かみなぎ31

 それから毎日、目の回るような忙しさがつづいた。

 男たちは山から何本もの木々を切り出し、先をするどく尖らせたほうを上にして、穴を掘った地面に突き立て固定した。高天原の軍の盾となってくれるはずの柵、そして櫓を、里の前面をかこむようにして築き上げるのだ。

 女たちはこんなときにあっても決して活気を失わなかった。むしろ、仕事のおそい男たちを後ろからせっつくように声を飛ばし、あかるい笑い声が里から消えることはなかった。女たちがそんな風だから、真由もずいぶん張り詰めていた気持ちがほぐされた。いつやってくるのかもさだかでない高天原の軍を待ち受けるのは神経をつかいそうなものなのに、女たちはみずからすすんで男たちのぴりぴりした空気をほぐし、茶目っ気のある軽口で、さりげなく自信をあたえてあげるのだ。

 呼月さまの坐す稲葉山から分けていただいたけものたちは、なにがしかの香草といっしょに大きなナベで煮込まれ、力の出る羹になった。あまった猪肉やウサギ肉やらは干物にして、ながく保つようにしておく。 海からのめぐみも見落とすことなく干物にするのは、女たちの仕事だった。はらわたを抜いて水で洗ったイワシには、やはり海からの賜物である塩をたんねんに塗り込み、天日ぼしにする。貝のものは荒薦を敷いたうえに中身をほじくり出して、すっかり乾かしてしまう。里長どのの御館蔵のなかにたくわえられていた米は乙女たちによって口噛みされ、酒槽のなかで醸された。口噛みされた米はやがてぷつぷつと泡を吐き出しはじめ、酒槽のなかでじっくりと旨さを煮つめてゆく。

 口噛みの甘酒が飲みごろになったとき、稲葉の御山はうっすらと秋づきはじめていた。二月は過ぎた今、夏の気配は遠ざかり、しのびあしで秋風が山の木々を色づかせて回っているのだ。

 しのびあしでやってくるのは、秋風ばかりではない。高天原の軍は気高の眼前にまで迫り、衝突のときはごく近かった。昨日もかあさんの隣りで遅くまで縫い物を手伝っていた真由は、麻の衾を頭まで引き被ってまどろんでいたときに、耳に青銅の鐘がうちならされるのを聞いた。たちまちのうちに眠りの潮が引いて行くのがわかった。

 見張りの打ち鳴らす高殿の鐘の音だ、高天原の軍が動きだしたのだ! 真由は跳ね起きると、横に寝ていたかあさんを揺すり起こした。かあさんが身を起こすのと、住居の入り口にたれている薦簾をかきあげて伊住が顔をのぞかせるのは、ほぼ同じ時だった。伊住は朝焼けの赤みをおびた太陽の光のなかにおり、寝癖のついた彼のみじかい髪には、光のつぶがたくさんまとわりついているように見えた。

「真由、おいで」

 伊住は神妙な表情で手招きをして、真由を住居の外につれだした。里内は起き出してきた人々で騒がしく、男たちの手には漁のための網のかわりに矛先のするどい槍がにぎられており、けものを射るための弓矢のかわりに、人を射殺すための弓と矢筒があった。女たちも張り詰めた空気の中にせわしなく身を働かせており、ひとりとしてじっとしている者はいなかった。

「真由、いいかい、おまえはばあちゃんのところへ行くんだ」

「どうして」

 真由は肩透かしを食わされたような気がした。伊住が言うには、足手まといになる小さな子供たちや老人は、少しまえに稲葉山の呼月さまの神社に逃れたのだという。かれらの世話をする者が何人かいるということで、ひとあしさきに数人のむすめが稲葉山を上って行ったという。しかし伊住のいいようは真由には納得できなかった。

「いま行けば追いつける。さあ、行くんだ。さゆりといったか、あの子もかなり前に山を上って行ったところだ」

 真由はうんともすんとも言わなかった。ただ、ふくれたように首を横に振った。真由だって役に立つことがあるはずだ。なのにまるっきり子供扱いされたような気がしたのである。たしかに、子供たちの世話は大事かもしれない。けれど、真由はじぶんだけ安全な場所にのがれるような気がして、うなずけなかった。真由にだって戦うことできるはずだ。「戦うだって、ばかを言うなよ」

