かみなぎ40

 捕虜となった人々のかわりに、高天原の軍に投降した真由は、王坐に引っ立てられていった。手も足も自由なままなのは、真由に逃げる意志がないと思われたためだろう。

 じっさい、真由は逃げる気はなかった。あきらめているのではない。真由はこころのどこかで、国つ者たちの軍が高天原に踏み込み、すべてを壊してしまうことを恐れていたのかもしれなかった。たしかに、国つ者たちは高天原の軍とはちがう。必要以上には奪わないし、壊さない。けれど、やっていることは、高天原の軍となにひとつかわらないのだ。 どんなに気を配っても、柚宇津のように、いわれなく大事な人々をうばわれ、あらたな憎しみや絶望を増やすばかりのような気がした。

 なんとか、軍が高天原に踏み入るまえに事態をいい方向にもっていくことはできないだろうか。もっといい形で、高天原との共存ができないだろうか。

 真由はじぶんの考えが、ただの甘言だと分かっていた。ここまできて戦いを避けるなど、しょせん無理なのかもしれない。けれど、建御雷に面と向かって言ってやりたいことだけは山ほどあった。真由は高天原の持ち物になるつもりはない。天照のように、狂気をかかえたまま死んでゆくつもりは、さらさらなかった。・・・王坐のつめたい空気は、どこかひとを狂わせる。おしこめられた箱庭のなかで、豊かではあっても不自由に暮らすことなんて、まっぴらだった。

 真由の乗る馬を引くのは、高天原の兵である。そのほかには四人の兵たちが、真由を取り囲むように馬を進めている。彼らの手にする槍の、磨かれて尖ったしろがねの先端が、夕暮れ時のやけに黄色いひかりを照り返し、真由の目にもひどくまぶしく映った。

(ここが、高天原?)

 彼女の目を細めさせたのは、夕暮れのひかりばかりではなかった。ゆうゆうと流れる川にかかった大きな橋を越えると、高天原の門扉がある。以前にこの橋を渡ったときには、大橋の川縁に、いくつもの小船が揺れていたものだった。けれど、夕日を映す川面には、いまでは一曹たりとも船影がない。門扉をくぐって市庭をとおりこし、纏向市街に入る。

 真由は我が目を疑った。高天原の入り口から王坐へつづく大通りには、込み合うばかりの人の気配がまるでない。地主神の目覚めとともに起こった流行病が、ひとびとの生活まで食いつぶしたのだ。

 ぶきみなくらいしんとした大路を行き過ぎて王坐の門をくぐると、真由はやがて馬からおろされ、背中を押されるようにして歩いた。

 王坐の空気は、前とはちがっていた。采女たちの薫らす香のにおいに隠れるようにして、つねに底のほうに漂っていた饐えた死人のにおいが、いまはない。高天原に吹き込むようになった風が、王坐のよどみを持ち去ったのだろうか。

 気がつくと、真由はひとりきりで歩いていた。そばには真由をせかすようにして歩かせていた兵もなく、彼女はどこまでもまっすぐな廊下を、ひとりきりでもくもくと歩いていたのだった。磨かれた、ちりひとつもない板敷きの廊下の板目ばかりが、えんえんと向こうまで続いている。(行ってはいけない)

 これ以上進んではならないと、真由のこころが叫んでいた。向こうにたどりついてはならない。たどりついたなら、きっと、なにかおそろしいものを見るような気がした。けれど彼女の足は引き返すということを知らず、まるで足ばかりが真由の持ち物ではないかのように、たくましく廊下を踏み締めて前へ進むのである。

 真由はやがて、ひとつの室の入り口についた。目隠しの垂れ布はあきつの羽根を思わせるかろやかなもので、それが幾重にも重なっているさまは、霧の合間をかいくぐるような気持ちだった。

 ここは一度見たことがある。ふと考え、それからすぐに気づいた。ここは巫女王の御座に似ているのだ。けれど御座には天照ではなく、朽ち木を連想させる老人が簾をへだてて座っており、真由はまっすぐに彼をみつめたのだった。

「よくいらした、わしのもとへ」

 建御雷は、やけにゆっくりと言った。

「高天原のあらたな大巫女王よ」

「やめて」真由はきびしく言い返した。

「わたしはそのためにここに来たのではないわ」

 すこしでもまなざしをゆるめれば、このタコのような老練な老人に、うまいこと搦め捕られてしまいそうで怖かった。

「わたしは天照のようになる気はないわ。大巫女王になることは、人でいながら人であることを捨てることよ」

 真由が心底からいとしいと思う事柄を断ち切ってでも、巫女王になるなんてばからしいことだった。なにより真由はそれを望んでいないのだ。
「人である必要などない。巫女王は、神であれば」

 建御雷はおだやかに言った。

「天照が神であれば、そなたもまた神なのだ。御鏡の霊力を現在にうけつぐ、そなたをおいて誰を神と呼ぶ? それがわかれば、人並みの幸せにしがみつくことが、いかに愚かであるかがわかるだろう。神は高天原のためにある。高天原は神のためにある。帰るべき故郷として、いつまでもあり続けねばならぬ」

「だれが帰るというの、こんな場所に」

 建御雷が、簾ごしにほほ笑んだような気がした。けれどその笑顔は真由に安堵を与えるどころか、うそ寒いものを背筋にはしらせた。

「そうだ、もはや誰も帰らぬ。四枚あるべきますみの鏡は、いまや二枚きりになり、なによりわしの御鏡は曇っておる。どうあっても、曇りは晴れぬ。・・・曇らせたのは、だれぞ?」

