かみなぎ30

 ふとした肌寒さで目を覚ました真由のもとには、やはり八千穂はどこをさがしてもいなかった。まだ夜もあけきれていない時刻で、風ばかりがすずしい。たき火のそばに横になっていた真由は、身を起こしてじぶんの弱気な涙をぬぐうと、馬に飼い葉をくれていた伊住のほうに歩いていった。伊住は真由がなにかを言うまえに、ぶっきらぼうに言った。

「皇子どのなら高天原に帰ったぜ」

 言い出されるまえから真由は知っていたのかもしれない。八千穂の物言いを思い出せば、彼が天照のもとへ行ったのは、とうぜんのように思われた。

「そう」

 八千穂が選んだことに真由がとやかく言う余地なんてない。真由は真由で、八千穂は八千穂。八千穂は真由ではないのだから、真由のお願いを押しつけようとすることは、彼を縛ることだ。そんなことをしたら真由は王坐びとたちとまるきりおなじになってしまう。神凪である真由を王坐にとどめ、呼日と妹背にしようとした王坐びとと、同じになってしまう。

 いくら真由が八千穂をすきでも、八千穂が真由をひとりのむすめとしてきっちり見つめてくれなければ、ひきとめようとする真由の言葉はただの身勝手になってしまうだろう。

 真由だってわかっている。八千穂は高天原の皇子で、炎の末裔なのだ。真由はただのむすめで、しかも国つ者。まことの父親である須佐ノ男は高天原びとだから、血の流れからいえば真由だって炎の末裔なのかもしれない。けれど真由には大地のいぶきをいつくしむ国つ者たちの生き方が、この上もなくこのましい。高天原びとたちが土蜘蛛とあざわらうひとびとの生活のほうが、しんそこ性に合っているのだ。

 いままでしいたげられていた国つ者は、いまこそ高天原に抗おうとしている。今はなればなれになってしまえば、真由と八千穂は敵同士になってしまうのだ。もしかしたら、ふたりして巫の霊力を戦わせあうことになるかもしれない。

 そこまで考えたとき、真由はおそろしくて身がすくみそうになった。天照と須佐ノ男、ふたりの巫のただびとばなれした戦いを知っている真由には、ひとごとであるはずがないのだ。真由は心のざわめきをむりやり押さえ付けた。

「あのひと、なにか言っていた」

 伊住はやけにしずかな物言いをする真由を見ていたが、

「なにも」

 それから伊住は、ほんとうになにげなく言い出した。

「真由、おまえは皇子どのを追ってもいいんだぜ」

 びっくりした真由は、あえぐようにつぶやきかえした。思いがけない言葉だった。

「追うって・・・」

「高天原へ行ってもいいってことだよ。おまえが皇子どのを好きなら、いっそのこと高天原へ行って、高天原びとになっちまえ」

「なによ。そんなにわたしをよそにやりたいの」

 真由はなんだかやりきれなくなった。八千穂においていかれて、それだけでも身にこたえているというのに、伊住の言いようはまるで真由をつきはなすものだった。べつに慰めてほしいわけではないけれど、伊住の言葉はあんまりだ。

「はやとちりをするなよ。おれはただ、そうするほうがおまえのためだと思ったまでさ」

「いや、聞きたくない」

 真由はなんだか無性に情けなくなった。伊住をまえにすると途端に泣き言ばかりしか出てこないじぶんが情けなくて、真由はくちびるをかんだ。じぶんの物言いをひどく子供っぽいとは思う。だからいつまでたっても真由は伊住にとってチビなのだ。けれどそれがわかっても、ちっともうれしくなどなかった。

「なにがわたしのためよ。わたしの気持ちなんて、ちっともわかろうとしないくせに。わたしのためだと言うくせに、あなたもあのひとも、わたしの欲しいものをなんにもわかっていないじゃない」

 チビ真由ならば、もうそれでもよかった。真由はいま思いきりわめきちらしたい気分なのだ。伊住が子供の癪を見るように感じていようと、もうかまわなかった。じっさい、伊住は泣いている真由にはやさしいのだ。

「じゃあ、なにが欲しいのさ」

 伊住は、母親からはぐれたちいさな迷子を身をかがめて相手にするように、ささやいた。たしかに真由はいま、迷子なのだった。まぼろしとはいえ、にわかにたくさんの悲しみや痛み、憎しみを頭につめこまれ、困惑している。そのうえそれらの感情を共にわけあい、消化していくべき八千穂も真由から離れて行ってしまった。真由はつまり、無理やりにたくさんの食べ物を口に詰め込まれて腹痛をおこしているようなものなのだ。生きるために血肉をたくわえたはいいが、消化できないままではあくまでじぶんの血肉ではない。呼吸した息をはきだすことが出来ないような息苦しさが、真由の胸にずっとつかえている。

「言ってみな、なにがほしいんだい」

 伊住は根気強くたずねた。真由は反対にそう問われても答えかねた。伊住はだまりこんだ真由の頭におおきな手でぽんぽんふれると、なにかを考え込むようにしていた。

「いいものをやるから、目をとじていなよ」

「いいもの?」

「目をとじな」

 つられるように真由は目をとじた。伊住は真由の手をとると、着物の胸元をさぐり、取り出したなにかを真由ににぎらせた。

「なあに」

 真由は目をあけた。こぶしをひらいて見ると、そこには木の実を連ねた御統があった。麻のひもを捩った首ひもに大小いくつかの木の実がつらねてある。それらにはちいさな青い芽が生え出しており、真由はめずらしさに目を瞠った。