 伊住は物分かりのわるい子を言い諭すように、おだやかに言った。

「高天原に抗うということは、正直をいって、いまのおれたちでは無理なんだ。わかるな、勝ちをもぎ取るのが無理だということさ」

「むりって・・・」真由は瞳を瞠った。

「さっき、高殿から高天原の軍を眺めてきたよ。三千、四千はくだらない。数からいってもてんで負けている」

 真由はやけにしずかな物言いをする伊住をみつめているうちに、むかむかと怒りがわいてきた。伊住はそんな真由を無視して、つづけた。

「こんなちっぽけな里を潰すのに、四千も軍を連れてくるなんて、はんぱじゃない。高天原はなんとしてでも真由を取り戻す覚悟だ」

「負けると知っていて戦うの。死ぬと知っていて抗うの。わからないわ、じゃあわたしたち、何のために戦うのよ。何のために」

 真由はうなった。なぜ伊住はかならずしのげると言ってくれないのだろう。うそでもいいから、言ってくれないのだろう。

 真由はそこまで考えて、愕然とした。偽りでもいいからと言いかけて、真由は息を呑んだのだった。高天原にいちど抗ったなら、たとえ今回高天原の軍をはねのけることができようと、これから二度三度と重ねてしかけてこられたら、勝目はどこにもない。・・・どこに勝機があるというのだろうか、気高の里人たちは正真のつわものではないというのに。高天原の軍のように白銀の剣もなければ、矢をふせぐ盾もないというのに。 そのとき、ひとあしはやい勝鬨の声をあげる里の男たちの大声が耳をたたき、真由はふいに泣きたくなった。真由にはその声が、いたましい喘ぎのように思えた。高天原の軍に踏み込まれたなら、いま真由の耳の奥にひびいているまぼろしの悲鳴や苦痛の声は、きっと現実のこととなってくりひろげられるのだ、なまなましい血の匂いとともに。そう考えたとき、どうしようもなく泣きたくなったのだった。

「だからと言って、いまさら引くわけにもいかないだろう?」

 伊住は真由を目を細めてながめてから、言い続けた。

「・・・いま、高天原の軍から早馬がきた。巫をわたせば、この気高の里を見逃してくれるのだそうだ。ありがたいことだね」

 真由は伊住の言いたいことをさとった。巫の霊力をもつ真由が高天原の軍に投降したとしても、軍がそのままおとなしくひきさがるハズはない。伊住は真由に逃げろといっているのだ。気高の滅びから背を向けて逃げ出して、呼月さまにかくまってもらえと。天照の同母の妹姫である呼月さまの神社ならば、高天原の軍も手荒くふみこまないだろうという算段なのだ。

「ここはなんとかくい止める。そのあいだに、おまえはばあちゃんのところに行くんだ。ばあちゃんなら、おまえを悪いようにはしない。きっとどうすればいいのか教えてくれる」

「いや、わたしは行かないわ」

 伊住は眉間にしわをよせた。聞き分けの悪い真由にいらいらしているのだ。けれど真由はひきさがらなかった。

「わたしは因幡のむすめだもの。里の一大事に逃げてはいられないわよ。なにより、高天原の軍はわたしを欲しがっているのよ」

 里のどこを叩いても真由がでてこなかったとしたら、高天原の兵たちはどうするだろう。

「わたしがここにいなければ、きっと、もっとひどいことになるわ。ここも、呼月さまのところだって」

 真由には兵たちが住居の数々に火を放ち、シラミの一匹までもいぶりだそうとするに違いないと思えた。怒り狂った炎が里を燃やしつくし、黒焦げの無残な炭のかたまりばかりが虚しく残るさまが、いやでも想像できた。

「伊住が困っているでしょう、聞き分けのないのはだめよ、真由」

 住居の薦簾をかきわけてあらわれ、真由に声をかけたのは、かあさんだった。母さんは疲れた表情をかくし、やさしいほほ笑みをみせた。

「聞き分けのないのは伊住のほうよ。わたしを逃がすなんて、あんまりだわ。わたしはどこにも行かないんだから。逃げるなんて、いや」

 真由はかあさんにまで宥められたが、とても平静ではいられなかった。そんなに真由が足手まといだというのか、いいや、そうではない。真由も心のどこかではそれを痛いくらい知っていた。伊住のいうとおり、高天原が欲しいのは真由だ。真由のもつ巫の霊力のために、高天原は気高に軍を送り込もうとしているのだ。

 それに気高の里人が真由をかくまうのは、真由が巫だから。たとえすぐにねじ伏せられる抗いだと知っていても里のひとびとに明るさが消えなかったのは、巫の霊力をもつ真由が高天原に真正面から対抗できうる希望だからだ・・・。真由の内部に息づく霊力は、ただびとの限界を軽く飛び越えた、神の領域にふみこむ霊力。その霊力をもってすれば、高天原を滅ぼすことも、あるいは弥なる繁栄を与えることもそうむずかしい話ではない。

 だからこそ、高天原は真由をほしがる。真由ではなく、真由の霊力をほしがる。それはどこからどう見てもはっきりとした本当のこと。

 けれど真由がここから逃げることは、とてもずるいことのように思えた。伊住やかあさんが何と言おうと、わからずやと言われようと、真由はここからにげだしたら、後悔する。

 呼月さまのところへ行っても、それは高天原から逃れたことにはならない。どこへ逃げても高天原の人間が網をからげて真由を待ち受け、近いうちにうまうまと搦め捕られてしまうのだ。そして、今度こそ逃げられない。逃げることそのものが、真由には無益と感じられた。