 聞かれても真由が知るわけはなかった。そう言い出したかったが、簾の奥から立ち上がり、真由のほうに歩いてくる建御雷のただならぬ剣呑な視線にしばられ、彼女は息を継ぐことすらままならなかった。

「そなたは知らぬだろうが、御鏡にとって、血の穢れが何より忌むべきものなのだ。一枚あれば不死と再生、二枚そろえば神をも殺す。三枚そろえば黄泉路を渡る。四枚そろえば、すべてを無にかえす・・・。それらの御鏡の霊力は、自然のことわりを曲げて、すなわち不自然のうえに成り立つ霊力なのだ。血の穢れが一滴でも御鏡におちれば、御鏡はたちまち曇り、歪んでしまう」

 建御雷は声の調子ばかりは、ごくしずかに言い続けた。けれど激しい怒りが籠められている瞳をみつめれば、これから真由に危害を加えようとする気がないと言われるほうが、信じがたかった。

「不安定となった御鏡の霊力のために、わしはこのような老いた体をもてあましている。不死の身でありながら、老いを抱えて過ごして来た、この途方もない年月をみよ。・・・この苦しみがわかるか、そなたに」

「老いたままでいるのがいやなら、すべてをやり直せばいいのよ。明日香姫の御鏡と、あなたの御鏡をあわせて、死を手に入れればいい。簡単なことだわ。そうでしょう」

 真由はようやくそう口にした。建御雷は、しかし聞いてはおらず、ふしくれた手で彼女の首筋をなで、触れるか触れないかのところで、ほほをいとしそうに撫でただけだった。真由はきつく目を閉じた。払いのけようにも、金縛りにあったように動けない。

「若い肌はいい。はりのある、なんともみずみずしい肌だ。そなたは美しい。若いゆえに、美しいのだ。年とともに衰えた美しさは、もはや醜さにかわる。そうなれば、みるにたえぬ・・・」

 彼が何を言いたいのか、真由はさっぱりわからなかった。それに、あまり分かりたくもなかった。

「はなして」

 真由はちいさくさけんだ。建御雷の手は執拗に真由に触れてくる。体中をまさぐられているような気味悪さに、真由は吐き気さえした。

「凪のおとめは、炎の御子ほどには目覚めておらぬようだ」

 ふしくれた老人の手は、真由のこころの深いところまでも、あばこうとするのだ。拒もうとするのにかなわない、その感情のせめぎ合いのなかで、歯はがちがちと鳴りだし、冷や汗がひたいや背筋にうっすらと吹き出た。・・・いつまでも目を閉じていることはできなかった。じぶんが暗闇の中にいると思うと、ますます恐ろしかったのである。

 勇気を奮い起こして目を開くと、建御雷は、指一本たりとも真由に触れてはいなかった。真由に触れていた、つめたい朽ち木の感触は、目を開いた瞬間に、彼女を解き放った。

「そなた、その勾玉は・・・」

 建御雷は驚愕をあらわにしていた。ものを見ることも難しそうな、色素を失って水色をした瞳がみひらかれ、乾いた唇はつぎの言葉をつむげないまま、こわばっていた。建御雷のまなざしは真由の胸元にいちずに注がれている。

 真由がつられるように目線をさげると、衣ごしに、大蛇の勾玉があかるく輝いているのが見て取れた。強いかがやきは薄暗い御座をもあかく染め上げ、真由はそのひかりのなかで落ち着きを取り戻しつつあった。
「ばかな、そのような輝き、以前にはなかったというのに」

 建御雷は震える声でそうとだけ言った。取り乱した老人を前に真由はきゅうに優位を手に入れた。そして真由はそれを手放す気はなかった。
「大蛇神のたましいは、いつもわたしに寄り添っている。わたしに害なす者のまえでは、わたしの内なる霊力をめざめさせることを、手助けしてくれる」

 真由はせいいっぱいの敵意とおどしをこめて老人をにらんだ。老人はすると、真由をばかにした穏やかな口調とほほ笑みを消し去り、厳しい怒声をあげた。それは呼び声であった。

「鳥船」

 ほどなくして、真由の後ろで低く応えの声がした。驚いて振り向くと、因幡でまみえた鳥船が、ひざをついていた。背中におおきな醜いこぶがあり、年若い彼を翁のように見せていた。真由と目が合うと、鳥船はほほえんだ。・・・本当ならば、目が合うはずもないというのに。真由は彼の二つの目を、小太刀で刺し潰したはずなのだ。

 しかし鳥船の細い目はしっかりと真由をとらえ、離さなかった。

「この娘を籠めておけ。かならずや、この娘のもとに大穴牟遅はやってくる。王坐にあっては、もはやおとりも逃げられまいが、鳥船よ、大穴牟遅をおびきよせるための餌は、丁寧にあつかうのだぞ」

