。八千穂に必要なのは、怒声をとばして尻をたたいてやる人間ではない。ひとつひとつきっちり理解させてあげて、一歩一歩を踏み出すことを手伝ってあげられるひと。そういう存在が今の八千穂にはなによりも必要なのだと、真由は知った。

 真由はふと大蛇の勾玉のことを思い出した。胸元に揺れていた勾玉を取り去ると、真由は八千穂の首にそっとかけた。頼りない八千穂の支えとなるものを、何か彼にあたえたかった。それにこの勾玉はもとはといえば八千穂のお守りだ。大蛇神の意志はどうあれ、真由は八千穂の胸に勾玉があることを望んだのだった。

 八千穂は勾玉をみつめ、それから真由を見つめた。

「焦ってはだめ、これから一緒に考えて行けばいいことよ」

 真由は根気強く言いさとそうとした。けれど真由の言葉を八千穂がふいにさえぎった。

「一緒に?」

 八千穂は思いのほかきびしく言い捨てた。いつだって相手が話し終えるまで次の言葉をはさまない人だったから、真由はおどろいた。八千穂をみあげると、歯を食いしばり、かなしい怒りの満たされた瞳で真由を見つめる彼の顔があった。真由は瞳を瞠った。

「八千穂」

「なにを自由というんだろう、なにを束縛というんだろう。ぼくは王坐から自由になったはずだ、なのに今は母うえの禍言にしばられている」

 かなしい怒りは、だれに向けられたものだったのだろう。

「ぼくはきみのように強くはない。きみの滅びをそばにいてみつめていることなんてできるはずがないよ。・・・きみと生きようとすれば、ぼくのなかに流れる母うえの血がまゆを殺してしまう。須佐ノ男の魂がぼくと離れてから、ぼくは前までと同じようにはきみをみることができない」

 八千穂はなにかを思い切るように、真由に触れようとしていた手をさげおろした。

「ぼくはおかしくなってしまった。きみをまえにして、こんなにつらいと感じるなんて。きみを見ていると、どうしようもなくむかむかする」

「どういう意味なの」

 真由は声をあげた。真由がうとましいという意味だろうか。けれど八千穂はくびを横にふるだけだった。

「ぼくのなかのけものが、まゆをころす。いまは押さえることができているけれど、これからさきはわからない。母うえを受け入れようと思ったときから、驚くくらい目の前がひらけた。そのとき、知りたくないものまで見つけてしまった。・・・このままもしもきみと一緒にいたら、ぼくはきみを殺さなければならない。禍つ誓約にしたがって」

「八千穂!」

 悲鳴のような声で真由はさけんだ。そんな恐ろしい言葉はすぐさまとりけしてほしかった。しかし八千穂は追いすがる真由の声を振り切るみたいにきびすを返し、どんどん遠くへ行ってしまうのだ。

「ぼくときみは一緒には生きられない。ぼくがきみから離れていれば、きみはきっと無事だ。はじめからこうすればよかったんだ」

 八千穂は暗闇のなかに真由だけをのこし、どこかへ消えてしまった。あとには真由だけが、心地いい闇のなかにぽつりと捨て置かれたのだ。「逃げるのね」

 真由は大声で叫んだ。さけんでも何も返ってこない真っ暗闇が、真由は恨めしかった。いままで真由をつつんでくれていた暗闇がきゅうに疎ましく思われ、真由はわけがわからなくなった。そうだ、悲しくて、腹立たしくて、わけがわからない。真由は八千穂に裏切られたような気がしていた。ひとりでしゃべって、ひとりで納得して。こんな身勝手がほかにあるだろうか。

 八千穂はもう真由とはいたくないと言ったも同じなのだ。八千穂はうしろも振り向かず、真由から去っていったのだ。真由をつきはなし、天照を受け入れたのだ。真由の言葉ではなく、天照の禍言を信じたのだ。なんてことだろう!