 真由をよこすそぶりも見せないことにしびれを切らしたか、やがて武器を打ち鳴らす音、足を踏み鳴らして勝ち祝ぎ歌を高らかに歌い上げる声が、ひとつの大きな塊となって近づいてくるのがわかった。

 里を取り囲むようにして作られた柵の上の見張り台にいた男が、弓弦をぎりぎりと引き絞っている最中に、左胸を射られて見張り台から転げ落ちた。それを皮切りに、柵をとびこえて幾つもの矢が里内に放たれた。火矢がほとんどである。そのうちのいくつかは茅葺きの住居に燃え移り、ちいさな火種はたちまちのうちに住居をなめるように呑み込んでゆく。 上げ橋式になっている扉をぶち壊そうと、はげしい体当たりがはじまった。里人たちは内側から開けさせまいと押さえ込み、あるいは矢を応戦する。たちまちのうちに里は喧噪の中に落とされた。

「伊住!」

 ひとびとの間、放たれてくる矢の雨の合間を縫って、あさぐろい肌の胸当たりに、白斑が染みのようについている一頭の馬が駆け込んできた。たづなを取るのは卯月で、そのうしろに相乗りしているのはどこか見覚えのある男であった。まぶしいくらいの朝日を背にうけているためによくわからなかったが、やがて間近に顔を合わせると真由はおもわず声を上げた。「彦田?」彦田は答えるかわりにはにかむようにして笑った。彦田は馬をとびおりて代わりに真由をのせると、伊住には手にした二本の槍のうち、一本を渡した。伊住は心得たように槍を受け取る。

「わかるな、真由。もう逃げるのはいやだなんて言うなよ」

 真由は物も言えなかった。できることなら一緒にここに残りたかった。残って、戦いたかった。けれど伊住はそれを許してはくれないのだ。

 真由は国つ者たちの希望だから。高天原に報復できるのは、一矢報いることができるのは、真由の身にある巫の霊力だけなのだ。

「ここでは、死ねないわ」

 真由はちいさくつぶやいた。高天原の持ち物になど死んでもなるものか。高天原の思惑を、すべて叩き潰してやりたい。そのためには、まだ、死ねないのだ・・・。情けなくも泣きだしそうになっている真由をすこしのあいだだけ伊住は眺めた。伊住のくちびるにはほほ笑みがあった。

「よいのか、出すぞ」

 卯月は真由にしっかりとつかまっているように言い渡すと、荒っぽく馬の腹をけりあげた。馬は荒い乗り手におびえもせずに、すぐさまかけだす。

「じゃあな」

 真由はけっして泣くわけにはいかなかった。泣くことは認めることだ。負けを認めることだ、大事な人たちの死をみとめることだ。

「わたしのかわりに、かあさんを守って」

 真由はのどまで迫り上がった苦いものを飲み下し、ようやくそうとだけ叫んだ。胸元にゆれていた木の実の御統に思い当たると、真由は急いでそれを取り、揺れる馬上から伊住のほうに投げ渡した。伊住は右手を高く上げて受け取った。

「あとで必ずかえして。かえしてくれなきゃ、絶交なんだから」

 伊住はにぎりしめていた右手のこぶしのなかに、大小のどんぐりやらをつらねた質素な御統をみつけた。これは、櫛名田のもちものだ。真由の産着についていたのを、伊住がいちど真由にあたえたのだ。櫛名田の持ち物だということを信用したかは別として、あれからいつも真由は肌身はなさず身につけていた。青々しい芽の出た木の実の御統など、ちょっと他ではみつけられないめずらしさがある。

「たいへんなものを渡されたな、伊住」

 彦田が悪気のない笑顔でそう言った。伊住もおかしそうに笑うと、よじれた御統の紐を直し、すぐさま首にかけた。

「そうそう簡単には死ねなくなったぞ」

 伊住はいまにも破られそうになっている柵の門扉をにらみながら、つぶやいた。にわかごしらえの柵はあとすこしでも持てばいいところ、すぐに高天原の四千もの軍に蹴倒されてしまうにちがいない。母親はといえば、はやばやと手伝いに消えていた。

 里長の御館のまえの広場では大釜にぐらぐらと湯を沸かしており、その熱湯を桶でもって柵の上から高天原の軍におみまいする。矢をはじめとして熱湯、はてには大岩まで転がされては敵の攻撃もゆるみがちだったが、そんなことでひるむ相手でもなかった。なにしろちいさな里をひとつ潰すだけにしては、兵の数がケタちがいだ。高天原のほうでも、それほど真由の身柄をつよく欲しがっているのだろう。

「まだ死ねるもんかい」

 伊住は、蹴破られた門扉をあせりもせずに眺めていた。高天原の軍がなだれこむのを認めると、彼は手にした槍の持ち手をにぎりなおした。「あいつの絶交は、ほんとうにしつこいからな」