「わかっております」

 言うなり鳥船は立ち上がり、真由のみぞおちに拳をくりだした。

 おびきよせる? 聞き捨てならない建御雷の言葉であった。しかし真由には遠くはなれてゆく意識に追いすがることはできず、そのまま何も分からなくなったのだった。

「この忌々しい勾玉も取り払っておけ」

 鳥船は真由の首にかかっていたちっぽけな勾玉を取りさると、そのまま懐にしまいこんだ。倒れた真由をうちながめている建御雷に、鳥船はそっとたずねた。

「この娘、どうなさるおつもりです、父上」

「わしのものにする。体もこころも、霊力も、すべてわしの意のままになる、わしの持ち物になるのだ。・・・巫女王になる気がないというのだから、わしがそうするしかあるまい。この娘はおのれの内なる霊力を、使いこなせていない。わしを拒もうにも拒めまい」

「大穴牟遅の皇子が取り返しにくるでしょう」

 建御雷はやさしく息子をみつめた。現在においても生き続ける御鏡のちからが生み出したものは、ふたりの巫ばかりではない。歪められた莫大な神のちからは、高天原に巫とはべつに、現神(あらきがみ)という存在もまたもたらしたのである。巫ほどではなくとも、現神はただびとを越えた霊力の行使ができる。・・・鳥船は身にもつ霊力を、探男として、あるいは邪魔者の消失のためにもちいていた。

「そうだ。だからこそ、面白いのだ」

 建御雷は低く笑った。

「巫は魅かれ合うゆえに、ともに滅びる運命なのだ。嵐風にあおられる炎は、また風がなければ燃え立たぬ。真由を手のうちに握った今、あの皇子のさだめもまた、わしのたなごころの内にある」

 父の笑顔を目にし、鳥船もまた、ほほえんだ。しかし、倒れた真由を眺める瞳はいたく冷めていた。

「わしが彼のすせりびめになろう。風は炎を生かしも殺しもする。

 あの皇子には、禍つ誓約から逃れられぬ、むごい運命と言うものを、教えてやろう。わしの意のままにならぬと断言した唯一のあの皇子を、わしの足元に打ち伏せてやろう」

 真由を横抱きにして御座を出て行こうとする鳥船を眺めながら、建御雷はつぶやいた。

「正しく吹く風というものを、わしは知らぬ。いつの時代においても、愚かなまでの巫たちの戦いは、飽くこともなく繰り返される。ならば、簡単なこと。風が狂いを起こしても良いように、炎を消してしまえばいいのだ」

     *         *         *

 いつからか、雪が降り出していた。真由は押し込められた室の、冷たいまでの板敷きの床のうえに転がされていたが、やがて目を覚ますと、両手をのばす広さもない、狭い室の寒さに縮み上がった。秋も終わりを迎えたころだから、身につける衣袴も厚手のあたたかなものだったけれど、ずっと高いところにある四つ格子の高窓から吹き込む雪を見てしまうと、もういけなかった。毛をはぎとられたウサギのように、ぽつぽつ浮き出た寒さいぼを見るにつけても、真由は体を抱えるようにして、できるだけ体温を逃がさないようにつとめた。

 高天原の軍に投降してから、はや三日が経とうとしていた。あれから建御雷は真由に近づきもせず、ただ鳥船が一日一回の食事のときに、がっしりとした扉についた物見の窓から、あの細々しい瞳で真由の様子をちらりと眺め見ていくばかりだった。

 真由が口汚くののしっても、鳥船はまったく顔色を変えようとはしなかった。それどころか、哀れみにも似たまなざしを落としていくので、真由はもう何も言う気にはなれなかった。刃向かう気力がなくなったのは、寒さのせいだろうか、それとも空腹のせいだろうか。

 建御雷が重々しい扉をひらき、真由の前にあらわれたのは、水気を多くふくんだ重たい雪が、これでもかと高窓から吹き込んだ、四日目の朝であった。半分凍っていたのかもしれない。扉に向けて寒さを訴えようと応答はなく、彼女の細い肩に降り積もった雪は、髪の毛や衣をぱりぱりに凍らせ、しまいには、真由は雪よりも青白い、血の気のうせた顔で室に横たわっていた。

 どうやら真由を凍え死にさせる気はないらしい。建御雷は見張りの兵に、おおきな毛衾で真由の凍えた体ごとすっぽり包ませると、どこかに運ばせた。ほどなくして衣ごとお湯にほうり込まれ、真由はようやく生きた心地をとりもどしたのだった。

 何度も深呼吸をくりかえし、真由はようやく辺りを気にする余裕をとりもどした。王坐内の、湯殿のひとつらしい。木のにおいとともに意識がはっきりしてくるなり、真由は湯の中からたちあがった。しろくけむる湯気が、乾ききったのどの奥にまで忍び込み、真由は一度はげしくむせ返った。

 昨日から水の一滴すら取っていなかったことを思い出すと、真由はふいに湯殿にみたされた熱い湯を、両の手のひらですくい、乾きがまぎれるほどに飲んだ。湯はすんでいて、強い水の匂いがした。乾きはあとからあとから湧いてきて、真由はそれに抗えなかった。

 やがて、湯を吸って重くなった衣をひきずり、湯殿を抜けると、ひとりの女が立っているのをみつけた。女は王坐の冷たいはなやかさには、まるでそぐわない、質素な野良着を着込み、両手をゆるやかにもみ絞っていた。彼女の笑顔を目にとめた真由は、奇妙さを感じるよりもまず、彼女の胸にとびついていた。