「櫛名田のもちものだよ」

「なぜあなたがもっているの、こんなもの」

 櫛名田が知り合いであるように話す伊住に奇妙なものをおぼえて、真由はたずねた。しかし伊住はふと笑ってみせただけで、真由にはちんぷんかんぷんのことばかりをつぶやいていた。

「おまえが産まれるまえに、櫛名田がおまえの産着に忍ばせていたのがその御統さ。・・・おれはやっぱり、過去に行っていたんだな。どんぐりというのは土のなかで十年いじょうも眠っていて、十五年をすぎてからようやく芽を出すというぜ。えらいねぼすけの、真由のようなのんびりした木の実なんだ。やっぱりおれがみたのは、ただのまぼろしじゃあなかったんだ」

 伊住はとまどっている真由をながめると、ほほえんだ。

「高天原じゅうをさがしても、いいや、芦原中津国じゅうをさがしても、芽の出た木の実の御統をもっているのは、真由ひとりだろうよ」

 真由は手にした質素な御統をみつめた。伊住の言っていることはちっともわからなかったが、この御統を手にしていると、どこかあたたかな気持ちになるのはたしかだった。真由はためらわずにそれを首にかけると、伊住にお礼を言った。心底から自然にうまれた、感謝の気持ちだった。

 ほんとうは品物がなくたって、伊住の思いやりが真由にはわかっていたのかもしれない。この御統が誰のもちものであったとしても、真由がこれを大事にすることは伊住のくれたやさしさを大事にすることにもつながるのだった。

「ありがとう」真由はほほ笑んだ。なまぬるい慰めの言葉よりも、頬をつねる伊住の手のほうが今の真由にはずっとありがたく思われた。

「あーあ」

 すると、いつのまにか馬の荷鞍のところから顔をみせた柾人が、ふてくされた顔で言った。柾人は頭のうえに埴いろのテンをのせていた。

「すっかり伊住に先をこされたみたいだ」

 柾人はわけのわからないことを言うと、腕を差し出した。するとテンが彼の腕をつたい、伸ばされた指先まで来ると軽く跳躍をした。

「いてッ」

 伊住の頭に飛び移ったはいいものの、滑って爪を立てたらしい。伊住はテンを捕まえようとしたが、そのまえにすばしこいけものは、すぐさま体勢を立て直して伊住の頭を踏み台にすると、もう一足とんで真由の胸元にすべりこんだ。柾人はテンに引っ掻かれて痛がっている伊住をおかしそうに見つめてから、真由にまなざしを移した。

「おれ、男鹿をみたあとの記憶がすっぱりと切れているんだ。だけど、昨日の夜、真由がわんわん泣いているので目が覚めた。あのね、あんたは笑っていたほうがいい。わらっていたほうが、ずっといいよ」

 柾人は言いながらも、どこか決まり悪そうにしていた。

「あんたがさびしくないように、ヤチホコをさがしてきたよ。こいつ、やっぱり榊の木のしたにいた。テンは榊が恋人のようなものだから、里内の榊をしらみつぶしにあたってみたんだ」

「ヤチホコというの、この子」

「ずっと考えてたんだ、八千の盾でヤチタテにするか、それとも八千の矛でヤチホコにするか、そのふたつで決めかねていたんだけど、やっぱりヤチホコだろうね。同じ名前は相手を呼ぶとも言うし、真由がヤチホコを大事にしていれば、八千穂も気持ちをかえて真由のところにもどってくるかも」

「ありがとう。いい名前」

 柾人も伊住も真由をあんじてくれているのがわかり、真由は笑い返した。それから、いつまでもぐずぐずしてはいられないと思うのだった。八千穂とは別れてしまったけれど、なにもこれきり会えないというわけではないのだ。くよくよしているなんて、本当にばかげたことなのかもしれない。泣き言を言うまえに、なにかするべきことがあるはずだ。

「さあ、なきむし真由に笑顔がもどったところで、因幡へ帰るか」

 伊住は言った。真由は乗り手のないままの白栗毛の馬をみたときにはさすがに胸が痛んだが、もう弱音ははかなかった。

(禍つ誓約なんて、わたしは信じない。しんじるのはわたしの心だけ) 禍言は弱気なこころに踏み込んでくるものなのだ。だれも夜からは逃れられないように、弱気な心なしにひとは生きられない。けれどそれならば、禍言をはねのけるくらいの吉言を信じていればいい。吉言を信じる心には、禍言の入り込む余地などないにちがいない。

 八千穂もはやくそれに気づけばいい。大事なのは、どれだけあきらめないで歩き続けることができるかということなのだ。だれかにさだめられた道を歩くことを運命というのではない。じぶんで踏み固めた道を心定めてすすむことを、運命というのだ。それに八千穂が気づいてくれるといい。そして、気づいたあとに戻ってきてくれる場所が、真由のもとであれば。

(わたし、きっとほかには何もいらないわ)

 どんなに強気なことを言ったって、真由はひとりでは生きていけない。心定めた道をともにつくってゆくひとが、八千穂ならいいと、真由はごく自然に思っていた。そして、八千穂というひとを一番よく解ってあげられるのも、じぶん以外にはいないと信じていた。信じているうちは心から笑っていられるし、顔をあげて進むことができるのだ。

「いいんだな?」

 伊住が真由を馬上に相乗りさせたあと、念を押すように言った。伊住は真由が後悔しないかをたずねているのだ。たしかに、真由のなかに八千穂を追いたい気持ちがあるのは本当のことだ。けれど、ただの直感といえばそれまでだけれど、いまはその時ではないような気がした。それに八千穂と真由の進むべき道が、完全に分かたれてしまったわけでもない。