       *        *        *

 卯月と真由、ふたりの乗る黒馬はすばらしい勢いで駆けた。胸元に白い斑が染みのようについている駿馬である。高天原からやってきた隼背の馬だとはいうけれど、高天原から遠く離れた因幡までめいっぱい駆けてきたばかりとは到底思えない、疲れをしらぬ駿足であった。真由は振り落とされないように卯月の腹に腕をまわし、けんめいにしがみついていた。耳元をするどく通り過ぎてゆく風の勢い、速さが真由には心強い。 よそから見たら、この黒馬のことがつむじ風のようなものに見えているのかもしれないと、真由はふと考えた。

 前に一度、呼月さまの神社へ続くこの細い道を、馬の背にゆっくりと揺られてのぼって行った時のことが、まるでうそのようだった。

 あのときと今は、もう、なにもかもが違っていた。

 見上げても先端の見えない杉の古木がいくつもたたずむ稲葉山は、ただ静かだった。朝の光が苔むした杉の古木の根本あたりまでもあかるく照らし、または暗い影をまだらに作り出す。真由のしがみついている卯月の背中にあって、小波のようにせわしなく巻き上げられている彼女の髪の毛にも、こまかいまでの朝の光がまとわりついていた。

 朝はどんなときであっても美しいのだ。真由はむなしさのなかでそう思わずにはいなかった。どんなに真由が泣いてもわめいても、やはり日はのぼるし、襲を幾重にも重ねたように赤みをおびた雲をひきつれて、ひとびとにうるわしい朝を与えるのだろう。真由の生まれ育った気高の里、真由の故郷。それを高天原が思うさまに引き裂こうとする時だというのに、憎いまでの天気はけっして顔を曇らせることなどない。

「どけ!」

 そのとき、ふいにたづなを取っていた卯月が声を上げた。おどろいて顔を上げた真由がみたものは、細い山道の真ん中に立ち、こちらを見据える男のすがただった。男は一見して里の者ではなかった。細い体は腰が曲がり翁のようだったが、くわしいところまでは分かりかねた。さしあたって重要なのは、このまま黒馬がつっこめば、男のほうはもとより、こちらも無事ではないということだ。馬が足を崩したら、卯月も真由も荷縄をつけていない荷物のようにほうり出されてしまう。

「ばかな、死ぬる気か」

 男は黒馬がごく近くにまで来ても、けっしてどかなかった。それどころか薄ら笑いさえしていたのである。少なくとも真由はそう思った。もはやたづなを引いても間に合わない。こんな近くにまできて男を見極められなかったことを卯月は悔やみながら、めいっぱいたづなを引いた。あまりに急なことである。馬がひづめをならすのを止めたとたん、ふたりはつんのめって馬上から投げ出された。落ちたところが柔らかい苔床だったから良かったものの、一足まちがえたら危ないところだ。

 真由はしたたかぶった腰を押さえながら身を起こし、考えなしの男を睨みつけようとした。しかし、その姿はどこにもない。まるではじめから誰もいなかったように、あたりはしんとしていた。

 そもそも、あれは誰なのだ?

 卯月が頭をかるく振りながらも立ち上がったのを見ると、真由は黒馬にかけよった。黒馬は何かにおびえるように直立しており、真由がたてがみに触れると、ようやくぶるる、といなないた。前脚のひづめを何度かならし、真由に鼻をすりよせてくる。

「まぼろしをみたのか」

 卯月は納得いかないように唸った。真由も首をかしげたが、あれはまぼろしではないと、心のどこかで確信していた。二人で同じまぼろしをみるものか。

「あの男、格好から言えば高天原びとのようだったが。まさか、そんなはずはない。この道にいたるには、気高の里内を通らねばならんと弘足どのも言っていた」

 高天原びとがこんなにも速く先回りすることなんて、考えられなかった。真由はなにやら悪寒がして、あたりを見回した。ただのまぼろしというには、男の姿ははっきりとしていた。もしやまだその辺りに隠れてはいまいかと、真由は四方にくまなく目を走らせた。けれど隠れられる茂みなんてものは見当たらない。

「真由、もうよい。まずは呼月のおんきみのもとに向かうのが先」

「無駄だ」

 卯月が真由をうながすのと、聞き馴れない男の声が響いたのは同時だった。真由が神社へとつづく小道のさきに目を走らせると、さきほどの命知らずがのんびりとした声で言った。

「神社にむかっても無駄」

 男は黒馬から二足ほどのごくちかい場所に、ほんとうにわずかの気配もさせずに立っていたのだった。男は真由をみつめてほほえんだ。しかしそのほほ笑みは蛇のように姑息そうで、油断ならないものに見えた。真由は負けじと睨み返した。

「むだとはどういうこと」

 真由はするどく言い放った。この男は敵だ。でなくば、こんな物騒な殺気をみなぎらせているいわれはなかった。男は高天原びとであり、そして真由という巫を捕まえに来た人間なのだ。真由の憶測はまちがってはいまい。

「神社へ行っても、もうだれもいないということだ。ただしく言えば、生きている人間は一人もいないということ」

「ばかげたことを言うのはやめて」

 真由は叫んだ。見たところ、ここにいるのは男ひとりだ。何人かの兵をひきつれて稲葉山に分け入ったとして、それはハナから考えられないことなのだ。神社へ通じる道は一本きり、それも気高の里内を通らねばならない。このところ里内から見張りの人間や篝火が消えることはなかったし、あやしい者が入り込んだ形跡もなかった。

 男はそれを聞くと笑いもせずに言い切った。

「空ががらあきだった、不用心なくらいにまでな」

 鷹に身を変えて侵入したと聞いても、真由は笑うことはなかった。笑うことなどできなかった。男の目は射すごとく真由だけを凝視し、その目には殺意がある。真由はその目をどこかで一度見たような気がしていた。激しい目、美々しいけものの目、そう、天照だ!