「甘えん坊ね、真由は」

 母さんはそう言って笑った。真由はあたたかな母さんの胸に顔を押し付けたまま、吐息をついた。

「どこへ行っていたの?」

「おかしな子ね。ずっとあなたのそばにいたわ」

 真由が顔を上げると、母さんのやさしい微笑みがあった。辺りをみまわすと、奇妙なことにそこはもう王坐ではないのだった。見慣れた里の風景がどこまでも広がり、刈り取りを待つ黄金色の稲群や、恵みを与えてくださった地主神に感謝をしめす、里人たちの陽気な歌声が、どこまでも抜けるような青空に吸い込まれてゆくところだった。

(ちがう、これはかあさんではない)

 真由と母さんがいるのは、気高の里内のはずれ、小川のほとりだった。もう手の届かない、遠いかなたにまで消え去ってしまった、あたたかな思い出。そうだ、真由のしがみついている人のぬくもりも、この黄金色の景色も、全くおなじものは、もうこの世にはあり得ない・・・。

 真由はかなしみと憤りをふたつかかえて、ただ泣いた。

「どうして泣くの?」

 母さんは、ふしぎそうに真由に問うのだ。真由は、心を決めて母さんを突き飛ばすと、やさしげな微笑をはげしくにらみつけた。

「あなたはまぼろしだわ」

 真由は込み上げるものを腕で拭いながら、叫んだ。

「わたしの母さんは、もう死んでしまったのよ」

 気高の里とともに、母さんは死んでしまったのだ。それはもう取りかえしのつかない、かなしい現実なのだ。現実はかなしいが、目の前のまぼろしは、もっとずっと残酷だ。

 真由のほしがっているもの、手を伸ばしてももう触れようのないものを、いまさらのように目の前に突きつける。

 母さんは、いいや、まぼろしは、優しく真由をたしなめた。

「ばかね。母さんは、こうして生きているじゃない。死人があなたを抱き締めることができる? さあ、おろかなことを言っていないで、住居にかえりましょう。あのひとも、伊住も、あなたの帰りを待っているんだから」

 まぼろしは優しくつづけた。その声には、抵抗しようとする真由の意思を、まるでなきものにしてしまう力があった。

「わたしの手をとりなさい。わたしを認めなさい。そうすれば、おまえは二度と無くすことにおびえずに済む。おまえだけの幻影、おまえのためだけに存在する幻影を、はやく認めておしまい」

 いつのまにか母さんのすがたは、建御雷のそれにかわっていた。建御雷は、気高の里を、重たく頭をたれる稲群を、そして因幡の山なりを、水色の目を細めてながめた。真由はただぼんやりとして、老人の瞳をみつめていた。

「ほら、ごらん」

 建御雷は、ふしくれた指で、里を取り囲む雑木林をさした。真由はつられるようにそちらを見つめ、やがて瞳を瞠った。

「真由!」

 息を切らして駆けてくる若者があった。

「八千穂?」

 八千穂は真由の前で立ち止まった。袖無しの裂折から伸びた腕は、時には磯にでる里人らしく、埴色のしおれた袴からのぞく膝までも、健康的にやけていた。細くて茅群れも運べなかったなまっちろい腕は、いまでは若者らしいたくましさを真由にみせている。笑うと惜し気もなくこぼれる白い歯は、みているとこちらまで明るい気分になるのだ。

「真由、ここにいたね。伊住の言っていたとおりだ」

 八千穂はつづけた。

「はやく行こう。みんな待ちかねているよ」

「なにがあるの? お祭り?」

 手を引く八千穂に戸惑って、真由が訊くと、彼は笑った。

「いやだな、まさか、忘れてしまったのかい。ぼくときみの、祝言さ」
「だって、祝言って」

 真由はあえいだ。それと同時に、とても大事なことを思い出したのだった。

「そうよ、戦はどうなったの。御鏡はどうなったの。・・・まだ、何も終わっちゃいないわ。・・・祝言だなんて、あなたこそ、何をばかなことを言っているのよ」
「ぜんぶ終わったんだよ、真由」

 八千穂はひどくやさしくささやいた。八千穂の声は子守歌のようにやわらかで、やさしかった。

「つらいことは、みんな忘れておしまいよ」

「忘れろですって・・・」

 真由は首を振った。まったく彼らしくない言葉だった。八千穂は、目の前におかれた現実のすべてに、まっこうから立ち向かうと言ったではないか。たとえそれがつらいことであったとしても。

「真由、ぼくを見て」

 八千穂は不審を隠せない真由をみつめると、ささやいた。

「きみが負うべきものは、もう何もない。きみは、ただ、ぼくのそばにいてくれればいい。・・・きみがいてくれるなら、ぼくは本当に、他にはなにもいらないんだ」

 真由はぎくりとして、じっと八千穂をみつめた。八千穂のまなざしはいたくまじめで、それに何かしら、ふしぎな力があるように感じられた。
「ほんとう?」

 真由は、眠そうな目で訊いた。じっさい、ひどく眠かった。考えようとする気持ちが、ゆっくりと萎えてくる。

「うそは言わない。なにしろ、そなたは未来永劫わしのものだ」

 いうなり八千穂は真由をきつくだきすくめた。真由はもう抗う気など、どこにもなかった。もう、すべてがどうでもよかった。耳元で八千穂がふたたびささやいた。

「おやすみ、真由」

 真由をだきしめる八千穂のすがたは、いつのまにか老人のそれにかわっていた。ぐったりとした真由はうつろな瞳のまま、老人にもたれかかっていた。建御雷は右手に掲げていた、錆び付いた丸いものを、器用に布でつつむ。その途端に、いままで見えていた、のどかな里の風景は消え去り、雑然とした湯殿小屋が戻ってきた。