 離れることがどうして真由のためなのか。真由のためだといいながら、八千穂は真由のほしいものを、ちっともわかっていない。

「八千穂のばか!」

 たとえどんなことがあっても、すきなひとと一緒にいたいという真由のきもちを、なぜ彼はわかってくれないのだろうか。

*         *        *

 八千穂は直土のうえに伏していた真由をそっと抱き上げると、横抱きにしてたき火のほうへ歩いていった。たき火はちろちろと小さな炎を残したばかりで、そのまわりには伊住と柾人が向かい合うように座ったまま居眠りをしており、伊住の手には握られたままの細い木切れがあった。 滅びた須佐の里でたき火をしていたあのときのままだ。まぼろしのなかではあんなにも長い時間が過ぎたような気がしていたのに、実際は一刻も経っていないのではないか。

 八千穂は伊住に声をかけた。すると伊住はすぐに大きく身をふるわせ、それから勢いよく顔をあげた。八千穂と真由をみとめると、伊住はふかい安堵の息を吐いた。

「あんた、天照に勝ったんだな?」

 八千穂はなにを言い出されているのかさっぱりわからなかった。とまどう八千穂を眉根をよせて不審そうにみつめたあと、伊住は消えかけたたき火に目を走らせ、それからじぶんの手にした乾いた細い木切れをみつめた。みつめたまま、伊住は気の抜けたようにつぶやく。

「あんたは皇子どのだ。あいつの、須佐ノ男のはずがない」

「伊住も見ていたの、あのまぼろしを」

「まぼろしだと? ああ、そうさ」

 ふりしぼるように、伊住はうめいた。

「ただの夢なら、どんなにいいか」

 伊住は言いながら、八千穂の腕にあって眠ったままの真由をみつめた。

「父さんがしとめた、真由をはらんでいた鹿っていうのは、たしかに大蛇神のやつだったんだ」

 ぶつぶつつぶやく伊住に真由をてわたすと、八千穂は言った。

「真由をたのむよ」

「どういうわけだい」

 伊住は真由を受け取りながら、いちどその重みによろけそうになった。八千穂がずいぶんと軽そうに持っていたものだから、ごくかるい手荷物を受け取るような気分で腕を差し出したのだ。伊住は腕からころげ落としそうになったむすめの身体をきっちりと抱えなおした。

「ぼくのするべきことがわかった。ぼくは、高天原にかえるべきだ」

 伊住はそれを聞くと何か物いいたげな表情をしたが、だまって八千穂のはなしを聞いていた。

「ぼくは母上に会って、もう一度はなしをしてみたい。ぼくは母うえについて今まで何も知らなかった。知ろうとも思わなかった」

「いまさらあんたの言うことを聞くと思うかい」

「わかっているよ」

 八千穂は静かに言い返した。 伊住は八千穂をせせらわらった。

「そうかい、あんたはけっきょく天照の子だというわけか」

「ちがうとは言わない。ただ、ぼくはじぶんの心を見極めなければだめなんだ。ぼくは母うえをあわれだとおもった。母うえの怒りも悲しみも、ぜんぶ引き受ける決心をしたんだ。ぼくが受け入れなければ、母うえはけっきょくひとりぼっちだ。ぼくは須佐ノ男ではないけれど、ぼくだけでも母うえのそばにいてあげなくてはだめだ。そう思える」

「真由はひとりぼっちでもいいって言うのかよ」

 八千穂の決意が堅いのを知ると、伊住は嗤うのをやめた。

「まゆはひとりじゃない。伊住がいる」

「ばかやろう、おれが何人いようと、どうにもならないだろう」

 伊住はあきれたうえに、八千穂のどんかんにため息をついた。

「これっきりだぞ。おれたちとわかれて高天原へゆくってことは、高天原の巫にもどるということだぞ。そうなの、じゃない。そうなんだ。

あんたたちは炎の末裔、おれたつ者、これきりわかれちまえば、はっきりと敵同士だ」

「ぼくはまゆの敵にはならない」

「わかってないな、いいかい。ふたりの巫が高天原から離れたいまが、いちばんの好機なんだ。でも、あんたが高天原に帰りたいっていうんなら、おれは止めないぜ。それはあんたの自由だ」