 真由は心底からの殺意を男から感じたが、おびえはしなかった。真由はもはやただのむすめではない。真由の危機には彼女の内部に息づく巫の霊力が、おのずと真由を救うのだ。・・・真由はその霊力を信じないわけにはいかなかった。おそらく今が大きな危機の時なのだ。目の前の男はただびとではない、直感が彼女にそう教えていたのである。

「何の用。あなたは天照のしもべなの」

 天照と男になにか同じものを見たのは、ただの思い違いだったのだろうか。男はまさしく蛇のような丸く小さな目を細めて、それから乾いたくちびるを舌でしめらせた。背は高く顔付きも若々しいというのに、腰が翁のように曲がっており、不格好だった。鋭い美貌の天照とは似ても似つかないというのに、なぜ天照と似ているなんて感じたのか。

「しもべ、しもべか。そんなところだろう」

 男はおどけるような高い声で言った。真由の物言いをおかしがって笑っているのだと気づくと、頭にくるよりも不気味ですらあった。卯月は腰に帯びた剣の柄に手をかけながら、低く言い放った。剣を抜くより先に卯月はまなざしで男を切り刻んでいた。卯月も男のただならぬ殺気を感じたにちがいない。

「うぬ、何者だ。神社で何をした」

「先に言ったとおりだ。皆殺しにした」

 真由がまさか、と瞳を瞠るのと、卯月が剣を抜き放って駆け出すのはほぼ同時だった。卯月はためらいなく剣を振り上げると、男の右の肩めがけて斬りおろした。

「ばかな!」

 卯月の手には断たれた血肉の感触などなく、ただ虚しくも空気を切り裂いたばかりだった。

「女にしては、なかなか気の強いことだ。嫌いではない」

 男のあざけるような声をめがけて、卯月はふたたび剣の切っ先を繰り出した。しかしまたもや手ごたえはない。卯月の振るう剣がおそいのではなかった。男はそこにいながら、まったくいないも同じだった。卯月は憑かれたように男の声と姿をめがけて剣をふるいつづけた。

「どこを突いている。ほれ、ほれ、いかがした。痛くもかゆくもありはせぬぞ」「黙れッ!」

 男の姿はいつのまにか苔むしたむこうの岩陰におり、卯月が息を切らして駆けつけると今度は彼女のうしろでにやにやと笑っている。卯月は心のどこかでこれが幻影なのだと、とうに知っていたのかもしれない。しかし、冷静に考える心とはべつに卯月のまなざしは男の姿を追いつづけ、手は剣を振るいつづけた。足は止まることを知らない。

(高天原の、現神の霊力か)

 卯月は息が切れ朦朧としてきた頭のすみで、そう考えた。高天原は神の末裔が支配する土地。炎の末裔のなかでも、最も濃い血を受け継ぐ者たちを巫と呼ぶ。今代の巫は真由と八千穂のふたりだ。しかし、霊力を持つのは巫ばかりではない。

 先代の巫、天照と須佐ノ男のほかにも呼月という霊力の持ち主がいたように、巫以外の霊力の持ち主は現神とよばれる。高天原は呼月のほかにも現神を囲っているのではないか、卯月は前々からそう考えていたところだったのだ。現神は巫ほどではないにしても、やはりただびとを越えた霊力の行使ができるのだ。手ごわい相手にちがいあるまい。

「うぬは、何者ぞ。現神か!」

 卯月はそう言い様に、渾身のちからでもって一太刀をあびせた。今度こそははっきりとした手ごたえが痺れをひきいて卯月の腕につたわってきた。卯月はしかし苦り切った顔で、うめいた。彼女が斬ったと思ったのは、杉の古木だったのだ。剣は木肌をわずかにえぐったばかり。卯月はおもわず剣を握っていた手をはなした。そのままむせるように咳き込みつつ深く呼吸をし、再び剣を手に取ろうとしたときだった。

「わたしにはあまり時間がないのだ。手合わせはまた、いずれ」

 卯月ははっとして真由のもとを振り返ったが、彼女の姿はどこにもなかった。ただ黒馬ばかりが行儀よく立ち尽くしている。

「うかつな」

 歯がみをしてもはじまらないのだということは、痛いくらいわかっていた。真由はあの男につれ去られたのだ。真由をまもるべき人間がまぼろしにもてあそばれ、なんという失態をしたのだろう。