「さもないものだ。いきがっていても、やはりただの娘か。母よりも、こいびとを選ぶとは」

 建御雷はしわがれた声で、低く笑った。衣ごと湯殿にほうり込んだ娘の体はずっしりと重く、肉のおちた老人の身では、支えることすら難しかった。彼は舌打ちをしながら真由を床に横たえると、ふたたび布に包んだものを取り出した。

 よく見ると、黒ずんだ表面がすべすべとしている。明日香のものとは比べるべくもなかったが、たしかに形といい大きさといい、御鏡のひとつであった。

 錆び付いて赤黒い御鏡を、建御雷は真由の胸のうえに置いた。湯でじっとりと肌にはりついた衣は、娘のもつみずみずしいまでの命の豊かさを衣ごしにでも感じさせる。彼は、深く息をついたあと、御鏡に手を差し入れた。御鏡は建御雷の骨の浮き出た手を吸い込み、呑み込んでいった。 手から入り、つぎに頭をいれる。はたから見ている者があったら、腰を抜かしただろう。鏡が老人を呑み込むなど、奇異でしかない。

 老人の体がすべて御鏡の中に呑まれてしまったあと、御鏡は真由の胸からすべりおちた。

 しばしの静けさがあり、それからふいに真由は体をおこした。真由はまず、立ち上がり、じぶんの手のひらをじっとみつめた。それから、確かめるように手を握ったり開いたりしていたが、とつぜん肩を揺らして高笑いをはじめた。

「鳥船!」

 真由は叫んだ。しかしそれはもう、真由の声ではなかった。居丈高な、冷たい声であった。ほどなくして鳥船があらわれた。鳥船は、全身びしょ濡れのまま立ち尽くし、肩を揺らして笑っている真由を見るとぎょっとしたが、何も言わずにひざを折っていた。

「うまくいったぞ。巫の体を手に入れるのが、かように容易いことだと知っていたならば、もっと早くに取り替えていればよかったのだ。痛みもなければ、苦しくもない。わしは何をおびえておったのだろう」

 真由の体を乗っ取った建御雷は、ずっしりと重い濡れ髪をかきあげ、ほほえんだ。

「若い体は良い。ほれ、このように笑っても、すこしも息が切れぬ」

「まことに・・・」

 鳥船は、やはり信じがたいようにあえいだ。そんな彼を一瞥すると、建御雷は言った。

「剣と衣をもて」

「剣、と」鳥船は上目使いに建御雷をみやった。彼にして見ても、やはり驚愕は大きく、すぐには頭が働かないのである。建御雷は言い含めるように続けた。

「巫女王の御座のすみに、つづらがある。上から二つ目、右から、たしか四つ目のつづらだ。そこから天照の衣袴を取ってこい。・・・鳥船よ、なにを驚くことがあろうか。そなたの目を癒したのも、娘の魂の室をおかしたのも、すべて御鏡の霊力なのだぞ。娘のこころはわたしが領履いた。もはや二度と真由が真由に戻るときはない」

 それから濡れた衣を無造作に脱ぎはじめた。鳥船はすばやく命令をまっとうし、ほどなくしてきれいにたたまれた白い衣袴のひとそろいと、装飾もないしろがねの剣が、彼女のまえにさしだされた。

 建御雷は鳥船が控えている前で衣袴を身につけ、胸紐と腰紐をきついまでに結んだ。指をならしてから、黒髪を器用に下げ角髪に結い上げる。そろえられた飾りの勾玉は角髪にくくりつけ、それから胸に八尺賑を揺らした。腰には剣をはき、熊皮の、毛並みの黒々とした沓をはいたところで、彼女はぽつりと言い落とした。

「御鏡の気配がする・・・明日香の御鏡ぞ」

 鳥船は顔を上げた。

「お供いたしましょうか」

 すると建御雷は首を横にふった。下げ角髪にした黒髪が、彼女のほそい肩をうった。

「大穴牟遅が一人きりで来るわけがない。仲間がいるはずだ。流行病に食いつぶされているとは言え、王坐の防備はゆるめてはいない。大穴牟遅もそうそう霊力は使うまいよ、なにしろ、わしに居場所を知らせてしまうことになる。おだやかに真由を取り戻そうとするのなら、なんらかの方法で忍び込むはず」

「・・・今し方、美栄彦が王坐に戻ったとの知らせがありました。それと、高天原でも一番に腕の立つという、薬長屋の医者がさきほどついたと」
「医者だと」建御雷は耳聡くききつけた。

 流行病を受け入れたのは、高天原の纏向市街ばかりではなかった。王坐でも病に倒れるものが多く、熱と幻覚に苦しむうめき声が、廊下を歩いていてもつねにどこからか聞こえてくるような状態である。天照を失った王坐の人々は、つぎの統治者を切望し、しかし求められないままに、疲れ果てていた。体の弱い子供や女、老人はとくに病にかかりやすく、美栄彦の息子、呼日もまた病の餌食となった。