「いいの、わたしにはヤチホコがいるもの」

 真由はきっぱりと言い切った。その声の調子には、もうよどみがない。 伊住は奇妙な感慨をおぼえた。伊住はつい先刻、森の中の産屋で赤子を取り上げたばかりのような気がしていたのだから、道理であった。出手母の土地、櫛名田のお産に立ち会ったあの一夜のことを、伊住はもはやまぼろしだとは一片も思っていなかった。伊住はたしかに十七年前のあの夜におり、なきじゃくる子猿のような赤子をとりあげたのだ。

 何の意図があって伊住が過去にまぎれこんだかは知らない。しかし、伊住にとってあの経験はすこぶる重要なものだということだけは確かなのだった。伊住が何をしてやれるのか、真由のさだめに自分がどうかかわっているのかを彼はおぼろげながら理解したのだった。

 それに、高天原の巫の絆の深さも知った。須佐ノ男はたとえ無残に殺されようと天照だけを心底から求めていたような気がしてならない。巫はふたりでひとり、その言葉は天照が須佐ノ男を見つめるまなざし、須佐ノ男が天照を見つめるまなざしでおのずと知れたことだった。理屈ではいいあらわせない強い絆がふたりにはあった。

 伊住などまったく出る幕はなかった。それは櫛名田であろうと、かわりない。二人の間にはどうしてもわりこめなかった。だからこそ、櫛名田は強情にも「どこにも行かない」と言いはったのではないか。

「ぼくとまゆの間にある絆がいまはおそろしい」

 伊住は八千穂が言い置いていった言葉を思い出していた。

(絆、ね)

 相手を憎むほどの感情の激しさも、せめぎあいも、絆というもののなせるわざなのだろうか。だとしたら、他人がふみこむ余地など小指一本分だって残されてはいないのではないか。

(真由も皇子どのも、さっぱり絆の強さをわかっちゃいないんだ)

 伊住にはそれがはがゆくさえあった。巫としての繋がりは思いの外に強い。血は引き合い、求め合う。伸ばされた手の先にはきっと、お互いしかいない。伊住は胸が悪くなるような気分でその事実を呑み込んだものの、まえのような焦りとかいうものはなくなっていた。

 それはともかく、なにやら不安がぬぐえないのを伊住は訝しく思うのだった。もともと、今回の出手母ゆきは伊住の思うところではなかった。嫌な予感ばかりが先に立ち、出手母ゆきはまったく無駄だとさえ考えていたのだ。

 まだ、猶予はあるはずなのだ。王坐から真由が逃げだし因幡に帰ってから、半月とすこしが過ぎようとしている。高天原から放たれた使者がやってくるのは考慮のうちであり、弘足もうまくシラを切るだろう。ようは真由がいないことを高天原の使者らに納得させればいい。天照の妹姫であり因幡の大巫女でもある呼月の支配する土地を、むやみに疑うこともあるまい。

 そうじぶんに言い聞かせても、どうにもすっきりしない。伊住はかるく頭を振ると、馬のたづなを思いのほか強く引き過ぎていたことに気づいて、あわてて握りしめたこぶしをひらいた。

「どうしたのさ、伊住」

 柾人が馬を寄せてきた。伊住は先を行っていた柾人よりもまえに出てしまっていたらしい。ずいぶんぼんやりしていたものだと、伊住は苦笑いをした。柾人は伊住においつくと、ごくちいさな声でささやいた。

「さっきから、なにをおっかない顔をしてるのさ。もしかして、伊住の首飾りよりおれのヤチホコのほうが真由によろこばれたから、ひがんでいるんだ」それを聞くと伊住はむずかしい表情をやめた。「ばか」

 笑ってはみせたもののどこか上の空の伊住に、柾人はおとなびた笑顔をしながら片目をつぶってみせた。伊住にこそこそと耳うちをする。

「ほかの男の名前ばかり夜通し聞いているのって、どういう気分?」

 伊住は舌打ちをしたものの、気を取り直してほほえんだ。

「見てたのか」

「夜中に真由の泣き声で目が覚めたって言ったよね」

「あかんぼが泣いてたら抱いて慰めてやる、それがあたりまえだろう」 昨日の晩、寝ながらも泣きわめいていた真由をみかねて、伊住は大きな襲布で真由をくるんだうえで、赤子をあやすみたいに彼女を抱き締めていたのだった。

「あかんぼね・・・」あてのはずれたような表情をしている柾人を置いて、伊住は馬の腹を乱暴に蹴り上げた。馬は荒っぽい乗り手に応えるように、速く駆け出した。

      *         *        *

 肥川をはさみ、その川べりをこえたらすぐにでも白野の庄につくというところまで来て、柾人は馬を止めた。柾人はいまいちど庄に顔を出すことをふたりにすすめたのだが、伊住がことわった。真由もなにやら気が進まなかった。おかしなくらいに因幡が恋しく思われて、巫の霊力がどうにかしてふたたび使えないものかと考えていたところだったのである。瞬きするうちに芦原中津国の果てから果てまで行き来できる霊力を、どうにかして使えまいかと。

「大蛇のむすめをこのまま返しちゃうのは残念だけど」

 柾人は本当に残念そうに言った。須佐の里に行っても結局、真由が肥川周辺の土地をよみがえらす方法なんてわからなかったし、真由にそんなちからがあるかさえも疑問だった。巫の霊力だって思うがままにならないというのに、土地をよみがえらせるなんて、途方もないことだった。「八耳どの、がっかりするだろうな」