 真由はどこに行った、あの男はどこだ。卯月は真由の名を叫んだが、しずかな森はむなしくこだまを返すばかりだった。卯月は何かを振り払うように黒馬に飛びまたがり、神社への道をいちずに駆けた。

「離して、離しなさい、離せ!」

 真由は朝日のもとにうずくまる影のごとくに、音もなく忍び寄った男に後ろからはがいじめにされたかと思うと、それからすぐに足元がまったくおぼつかない感触をおぼえた。胃の腑がもみくちゃにされるような強い吐き気にうめき、ひととき息を詰まらせて気を失ったのかもしれない。

 気がつくと、真由は板敷きの床のうえに転がされていた。いまだ収まらない吐き気をこらえながら、身を起こそうとして手をついたものの、床についた両手がぬめぬめしたものに触れて滑った。鼻にはよどんだ臭気がとどこおっている。顔を上げて見ると、真由の手は爪の先まで赤いものに染め抜かれていた。薄暗いなかにあって、半分蹴倒された入り戸から差し込む朝の光が真由の手元をあかるくしていた。

「あ、ああ」

 それはいまだ生暖かい、血だまりなのだった。かなさびた血のにおい、血の流れ。それを目でたどってゆくうちに、真由はおぞましい光景を見た。血のひとしずくでも忌まれる聖なる神の臥し所が、おびただしい骸と血の海で満たされていた。

 真由は折り重なって死んでいるひとびとから目をそらすこともできず、痺れきった手足、瞠られたままの瞳もそのままに、ばらばらになった思考を再び積み上げることもできなかった。

 だれが真由をここまで連れてきたのだ、だれが真由にこんな残酷なまぼろしを見せるのだろう。死んでいるのはほとんどが老いた人や、子供たちだった。そうだ、ここは神社だ。呼月さまの坐す、稲葉山の神社だ。老いたひとや子供たちは揃って里から呼月さまのもとへのがれたのだ。 真由はしなびた青じろい足が力無く目の前に投げ出されているのに気づくと、胃の腑の中の食べ物がのどもとに迫り上がってくるのにも、あらがいようがなかった。

「まぼろしではない」

 吐くものを吐いてしまうと、まなじりに涙がにじんだ。その場にひざをついたまま、冷ややかな声のするほうをのろのろと見上げた真由は、そこに男のすがたをみた。朝日を背にしてこちらをみつめる翁は、真由をせせらわらっていた。いいや、翁ではない。背は曲がっているけれど、この男は翁のようにひしがれてはいない。それに、ただびとならぬ霊力もある。真由を連れてここまで駆けたのは、この男の霊力によるものなのだ。そして、神社のこの惨状も、男のしごとなのだ・・・。

「おまえたちの愚かさをその目に焼きつけるがいい。阿多流にしても、呼月にしても、わたしに命乞いをすればあるいは楽に死なせてやったものを」

 真由はじぶんの血塗られた両手をみつめた。両手だけではない、真由の転がされていた板敷きの床は、血ばかりか糞尿でよごれていた。鼻が曲がりそうなほどの臭気は、これらがすべて混じり合い、よどみとなって放たれるものなのだ。

「おまえがやったというの」

 真由はかぼそい声でつぶやいた。ふたたび同じ答えを聞いてどうする気なのかは、真由にもわからなかった。ただ、何かが胸の奥でくすぶっている。悲しみか、怒りか、それとも嫌悪か。どれであれ、男が答えを言い出した瞬間に真由はこの男をずたずたに引き裂いてしまいたいと望むだろう。そうだ、心から切に願うだろう!

「なんのために、こんなことをするの。この人たちはおまえたち高天原びとの敵にはなりえなかったのに。なぜ殺したの、なぜ」

(逃げ場などなかったのだ。さゆりにも、真由にも)

 神社へゆく老人や子供たちの世話役として、数人の娘たちが神社への道を上っていったはずだった。このむくろの山のなかにさゆりがいるのだと考えると、真由は叫び出したくなるのを押さえられそうになかった。「ひとは必ず死ぬのだ、その時が知らされていないだけでな。気高は落ちた。おろかしくも抗いおった里の者は、呼月をうしなってからでは何をささえとするのだろうな。若者は軍にことごとく殺され、そうなれば養われるべき弱いものが死んでゆく。童男らが早いか、それとも老いぼれのほうか」

 男はほほ笑んだ。

「わたしは飢える苦しみを彼らが知るまえに殺してやったのだ。そのかわり、もっとも苦しみの多い方法で。巫のむすめ、どうだ、知りたいか」 真由はぬめる床のうえによろけながら立ち上がると、男をにらみつけた。袖無しの丈のみじかい野良着は汚物に染まりきり、すさまじい匂いをさせていた。ほどけた髪の毛が汗でくびすじにはりついたまま、さっき思うさま嘔吐したときに瞳ににじんだ涙のひとしずくが、鼻のわきをすべり、きつく引き結んだくちびる、おとがいをへて喉元へおちていった。まだ真由は泣けなかった。泣くのはまだ早い。