「医者がひとりに、助手を名乗る者が三人おりました。呼日の乳母が、御子の室に彼らを案内していったところです」

「気になる。そなたは、その医者とかいうのの身元をもういちど聞きただせ。答えられなかったときは、かまわぬ、斬って捨てろ。そうだ、美栄彦も共に始末してしまえ。あれは、今となっては、わしが御座を手にするための障害でしかない」

 みじかくうなずき、鳥船はその場から消えた。建御雷は湯殿から出て、迷いもなく廊下を進んだ。御鏡の気配はごく近く、彼女はそれをもとめて歩いているのだった。

(もはや、明日香の御鏡などはおそるるに足らぬ)

 踏み出す足にも、みなぎる力がある。建御雷は、胸元にしのばせた曇った御鏡を思った。彼女にとって、曇った御鏡はいまや負い目ですらなかった。巫の霊力と若い体を手に入れた今では、恐れるものは何もなかったのである。

      *         *       *

 国つ者の軍から離れ、高天原に踏み込んだ八千穂と葦生は、これと言った危険もなく伊住たちと落ち合うことができた。高天原は以前のような活気も見る影がなく、おもくのしかかるような暗い灰色の空もあいまって、まったくさびしげであった。昨日からふりだした雪は、水気をおおく含んだおもたいもので、王坐へつづく大路は歩く者もごく少ななまま、ひっそりと雪に埋もれだしていた。

 高天原とひとくちに言っても、大路からずっと奥にそれてしまうと、とたんにうらぶれた様子になる。纏向市街でも、大路に面した土地には豊かな者が住み、奥まった土地には貧乏人が住むという構図になっている。板葺きやら草葺きのちっぽけな住居が立ち並び、その合間を縫うように、人ひとりがやっと通れるくらいの、わずかな路地が縦横に走っている。住居というより掘っ建て小屋といったほうが正しいような、貧しいものである。それらがすしずめになって、市街の大半を埋め尽くしているのだ。

 大路周辺だけを見れば、とにかくきらびやかだけれど、そんなものは高天原のほんの一面でしかないと、八千穂はここを見て思い知った。

 高天原の人々は、大路周辺をおもてと呼び、庶民らが暮らす、すしずめの住居群が占める場所を、うらと呼ぶ。

 おもてとうらは、まさしく明と暗として、高天原を支えているのだ。どちらが欠けてしまっても、それはもう高天原ではない。

 八千穂らがいるのは、うら長屋のひとつだった。さっぱり人気のない大路とはべつに、この長屋だけはやけに人の出入りが激しいようだ。高天原でも評判の医者のいとなむ薬長屋であれば、繁盛は道理であった。
「どこからみても女だ。こいつは、驚いた!」

 伊住は、薬長屋の一室で、笑いをこらえるような奇妙な顔付きをしながら、そう言った。となりで青田彦は目を丸くしていた。

 長屋とは、ひとむねをいくつかに区切って、何世帯も住めるようにした、細長い住居のことである。うらではそうした長屋が多く、生き物のように円を描いたり複雑に折れ曲がったりして、そのひとつひとつに、なんとか長屋、とかいう名称がついているのだ。

「思いのほか美人になったじゃないか。ええ、将軍どの」

 伊住のまなざしの先には、うつくしく装った麗し女がいた。麗し女にしてはやけに丈高く、がっしりとした体つきだったが、唇にはほほ笑みを浮かべており、衣裳もずいぶん体の線を隠すので、それほどたくましさが気にならない。

「八千穂はきれいにできて当然なんだよ。しかし、あんたも、そうなってしまうと、あれだね。男臭さがぱあっとなくなって、ずっといいよ」
 みかけによらず葦生は、うす浅黄の衣裳に同系色の帯という女装が、ぴったりと決まっていた。浅黒い肌にも白粉を病弱なほど塗りたくり、角髪に結った髪をおろせば、ちょっと大柄な女性でとおるだろう。

「でも、伊住。どうしてこんな格好を?」

 八千穂は身につけた衣裳をまじまじと見つめながら、ふしぎになって訊いた。すると、伊住がかもじをかぶりながら言った。

「そんな怪訝な顔付きをするなよ。おれだって、なにも趣味でこんな格好をするんじゃないんだ。・・・王坐へ忍び込むには、これくらいの変装は必要だということさ」

 女装をするのは、三人ばかりらしい。王坐において、美栄彦の御子が病におかされたというのである。ワラにもすがるとは、このことだろう。不寝の祈祷ばかりでは、どうにも益がないというので、急遽、王坐から薬長屋に医者の呼び出しがかかった。それをうまく利用して王坐に正面から入り込もうというわけである。

 うらでは名高い医者とはいえ、王坐の人間で彼の本当の顔を知る者はない。そこで青田彦は医者になりすまし、伊住や葦生、八千穂はその従者として忍び込む手筈である。伊住が胸をたたいたのは、医者のツテがあったからなのだ。

「どれ、八千穂どの、わたしが髪を結ってさしあげよう」

 青田彦が腰をあげ、背まで届く八千穂の髪の毛を、あかい柏のような大きな手に取った。口に髪どめの細いかんざしを何本もくわえ、そのまま大きな手で髪を器用にたばね上げる。高い位置でひねり、ちいさな輪を二つつくってから、髪どめでとめ、補強として葛のつるを巻き付ける。櫛やらをさせば、どこから見ても立派なおとめができあがった。