 真由は柾人のことばを聞くとすまない気持ちになった。彼女は白野のひとびとの真由を前にしての喜びようを思い出したのだった。

「ぬかよろこびだなんて、かわいそうなことをしたわ」

 けれど柾人は首を振った。

「そんなことはないよ。真由が来てくれたおかげで、おれたち枯れ地に水をもらったみたいに生き返ったよ。ほんとうさ。実りがなくったって今までうまくやってこれたんだ。これからだって、そうするだけさ」

 ただね、と言うと、柾人は片目をつぶって見せた。

「これからは高天原のためじゃなく、おれたちのために武器をつくるよ」 柾人はそう言い上げると、笑顔をみせた。川に渡してある竹のいかだを馬とともに跳ねるように渡り切っても、柾人はもう振り返らなかった。柾人の言葉は力強く、希望にあふれていた。その一言を聞けただけでも出手母に来たことはむだではなかったような気がした。

「これから四日、どうにも気が急くなあ」

 伊住はそれしか口にはしなかったけれど、真由には彼の心配が伝わってくるような気がしていた。なにか嫌な予感ばかりがして、落ち着かない。だからこそ真由は、ただびとばなれをした巫の霊力にすらたよりたくなってしまう。霊力をあらわすのが恐ろしいくせに、便利にはちがいない霊力をのぞまずにはいないのだった。とはいえ、真由は霊力をしまってあるつづらの場所さえ分からぬままで、ひとつ瞬きをするうちに千里を行くなんて芸当は、どうやってもできそうになかった。

「因幡は呼月さまの土地だもの。高天原の天照だって簡単には手だしできないわよ」

 伊住はうなった。

「高天原もばかじゃない。あんがい、真由の居所なんてものは、とうに検討をつけているかもしれないぜ。けものは猟師に追い詰められたら、じぶんが一番安心できるねぐらに帰るんだ。ひとだって同じさ」

 猟師を天照らにあてはめ、それに追われるけものを真由にあてはめた伊住の物言いは、おそろしいくらいにぴったりだった。真由はきゅうにおそろしくなった。猟師はけものの足跡を注意深くさがし、やがてねぐらを見つけるだろう。ねぐらについて安心しきったけものを、容赦なくしとめるのだ。・・・であれば、こんなところでいつまでもぐすぐすしていられないのではないか。

「そうよ、だってわたし、あのとき帰りたいと言ったんだもの。因幡にかえりたいって」

 口に出してしまうと、高天原が因幡を疑わない方がおかしく思われた。真由はうしろでたづなを取っている伊住をふりかえると、せわしなく言い立てた。使者をたてるまえに軍を送り込んでくる可能性もないとは言い切れない。

「ありえるな。だが、どちらにしろおれたちは馬に乗っているしかないんだ。真由もよけいなことは考えないで、無事に里に着くことだけを考えていろよ」

 伊住はそれきりなにも言わなかった。真由が言い出しても聞こえない振りをして、馬を走らせた。真由もそれ以上不吉なことを考えないようにつとめ、すると今になって伊住から手渡された木の実の御統のあたたかさが肌にじんわりとにじむのが感じられた。

 八千穂に返した大蛇の勾玉のかわりに真由の胸元にある御統は、質素だけれどたしかなぬくもりがあった。それから、なんだかいい匂いがするのだ。母さんの豊かなむねに顔を押しつけているような、やわらかで甘い匂いがするのだ。けれどそれはどうやら鼻で感じるものではなく、御統からそろそろとにじみ、流れ出てくるようなもの。ふしぎでやさしい空気が真由をなぐさめた。

 伊住は櫛名田のもちものだと言った。どこかで櫛名田と会っていたような口ぶりで、伊住は真由にこの御統をてわたしたのだ。どうして伊住がこんなものを持っているのか、どこで櫛名田と会ったというのだろう。櫛名田はずっと昔に死んだはずだ。伊住が彼女に出会うなんて、ありえないのに。・・・真由の知りたいことを伊住は話そうとはしなかった。それに真由のほうも、むりに聞き出そうとはなぜか思わなかった。

 ただ、真由はあまり櫛名田がすきではない。櫛名田はあまりに真由に近くて、あまりに真由に似ている。そもそも櫛名田というひとは真由の母親だから、真由が櫛名田に似ているというべきだろうか。

 どちらにしろ、櫛名田の物言いはいつも真っすぐで、いつも身勝手だった。真由はじぶんの身を映した鏡を見るような気分で、まぼろしを受け入れてきた。鏡とは言っても、気に入らないからと言って目をそらすこともできなければ、こなごなに割り砕いてしまうこともできない。真由はにがい肝をむりやりなめさせられているような、どうしようもないやるせなさをもてあましたままで鏡をみつめていたのだ。

 櫛名田はどこまでも真っすぐだ。じぶんの間違っていると思うことは、けっして受け入れない。納得するまでがんこにその場にとどまり、まわりのひとびとを呆れさせる。櫛名田は身勝手だ。やさしいふりをして、ほんとうはすべてを疎ましく思っている。あなたの気持ちはわかると言いながら、うわべばかりで悲しい顔をしてみせる。大蛇神をあわれみながら、ほんとうは心から厭うている。

 ・・・櫛名田は泣き虫だ、櫛名田はおろかだ、櫛名田は

「真由」

 真由はびっくりして顔を上げた。そのとたんに耳には勢いよくたき火のはぜる音と、ふくろうの低い鳴き声がきゅうによみがえった。

「さいごの干し肉だよ、ほら、取りな」

 たき火をはさんで向かいに、片足を立てた格好で座っている伊住から放られてきたのは、科糸で目を密に織った小袋だった。口はひもで堅くしばられているけれど、口をゆるめていたとしても、落ちてしまう中身もないことを真由は小袋の軽さで知った。