「おまえが奪っていい生命なんて、この世にひとつだってありはしない」 真由は叫んだ。震えていたが、自分でもおそろしいほどその声はりんとしていた。

「おまえの言うとおりかもしれない、気高のひとたちは愚かだわ。負けることを知っていて、戦ったんだもの。おろかな戦いだわ」

 はやくも負けを認めているようなじぶんの口ぶりに恐れがわいたが、真由はひるまなかった。いちど弱気につけこまれれば、二度と立ち上がれなくなるだろう。ここは死が満ちる場所だ。生きようとする決意を挫いてしまう、悲しくて、残酷な場所なのだ。

 目の前の腰の曲がった男をみつめながら、真由はもはや怒りが起こらないのを認めていた。怒りよりも、悲しみが先に立った。悲しみのなかには哀れみが横たわり、しずかに息をしている。

「わたしたちは愚かだわ。けれど、すくなくともそれを知っている。わたしたちはちっぽけだわ、それを知りながら戦に向かう、おまえたちはそれを愚かなことと笑うのね。けれど、わたしたちはちっぽけであることに誇りをもっている。ちっぽけないのちだからこそ、ひとつひとつがとても大切なのよ」

 真由はほんとうにじぶんの口が喋っているのだろうかと不思議ですらあった。おかしな話だが、そう口にしてはじめて真由はじぶんの考えを飲み込んだのだ。

 そうだ、愚かなことだ。負けると知っていて勇んで武器を手にし、高天原の軍を迎え撃とうと、鍛えられた兵らのまえでは微々たる抗いにすぎまい。高天原びとたちは長い年月の間、国つ者たちを飽くことなく滅ぼし続けてきたのだ。まるで田畑に巣くう虫をさがしだし、捻りつぶすような気軽さで。それは、なんのためだろう。須佐ノ男は高天原をのっとられぬためと言った。・・・しかし国つ者たちのどこに、高天原を領履こうとする気があったろう。どこに神を領履こうとする気があったろう。「わたしたちには、誇りがある。おまえたちには決して支配できない雄々しいたましいがある」

 いくら高天原の軍が強かろうと、神を領履こうとする炎の末裔はうべなえない。だから国つ者はあらがうのだ。ずっと昔から繰り返されてきたあらがいを、今この時も繰り返すだけなのだ。

(そうなのね)

 高天原の炎の末裔がいくら国つ者たちを焼き滅ぼそうと、国つ者たちは焼け土を苗床としてたくましい根を張る。生命を育て、生命を内部にみなぎらせたうるわしい森をつくる。ちょうど、出手母の山々のような。 炎がもたらすのは国つ者にとってほろびでさえない、真由にはなぜかそう思えた。たとえ炎があらゆるものを焼きほろぼす猛々しいものであったとしても、滅びのあとにははじまりがおとずれるはずだ。そもそも、終わりなんてだれが知り得るのだろうか。

「おまえたちにそれがある? すべてを堰の中にためこんで淀ませてしまうのではなく、すべてを清らかな流れとともに受け入れてしまえる強さがある?」

「黙れ、小娘が。おまえにわれらの何がわかるというのだ」

 男はどなった。惨状をみせつけられても真由が取り乱さないのが意外なのにちがいない。男は射止めたけものを見せびらかそうとするように、ただ真由が驚いて泣き叫ぶ顔を見たいがために、真由をここまで連れてきたのだ。

 男に対して怒りがないといったらうそだ。できることなら真由はすぐにでもこの男を責め殺してやりたいと思っているのだから。それも、最も残酷な方法で。

 この男はとうさんを殺した。瞳にやどる霊力で息をつぐのを不自由にさせ、苦しみのたうちまわる人々を喜悦にゆがんだ瞳でながめていたのがこの男だ。息を止められたら最後、隼背のように運よく気を失ったりしないかぎり、むごい死に方を強いられる。舌はだらしなくたらされ、目はとびでる。苦しみからの解放のあとは糞尿が垂れ流されるのだ。真由のまぶたの裏に、ひややかな笑いが見えた。けものの死骸をうちみるまなざし、骸に吐きかけられた唾。泡を吐いて死んでいる無残な骸に、男は唾をはきかけたのだ。

「おまえだけは許せない、鳥船」

 真由はつぶやいた。男はぎょっとしたようだった。男は今までいっぺんも名乗らなかった。真由も知りたいと思うまで、鳥船という名はしらなかった。なぜ今になって知り得たのかなど、どうでもよかった。

「小太刀をちょうだい」

 真由はふるえる声で叫んだ。鳥船に言ったのではない、内なる霊力に懇願したのだ。すると真由の汚れにまみれた右手に、ひとふりの小太刀があらわれた。装飾もない小太刀はずっしりと重く、ただ白銀のかがやきだけが真由の目をとらえた。