「どうすれば青田彦のように器用にできるんだろう」

 八千穂は彼の手際に感心しながら、ふとたずねた。すると青田彦はやさしく笑った。

「髪結いがうまいのは、わたしばかりではない。わたしのような寂しい男なら、みな器用ということになる。・・・あなたはお分かりにならないほうがいい」
「どういうこと?」

 青田彦の何か含むような言い方が、八千穂を食い下がらせた。そもそも青田彦という人は、どこか底知れないところがある。この世のことわりならば何でも知っていて、必要なときになら、なんでも教えてくれそうな、ふところの深さのようなものを感じるのである。そう、言うなれば、父のような。

「わたしは口べたゆえ、うまく説明はしかねる」

 青田彦はどことなしか、決まり悪そうに言った。紅皿やら櫛やらで雑然とした小卓のむこう、髪に挿した櫛を直しながら、葦生が笑った。

「わたしの故郷では、こいびととの初寝のとき、女が男の衣袴の紐を結び固め、男が女の黒髪を結い上げる。それはつぎの逢瀬まで、解いてはならない。つまり、お互いに操だてをするのさ」

「解けども解けぬは男女の仲ってね。これっきりと思って操だてをするが、そうもいかないのがホントのとこだろう。衣袴の紐を、あんまりきつく結ばれれば、恋人が疎ましくもなる。あたらしい恋人とつぎつぎ初寝を繰り返せば、おのずと髪結いはうまくなるってわけさ」

 伊住は茶化すように笑ったが、それならば操だてなどむだなことではないのか。破られるためにある操だてなら、ハナからしなければいいのだ。八千穂が首をひねっているあいだにも、立て付けの悪い長屋の戸の向こうから、男の声がした。

「お嬢さんがた、準備はおすみか」

 それを合図におのおのが立ち上がると、伊住が顔から笑いを打ち消し、神妙に言った。

「いいかい、ここを出たら、女になりきるんだ。裳の下の剣は、悟られないように、十分に気をつけな」

 もともと、女装を選んだのも、裳のしたに剣を隠すためなのだ。青田彦はもっともらしく大きな薬箱を背負い、そのうえに滋養のつく長芋といつわって、布に包んだ剣をしのばせていた。

 板戸を開けると、外にはふたたび雪が降り出していた。灰色の空はむこうのほうが雪で白くけむり、八千穂はすこしのあいだ目を細めてそちらをみつめていた。長屋の外で馬を待たせていた男は、彼らを見るなり口笛を鳴らした。

「こりゃあ、驚いた。伊住、あんたもうまく化けたもんだ」

 伊住は栗毛馬にまたがると、男に笑いかけた。

「あんたには迷惑をかけるね、兼誉。下手をすりゃ、高天原にもいられなくなるって言うのに」

「いいんだよ。どうせ、そろそろ故郷の河内に帰ろうと思ってたとこなんだ。なにかと未練があって住み着いてはいたが、・・・薬長屋なんてものが流行るほうが、おれは恐ろしいよ」

 兼誉はなにげなく、灰色の空のむこうをみつめた。

「高天原も、近ごろはめっきり住みにくくなった。流行病も、高天原がつぶれる前触れかもね」

 兼誉はさびしく笑った。

「市庭のはじっこで、まずい飴を売っていたころのほうが、もしかしたら幸せだったかもしれないなあ。・・・さあ、おれのつまらん愚痴なんか聞いていたら、気が滅入るだろう。はやく、あの娘を迎えに行ってやりな。あのかわいい娘を、けっして泣かしちゃならないよ」

 兼誉はそれから、思い出したように四頭の馬の連なりを呼び止めた。仕事でくたびれた着物のふところを探ると、やがて朱色の小袋があらわれた。兼誉はそれを八千穂に握らせた。小袋はかろうじて中身が残っているくらいで、ごく軽かった。

「アメさ。泣き虫にはてきめんの薬だよ」

 八千穂がきょとんとしていると、兼誉はほほえんだ。

「いいから持ってきな。・・・こいつは、せんべつさ。あんたは、アメのような男にならなきゃ。好きな娘が泣いてたら、すぐさま飛んで行って、どんなことをしたって笑わしてやるんだ。どんなにぶざまだっていい。気持ちは、かならず伝わるよ」

 八千穂は兼誉のさびしげなほほえみを、じっとみつめた。

「ああいう娘が、だれよりも幸せにならなきゃならないんだ。わかるだろ、色男。あんたはまだ間に合うんだ。しっかり踏ん張れよ」

 八千穂はつよくうなずいた。兼誉は満足そうに、鼻のあたまを中指でかるく掻いた。仕事がら、薬木やら薬草やらをあつかうため爛れた指先に、こびりついていたあかい粉末が、彼の鼻先をも赤くした。

      *         *        *

 王坐に入り込むのは、難しい仕事ではなかった。病の呼日を診るという大義名分があったし、なによりも幼子の命は今にも危ないらしく、身元の検分などする余裕もないくらいなのだった。美栄彦が軍から一時帰ったこともあり、王坐はにわかにさわがしくなっていた。

 采女を案内によこすまでもなく、呼日の乳母みずからがあわただしく彼らをむかえ、室に招いた。歩きながら、青田彦は乳母に何やかやと話しかける。のどと腹のまわりの湿疹。それに発熱。兼誉の言いようどおり、流行病の症状であった。薬は調合してある。青田彦の役目は、呼日の室で時間を稼ぐことであった。伊住と葦生はほかの病人を診にゆくことをよそおい、真由の居場所をさがしもとめた。