「いらない、あなたが食べて。あしたは因幡だもの、そう考えただけでおなかもいっぱいよ」

 真由はあかるく笑って見せたつもりだった。しかし体は正直なもので、真由が飼っている腹の虫はどうやら不興のようだ。伊住は笑った。

「なにがいっぱいだって。ぐうぐう鳴っているのがこっちまで聞こえてくるぞ。おとといから満足に食べていないんだから、今夜ぐらい腹の虫をなぐさめてやりなよ」

「そういうわけにもいかないわよ。伊住にそんな風に物欲しげにじっと見られていたら、のどを通るものも通らないもの」

 帰り道に白野の庄に寄らなかったことが今頃になって悔やまれてきて、真由はぐったりした。二日前から口に入るのはぬるい水ばかりだ。庄で食べ物をすこしでも分けてもらっていたら、夜も寝れないくらいの空腹にうんざりすることもなかったのだ。

「ちくしょう、あそこで岩魚が取れていたらなあ、こう、火で炙って、あぶらがしたたる頃合いに、かりかりに焼けたのを頭からがぶっと」

 がぶっと、ともう一度言いかけて、伊住は頭を振った。

「やめよう、すきっ腹が痛むだけだ」

 伊住はてもちぶさたにたき火に木切れをくべていた。

「早く喰っちまいなよ。それから、さっさと寝るんだ。あしたも早いからな。ほら、ヤチホコを忘れるなよ。おれの目の前でうろうろされていると、あぶって喰っちまいたくなる」

「今夜こそはわたしが火の番をする」

 真由はいままで元気に動き回っていたヤチホコを胸元に招き入れると、勇んで言った。出手母へくる途中までは交替で火の番をしていたのだが、八千穂がいなくなってからの帰り道は、もっぱら伊住がたき火の番として朝まで過ごすことがほとんどだった。真由は彼には悪いとは思いつつも、眠気に負けてけっきょくはぐっすり寝てしまうのだった。朝はきまって伊住に起こされるものだから、いつ眠っているのだろうかとふしぎになるくらい。

「おまえにまかせられるもんか。この前なんて、すっかり火を逃がしていたじゃないか」

 事実だったので、真由は口答えができなかった。

「おれはおまえよりもよほど器用だから、たきぎをくべながら眠れるんだよ。それがわかったなら、食うものを食って、はやく寝ちまいな」

 真由はふくれたが、異議を唱えることはしなかった。伊住は空腹なせいか、このところ真由をいじわるくからかうこともやめているようだ。高天原でも伊住の悪ふざけがすぎたなら、もしかして三度の飯を抜いてやればいいのではないかと思いつき、真由はおかしくなった。

「何を笑ってるのさ」

 伊住が奇妙なものをみるように眺めてきたが、真由は笑いながら、なんでもないと言った。それから伊住から放られてきた小袋の口をゆるめ、折り畳まれるようにして残っていたうすっぺらい鹿の干し肉をとりだし、半分だけ歯でかみ切った。

「はんぶんこよ。これで文句はないでしょう」

 伊住の口にあと半分をつめこんだ真由は、もとの場所に戻って横になった。たき火に背を向けるようにして身を丸めて、真由はたき火のむこうで少しの間ごそごそやっていたが、やがて静かになった。

「おやすみなさい」

 伊住はなにか言おうかと思ったが、やめた。やめようと思い止どまった瞬間に、のどもとに詰まっていたはずの言葉があえなく消えてしまったせいかもしれない。

 おやすみと言おうとしたのか、やっぱりもう少し起きていなよ、と言おうとしたのか。忘れてしまったが、べつに重要なことでもなかった。 口の中にある干し肉のきれはしをくりかえし噛み締めながら、いつもなら木の皮を噛んでいるように味気なく感じられる肉の干物が、今夜に限ってとびきり旨いのはなぜだろうと考えた。

      *         *        *

 因幡は気高の里にふたりがたどりついたのは、いちど高みにまでのぼった午後の太陽が、これからゆっくりと山並みの向こうに転がって行こうとする時刻だった。昨日まで晴れ晴れとしていた空はどんよりと曇り、厚い雲の間にかろうじて光が差すていどの、さっぱりしない天気だった。 さっぱりしないのは気高の里内もおなじだった。この時刻なら漁から戻ったひとびとが得物をかついでくるので炊飯場はにぎわい、海にもぐった女たちも一回の潜水でもぎ取ってきた海の幸の数をほこらしげに言い合う声でにぎやかなはずなのだ。

 けれど陽の光もささない里内にはひとっこひとりおらず、奇妙なくらい静かだ。真由も伊住も首をかしげずにはいないのだった。

「どうにも様子がおかしい。伯父どのの御館へ急ごう」

 馬を厩舎につなぐ時間も惜しく思われて、ふたりは里のほぼ中心にある里長どのの御館のまえまで馬を乗り付けて、階段を駆け登った。伊住が両開きの扉をたたく。人の出入りの盛んであったことを思わせる御館の階段には、裸足のあとが無数についており、里人たちがこのなかに籠もっていることはあきらかだった。

「伯父どの、伯父どの」

 ほどなくして扉の片方が開けられ、ずっと奥の方からふたりを招き寄せる声がした。里長の弘足どのだ。

「伯父どの、いったい何があったんだい」

 伊住は昼なお薄暗い御館の本殿に、暗い顔をそろえてひしめきあう里人たちをみつけ、さすがに神妙な顔付きになった。御館の中には数本の立て燈籠が燃えており、それがますます陰気さをひきたてていた。