 炎の末裔である高天原びとと、国つ者である土着のひとびとの大きな違いがそこなのかもしれない。高天原びと、とくに王坐びとたちは、代々巫の霊力を王坐だけに閉じ込めてきた。しかし、巫が高天原ばかりに生まれたわけではない。高天原から立ち去った凪の一族のひとびとのもとにも、霊力をもつ子が産まれることがあった。すると高天原はそれをなかば脅し取るようにして王坐にとじこめ、外と隔離する。おおきな霊力をもつ現人神たる巫の誕生を高天原だけのものにしようと、霊力ある者たちの血を凝縮しようと試みたのだ。

 それに反して国つ者たちは、すべて自然であることをよしとする。流れゆく水脈のながれを止めることは、よどみを溜めることだと知っているのが国つ者たちだ。かれらはさだめを信じる。ながれゆく水のながれに身をゆだね、それに従うことを知っている。従うとはいえ、それは妥協ではなく、受け入れるつよさなのだ。

「高天原にもどるということは、高天原のために霊力を使うことだろう」

「伊住は勘違いをしているよ。ぼくは、母うえの言いなりになるために高天原へ戻るわけじゃない。ぼくは母うえの跡をつぎたいと思っているわけじゃない」

 八千穂はまっすぐに伊住をみつめた。伊住は止めてもむだなことを悟った。八千穂はじぶんの足で歩くことを知ったのだ。八千穂はだれの言いなりにもならないと、きっぱり言い切った。きちんとした意志をもった今の八千穂ならば、じぶんが納得の行かないことに手を貸すなんてことはありえまい。

 八千穂の頑固さを感心してみつめながら、伊住は存外、八千穂のみせていた弱腰は、彼のほんの一面なのではあるまいかと思った。なぜならいまの八千穂には頼りなげな様子などなく、ただいちずに前に向かおうとする意志ばかりがあったのだ。

「いいかい、これは真由のかわりに言うんだ。真由のことをおもうなら、真由のそばにいてやれよ。あんただって、真由にほれているんじゃないのか」

 八千穂はすこし考えてからつぶやいた。

「ほれるということがなにかは知らない。ぼくはただまゆをまもりたい。ぼくの霊力でまゆを傷つけたくないだけだ。このままぼくがまゆと一緒にいれば、ぼくはいつかまゆを傷つける。泣かせてしまう」

 考えながら、八千穂はことばをつむいだ。

「それからでは遅い。高天原へいくのは、母うえのことよりも、まゆの死ぬのを見たくないからかもしれない」

 伊住がなにか言う前に、八千穂はかなしく笑った。

「ぼくはこわいんだ。まゆをまえにして、ぼくはときどきおかしくなる。笑うのを見ると苦しくなるし、気分がわるくなる」

 八千穂がそう言うのを黙って聞きながら、伊住は腕のなかの真由をちらりとながめた。

「なぜなんだろう、ぼくはなにをしたいんだろう、それを考えると、ますます具合がわるくなる」

「どんなぐあいに」

「心の臓がいたくなるんだ。顔があつくなる」

 八千穂は顔をしかめた。

「ぼくは、きっと真由の首を絞めてしまいたいんだ。ぼくにはそんな気なんてない、でも、ぼくに流れる母うえの血がまゆを憎ませる」

 八千穂は泣き出しそうな顔で吐き捨てた。

「ぼくは、まゆを憎みたくない。だれも憎みたくない」

 それから伊住がひきとめる間もなく、たちまちそのすがたは闇にまぎれ、そして霞のように消え去った。ほんの間近にあったはずの八千穂の気配はかききえ、真由をかかえた伊住と、くすぶるたき火のそばに眠ったままの柾人ばかりがのこされた。ひとつ瞬きするうちに千里を翔る巫の霊力をまのあたりにした伊住は、息を呑んだものの、まず呆れていたのだった。

「何がわからないだ。きっちり知っているじゃないか」

 伊住は腕のなかの真由を見おろしながらつぶやいた。

「ほれるってえのは、そういうことさ」

                                                          

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