「巫が、なんだというのだ。ただのこむすめではないか」

 鳥船はのたまうと、真由の目をじっと見つめた。現神の霊力を行使するつもりなのだ、しかし真由にはきかなかった。真由は鳥船の目をまっすぐに見つめた。とどまれと瞳に命じた。

 鳥船は体をこわばらせ、しかし一歩もそこから動かなかった。真由のまなざしの強さに恐れをなしたか、それとも小娘の抗いだとばかにしているのか。真由はたしかな業物の重みを両手ににぎりしめると、駆け出した。鳥船のむなぐらを掴んで引き寄せ、その右目に小太刀を深々とつきさした。ためらいはちりほどもなかった。

 掠れた悲鳴を聞きながら左目までも刺し潰すと、真由は鳥船を突き飛ばした。鳥船は神社のきざはしを転げ落ち、あわれな悲鳴をあげながら両目をふさいで身もだえしていた。

 見下ろす真由の瞳には、羽根を切られた鳥がはばたけないまま、地面をはいずり回って苦しんでいる姿が映っていた。真由自身がこの男に与えた苦しみだ。けれど、後悔とかおそれとかいうものは、不思議なまでになかった。

「天照に覆奏をするがいい。呼月さまをころし、国つ者の里を滅ぼしたと胸を張るがいい。腰をめいっぱい曲げて、はいつくばって、褒美をねだるがいい」

 真由は悲鳴のように叫んだ。

「・・・わたしはおまえたちをゆるさない、いずれ高天原を滅ぼしさり、その傲慢さを踏み潰してやるわ。覚えているがいい」

 真由はのたうちまわる鳥船を笑ってやりたかった。思うさま笑い飛ばしてやりたかった。なのにくちびるから零れるのは嗚咽であり、まなじりからこぼれるのは涙だった。

(もう、だめだ)

 もう耐えられなかった。心が悲鳴をあげていて、今にも砕けてしまいそうだ。大声をあげて泣ける腕がほしかった。やさしく背をなでてくれる手が欲しかった。けれど、そんな腕はない。なきむし真由の頭をやさしく撫でてくれたとうさんの大きな手。ほっぺたをつねるときの伊住の笑い顔、かあさんのしろい腕。

「真由!」

 黒馬を駆けさせてくる卯月のすがたを真由はみた。真由は小太刀を取り落とし、両手で顔をおおった。

 すべてのやさしいもの、真由をささえていたすべてが崩れてゆくような気がしていた。そして、それはもはやどうあっても取り戻せないものなのだ。ちょうど、手のすきまから浜の真砂がすべりおちてゆくことに似ているのかもしれなかった。こぼれおちた砂は、もう取り戻せない。真由は一粒ひとつぶの砂のちがいなんて知らないし、それがどんなに大事なものだったかも今まで知らなかったのだ。知ろうともしなかった。 巫の霊力がこの里をほろぼしたのだ。そもそも里のひとびとが真由の霊力を高天原に渡すまいとした抗いである。

 高天原は巫を維持してゆくためには、どんなことだってしたのだ。里の一つや二つ滅ぼすことなんて、高天原はうるさいハエを叩き潰すぐらいにしか考えていないのだ。

 もしかしたら天照も、高天原に押し潰されてしまったひとなのではないのか。道が分かたれてしまった巫のかたわれを、天照はどこまでも付け狙い、この世で愛しめるただひとりのひとを自らの手で殺した。

 巫はふたりでひとり、もっとも強く呼び合い、引かれ合う。けれど天照が須佐ノ男に追いすがったのは、ただの嫉妬だとはもはや思えなかった。鳥船のように高天原の繁栄ばかりを求めさせられ、大巫女王の地位や、それにともなう義務にしばられたすえのことではないのか。義務のなかに縛られた、かなしい狂気がさせたことではないのか。

 巫の霊力は高天原をはなれてはならぬ。須佐ノ男をころすのは、わたしの義務なのだ。

 そう言い放ったときの天照の表情は、歪んではいなかったか。いまにも泣き出しそうではなかったか。

(わからない、だれを憎んでいいのかも、もう、わからない)

 逃れられない義務、そんなものがあるのだとして、手足を搦め捕られてしまった天照というひとはなんて哀れなのだ。天照だけではない、須佐ノ男だろうと。彼はすべての義務を放棄し、あきらめだけを荷物として高天原からのがれた。姉の放つ刺客のことごとくを殺しながら、須佐ノ男の胸には死人そのものの空虚さがあったのだ。

 霊力をもつがゆえに強いられるさだめのむごさ。真由はそれを見つめてきたはずではないか。

(さだめには抗えない。櫛名田が言うのは、ただの甘言だわ)

 大きな流れのなかに橋をかけるなんて無理なのだ。じぶんを見失わないでいることこそ無理なのだ。真由はただの木の葉だ。荒川のながれに揉まれる、木の葉でしかない・・・。

(うけいれるしかないの)

 さだめを受け入れるしか、残された道はないのだろうか。八千穂との未来なんて、真由にはのぞむべくもないというのか。

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