「いや、それを話す前に、よく帰ったなと言おう。呼月もわしらも、おまえたちの帰りを心待ちにしておったのだから。ところで伊住よ、大穴牟遅どののすがたが見えぬようだが?」

「あいつは高天原へ帰った」

 人々に道をあけてもらい里長どのの前に座ると、伊住はしいておだやかに言った。

「帰っただと」

 すると真由のいままで知らなかった里長どのの怒声がふりかかり、真由は一瞬息をするのもわすれるくらいにおどろいた。とんでもない大声だったわけでもない、ごく静かな、けれどつめたい声だ。真由は肝が冷えてゆくような居心地のわるさを感じていた。

「巫の霊力をみすみす手放したのか、ばかな。おまえは一体何をやっていたのだ、伊住よ。おまえの役目は巫を国つ者の側にとどめおくことだったはずだ。呼月が出手母ゆきをすすめたゆえにしぶしぶ許したが、大穴牟遅どのを失ったとあれば、高天原とこちらのちからは五分と五分。軍のちからではあきらかにこちらが負けている」

「待ちなよ、伯父どの。そうまくしたてられても、おれたちにはなんのことかさっぱりわからない。どうして里のみんなはこうして御館に集まっているんだい、それを先に聞きたいね」

 伊住は肩をすくめた。

「それにおれたちは、巫の霊力に頼り切ることがまずいと知っているから、高天原に抗いもするんだろう。なのにいまの伯父どののくちぶりは、まるで巫を利用することしか頭にない高天原びととおんなじだぜ。何を取り乱しているんだよ、みっともない」

 伊住はしずかに言った。しかし彼が怒っているのだということは、薄ら笑いをやめた伊住の顔付きからでもわかることだった。

「・・・これが取り乱さずにおれようか」

 里長どのは伊住のまなざしから目を背けるようにして首をふると、かすれた声で言い出した。

「すまぬ。おまえの言うことはもっともなのだ。わしらは淀んだ血のまぐわいのすえにはぐくまれた霊力ばかりを、むやみやたらとあがめる高天原びとではない。たしかに、そうだ。しかし、いまこそ巫の荒ぶる霊力がわしらには欲しい。・・・高天原に勘づかれたのだ。呼月が高天原に反する国つ者だということが、ひいては、この気高の里が国つ者の領だということが。どこから漏れたかは知らぬ。遅かれ早かれあかるみに出ることとは思っておったが」

 あくまで里長どのの声は暗かった。その声にかぶさるように、すずやかな女の声がした。

「よう帰ったな、ふたりとも。八千穂がいないのが悔やまれるが、高天原へ戻ることが八千穂の意志ならば、しようがあるまい」

 そういったのは里長どののとなりに座っていた卯月であった。卯月はいいながらも眉間にしわを刻んでおり、あぐらに組んだひざのうえに指先をせわしなくとん、とん、と遊ばせていた。彼女が深い思案をするときに現れるクセであることを真由は思い出した。

 里長どののや卯月、それに里人たちの様子をみても、真由たちが出手母へ出掛けていたあいだ、たしかに何かはあったのだろう。それもいやな知らせのほうに分はありそうだ。

「高天原は、というより、美栄彦はと言った方がただしいか。どういうわけか、このときになって動き出した。真由を失ったことで、よほど切羽詰まっておったのであろう。というのも、わしはな、あやつらはとうに国つ者の団結を知っていたに違いないと思えるのだ」

 卯月はことばを選ぶようにして、ゆっくりと言った。

「高天原を捨てたはずの呼月の子、阿多流どのをわざわざ高天原にまねき、市庭総監督という地位につけたこと、それだけでも十分におかしくはあるまいか。市庭は高天原の財源。市庭無くして高天原は成り立たぬと言っても過言ではあるまい」

「待てよ。あんたの言っていることはおかしいぜ。おれたちが国つ者だと高天原が知っていたんなら、市庭を握らせるなんておかしいだろう。高天原のやつらは国つ者を人とは見なしていない。国つ者を見下すのは王坐びとばかりじゃない、市庭の人間だって、同じことさ」

 真由は伊住の声に静かな怒りを聞き取った。衣裳を捜しがてら市庭を見物したとき、真由はむごくも胴から離されたさらし首をもみつけていた。「土蜘蛛の首だとさ。ああ、おそろしい」市庭のひとびとがそれを見て笑い合ったり、怖がったり冷笑したりしているなかで、伊住はひとり物も言わずじっとその首をみつめていた。三つの首は大人のものがふたつと、ごく小さな子供のものがひとつ、柳の木の枝に縄で吊るされているというしろものであった。髪はざんばらになったうえに縄で木の枝に吊るされ、顔の肉はとうに腐り落ちていた。

「ひでえことをしやがる」いまの伊住の声の調子は、首と対話している風だった伊住が、ややしてぽつりともらした呟きと同じものなのだった。

「おれたちはあいつらにとって、土蜘蛛なんだ。土蜘蛛はけものよりもまだ劣るものだとみなされる。父さんをその仲間だとわかっていたうえで、高天原が市庭という財源を握らせるもんか。ありえないね」

「わからぬぞ、いちがいに見下しているから疎外するとは言い切れぬ。高天原は、わしらを恐れおるのではないか。しいたげられた者たちの怒りが津波のように押し寄せるのを恐れたからこそ、懐柔策をとったのではないか。げんに、わしら武佐師びとは高天原をすてて炎の末裔から別れ、独立した凪の一族として里を打ち立てておる。高天原びとからしたら、わしらもあきらかに国つ者であろ」

 卯月は畳み掛けるように続けた。

「懐柔か、しかしそんな生ぬるいものかね。国つ者との共存とまではいかなくとも、てめえらは刃向かわないで、おとなしく足の下に踏まれていろと言ったところかな。・・・正直を言って父さんは疲れていたぜ。市庭総監督といっても、ただ帳面をつけるばかりだってな。総監督は、ただの飾りだって」

 言いながら伊住が息をついた。

「あんたの言いようが正しいということにしよう。でなきゃ話がすすまない。とにかく、おれが聞きたいのはね、動き出したとは一体どういう意味かだよ」

 伊住は言いながらも、御館の本殿のなか、ひとびとがうなだれがちにしているのを訝ったのだった。

「それになんだい、この暗さは。まるでだれかの喪忌みみたいだ。なんて辛気臭い顔をしてるのさ」

 顔をしかめながら伊住が言うと、ふいに立て燈籠のあかりの影になった薄暗いところからひざを進めてくるものがあった。伊住は声を上げた。「隼背」

 立て灯籠のゆれるあかりを右の頬にうけていたのは、真由も見おぼえのある若者だった。名を聞いて思い出した。高天原にある伊住のすまいに日がな詰めていた若者である。阿多流の使い走りをしていたことからも、阿多流の身近をかためる側近のひとりにはちがいあるまい。

 里人たちをうなだらせ、里長どのを苛立たせている悪い知らせはきっと、隼背がもたらしたものなのだ。悪い知らせだとすれば、阿多流に関することか、それとも天照らの動静に関することだろう。隼背はひどく疲れた格好をしていた。角髪に結い上げた髪はほつれ毛が汗で首筋にはりつき、目は充血してウサギのように真っ赤だった。高天原から因幡まで死に物狂いで馬を飛ばしてきたであろうことが知れた。隼背は真由たちよりも一足先に、ここに着いたばかりらしい。

「おまえは父さんの側近じゃないか。なんだって、こんな遠くまで使い走りなんて」伊住も不審なものを感じたのか、訊ねた。

「すまない、伊住」隼背はかすれ声でまずそう言った。

「わたしは謝らねばならない、いいや、どうやっても謝り切れるとは思えない。わたしぐらいのちからでは、どうしても阿多流さまをお救いすることはできなかった」

 隼背は苦しそうにあえいだ。伊住はもどかしがって、隼背につめよる。「父さんになにかあったんだな」

 隼背はぎこちなくうなずいた。目を合わせることを恐れるように、隼背はけっして伊住のほうをみようとはしなかった。

「・・・阿多流さまは殺された。数えて十日以上も前のことだ」

「うそよ」

 真由は乾ききった口の中、にわかに氷水をそそがれたような驚きに息をつめた。それは驚きであり、認めたくはない悲しい事実だった。真由が氷水をすべて飲み下すのを待つように、隼背はいいつづけた。

「うそではないよ、お嬢どの。阿多流さまはね、たぶん、色々なことを知り過ぎてしまったのだと思う、これはわたしが言うのではないよ、阿多流さまをただびとばなれした恐ろしいちからで殺した人間が言っていたことだ。あれは、そう、おそろしいちからだった、あんなあやかしの術を使える人間を、現神というのだろうか。あれはもう、われらと同じ人であると思うことすらおぞましい。あれは、ひとではない・・・」

 隼背の声は、崖のふちまで追い詰められて、いまこそとどめの矢を身に受けようとしている手負いのけもののそれだった。その時のことを思い出しているのだろうか、全身をがちがちと震わせ、呼吸すらもままならない有り様であった。

「口をふさぐ手も、鼻をふさぐ手もどこにもありはしない。だが、男のまなざしに捕らえられた瞬間に息はとまり、体中の毛穴という毛穴まで縮み上がってしまうほどだった。わたしは、最後まで阿多流さまのお側にいたが、黄泉国まではお供できなかった。・・・息が切れて死んでしまうまえに、わたしだけが気を失うことで、助かったのだ」

 隼背の物言いによると阿多流は、王坐から真由が消えて騒動になった夜を明かすと、すぐにも王坐によびだされ、それからひどくやつれた顔で巫女王の御座から戻ってきたのだという。因幡への急使をだしたにもかかわらず、使いがひとりもかえってこないということは、故郷の因幡と連絡を取ろうとした阿多流の思惑が、王坐びと・・・とくに美栄彦や建御雷らによって捻りつぶすべきものであったからなのはあきらかだ。阿多流はじっさい、高天原のなかに閉じ込められ、外とは隔離されてしまったのだ。

「身の危険を感じた阿多流さまは、側近もごく少数をつれただけで、息のかかった民家にかくれ住んでおられたのだ。高天原とはいっても、果ての方はまったくの未開の土地とおなじ。森は外から目隠しをする天然の垂れ布になり、いざとなれば広瀬のおんたいに助力を頼み、高天原を脱出する手筈もととのえていた。・・・となれば、そうたやすくはみつかるまいと安心しきっていたのが、あだになったのだろうか」

 隼背はこの世でもっともおそろしいものを見たように、目を瞠った。「いいや、こちらの情報は筒抜けだったのだ、そうでなければ、どうして高天原の刺客があの場所を間違いもなく突き止めることができようか」「内通していた人間がいると言うのか」

 伊住は気が進まなそうに言った。伊住は口には出さないものの阿多流の人選には信頼をおいており、彼のまわりを固める側近たちをこのましく思っていた。どうしても内通者がいるとは信じたくないのだった。

「高天原の刺客にふいをつかれたとき、いつも阿多流さまのお側についていて離れなかったはずの、青田彦がいなかった」

 隼背はぽつりと言い落とした。伊住は隼背を睨みながら、きびしく言い返した。

「青田彦が探男だなんてばかなこと、死んでも言うなよ」

「しかし、狙いすましたようにあの日だけ青田彦が阿多流さまのもとを離れていたのは、確かなことだ。わたしも、信じたくはない。青田彦は心から阿多流さまにお仕えしていたからな」

 低い声で隼背は言い続けた。

「しかし、内通していた人間がいないと言い切ってしまえば、高天原の刺客がわれらの隠れ家に踏み込めたことも、因幡に送ったはずの使いが滞っていることも、説明がつかない」

 隼背はやりきれないようにうつむいた。

「刺客はほんの五人ほどだった。なのに、例の、手を下さずに恐ろしいちからで大勢のほとんどを殺してしまった男のせいで、まるで赤子のくびを捻りもぐように、われらの陣営はやすやすと潰されてしまった。あの男は、鳥船と呼ばれていた。その名を耳に聞いたのは、気がとおくなりかけていたあたりのことだったが」

「まばたきひとつで人を殺してのける霊力・・・おんきみから聞いたことがあるぞ」

 卯月が独り言のようにつぶやいたが、伊住は頓着しなかった。ただ、苛立ったように席を立ち、ひとびとが身を避けるのも待たずに大股で本殿を抜け出すと、うしろを振り返りもせず階段をとびこえて走りでていった。真由はおおきく開け放たれた御館のとびらから外をみつめながら、こころのどこかで何かが冷えてゆくのを感じていた。

 いやな予感というのは、とうさんの死を感じてのことだったのだろうか、それとも、きゅうに見通しの曇った国つ者たちの行く末への不安だったのか。どちらにしても、もう後戻りはできないのだ。後戻りをするには真由はもう遅すぎるところまで来ているように感じていたし、高天原びとへかんじる冷たい怒りは、覆い隠すことすらむずかしい嫌悪となって真由の胸を悪くさせた。

 青田彦へ不審をいだいてしまうじぶんが真由はいやでしかたがなかった。あのひとは内通などするひとではない、それにどこにも証拠はないではないか。甘いと言われてもべつにかまわなかった。青田彦はたまたまとうさんの側を離れていただけだと思いたい。きっとそうなのだ。

 真由はこのとき、じつはじぶんが彼という人をどんなにこのましく思っていたかに気づいたのだった。

 隼背はさびしく笑った。疲れ切った表情だった。

「阿多流さまのお命をまもるはずの側近が、おめおめと生き延びてきたわけだ。そのうえ、伊住にとっては兄のように近しい青田彦を、負け惜しみのように疑うとはな。・・・お嬢どの、あなたのまなざしもそう語っているよ」

 真由はあわてて隼背から目をそらした。

「しかし、何かに責任を負わせてしまうことなくして、わたしはここまでたどり着けなかっただろう。そのまえに挫けて、どこぞで野垂れ死にしていただろう。だが、そうなるわけにはいかないのだ、まだ」

 隼背がいいおえると、里長どのがうなずきながら言挙げした。

「市庭においての利益を占有しようとした疑いで、わしの弟、阿多流は殺された。都合のよい疑いばかりを積み上げ、根も葉もない讒言を吹っかけたうえに、処罰とうそぶき人殺しをする王坐びとの、どこをさがせば真実があろうか」

 怒りのこめられた里長どのの声に、賛同するひとびとの声がさざなみのように打ち広がり、はじめはばらばらだった怒鳴り声が、じょじょに勢いを増してひとつの塊のように高まっていった。

「国つ者を懐柔する策に益がないと見たのであろう。阿多流が殺されたとなれば、つぎはこの気高に軍がむけられる。しかし、何を怖じることがあろう? この土地には呼月のまもりもある、なにより力強いのは、高天原からはなれた巫の霊力だ」

 真由は耳を防ぎたいほどの喚声のなかで、しかし里長どののことばだけはきちんと縁取りをしたように聞き取れていた。真由は里長どのをみつめた。真由のまなざしに何を見たのだろうか、里長どのは穏やかにほほえむと、今一度声を張り上げた。

「男たちは里内に見上げるような柵を、櫓を打ち立てよ。ほこりをかぶった武器を磨くのだ。おんなたちは兵糧をまかなうのだ。すべては食い物がなければ話にならぬ。兵糧をたくわえ、背後には稲葉山のまもりをたのみにすれば、気高を堅牢な戦砦にすることは難しい仕事ではない。さあ、今すぐとりかかるのだ」

 ひとびとの表情に生気がさし、いままで御館の中にたちこめていた暗さはぬぐいさられたように見えた。

(もうあともどりはできないのだ)

 真由はその喚声のなかでひとり、ぬぐいきれない暗い予感をもてあましていた。

                            

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この記事へのコメント

兼倉
2011年11月14日 17:01
鳥船がこんなところで出てきた!!うわああああ!!
っていうか、お父さん…!(涙)
何かの間違いであってほしい(T_T)
八千穂も離れてしまって寂しさMAXのところにこんな…。
悪いことは重なるとよく言いますが、重なり方がハンパないですね。
でも私は青田彦は信じています。
きっと何か事情があるはず!
青田彦、無事でいて!
…すっかりハマってしまいました。
続きを心待ちにしております!
rie
2011年11月15日 04:03
兼倉さま、こんにちは!
鳥船が悪役になってしまいました。
しかも救いがない感じです…。

あらためて読み返すと、氷室冴子の「銀の海金の大地」の影響もばしばし入っているなと感じます。
不幸をしょってけなげに戦うヒロインが好きです。

ありがとうございます!!

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