 伊住の胸元には、大蛇の勾玉がある。もとは一つのたましいであれば、真由の持つ勾玉と引かれ合うはずだ。たしかに伊住の手では輝かない勾玉ではあったが、なにかしら呼び合うものだけは感じた。彼の足は迷いもなく王坐の廊下をすすみ、やがて人の気配を感じて立ち止まった。

「あれが、真由どのか?」

 後ろをついてきていた葦生は、目を細めてたずねた。彼の目には、なにやら腰の曲がった、翁のような人物がみえていた。しかし、伊住は顔をこわばらせ、裳のしたにはいた剣に早くも手を伸ばしている。

「探していたのは真由だ。あんたはお呼びではないぜ」

 伊住は悟るものがあり、眼差しを剣呑にした。

「だが、あんたには、いろいろと訊ねたいことがある」

 伊住は男の胸に揺れた、ちっぽけなヒスイの勾玉をみつけていたのだ。
「それはこちらのせりふのようだが?」

 鳥船は、余裕ありげにほほえんだ。

「うまく化けたものだ」

 伊住の顔をじっくりと眺めていたが、やがて何かに気づいて、ふたたび微笑をした。

「父親のように死にたいならば、それもまた良いだろう」

 御鏡を抱いた八千穂は、足早に廊下をすすんでいた。鞘に包まれた御鏡は、けれど建御雷の御鏡と引き合うちからがごく強く、彼はただそれに従って歩いているだけなのである。

 やがて、八千穂はだだっ広い室にたどりついた。天井は高く、ずっと上座の方には、主のないままの御座がある。巫女王の昼の御座だ。

 霊力の衰えた巫女王天照は、妹姫である呼月の闇見によって権力をささえていた。巫は、二人そろわねば霊力の行使ができない。須佐ノ男を手ずから殺した天照は、その瞬間にすべての霊力を失ってしまったのだ。 霊力をなくした巫女がそのまま御座にとどまることは、不自然なことだった。なのに天照は大巫女王としてあがめられ、その死は太陽の喪失にもたとえられて、高天原をゆるがしている。

(高天原の太陽・・・)

 八千穂は御鏡のおさめられた胸元に触れた。彼のまなざしは、食い入るように巫女王の御座のほうに注がれていた。八千穂は、信じ難いひとをそこに見たのだった。いままで誰もいないはずだった巫女王の御座。そこに立ち尽くす娘のすがたは、八千穂を驚かせた。

「まゆ?」

 真由はつややかな黒髪を下げ角髪に結い、白い衣袴をまとっていた。角髪の髪どめのつるにはまばゆいばかりの勾玉が飾られ、胸元にもいくつもの勾玉を連ねた御統をさげ、腕にはヒスイの丸玉やら勾玉やらを連ねた腕輪をはめていた。袴の足結いのところに結わえた鈴は、彼女が歩くたびにすずやかな音をさせる。

(ちがう)八千穂はひらめくように思った。あれは真由ではない。

 なにしろ、あれは真由のする表情ではない。憎悪と敵意をみなぎらせた剣呑な表情は、真由の持ち物ではない。

 立ち尽くしている八千穂をみつめると、真由はにやりと笑った。心が凍りつきそうな、いやな笑い方だった。真由は腰にはいた剣を抜き払うと、ふいに高い笑い声をあげた。剣をふりあげたかと思うと、急に風が起こった。風が吹き込む窓もない籠め室である。しかし八千穂の疑念など、まるでおかまいなしに、風は吹き荒れた。

 強風は八千穂のまとった衣裳を、やかましいくらいに、ばたばたとはためかせた。息をつぐのも目を開けたままでいるのも困難になり始めたとき、ふたたび真由の哄笑が耳に響いた。風に体が攫われないように足をふんばり、腕を顔の前に持ってきて、なんとか目を開けようとした。 そうして再び真由を視界に入れた八千穂は、目を瞠って声をなくした。
「大穴牟遅よ、わしのまえにひざまずけ」

 真由は風のころもを纏っていた。正しく言えば、風を自由に使役していたのである。ちいさな竜巻のように、または蛇のように彼女にまつわりつく風は、彼女をゆっくりと板敷きの床から離しつつ、大きくなっていくのだ。やがて、御座がぎしぎしと揺れはじめた。地面が暴れているのではないかと思えるほどの、激しい揺れだった。

 八千穂は立ったままでいることすらかなわなくなったとき、ひざをついて、真由であって真由でない存在をにらみつけた。

「何をした、おまえはまゆではない!」

「この娘はわしの持ち物となったのだ」

 真由は風のうなり声のなかにあっても、よく聞き取れるふしぎな声でささやいた。八千穂はいよいよ強く彼女をにらみ、厳しく誰何をした。
「そなたは何に引かれてここまでやってきたのだ? わしの御鏡ではないのか?」

 建御雷! 八千穂は怒りで我を失いそうだった。真由の体を乗っ取ったのが建御雷だというのなら、真由の胸もとに御鏡はあるはずだった。 建御雷は、真由の体を奪うと同時に、巫の霊力もまた奪ったのだ。だとすれば、建御雷が使役しているのは、凪のおとめの本性、風のちからだ。凪のおとめは風姫ともいう。真由でさえ満足にこなせなかった霊力を、皮肉なことに建御雷が引き出したのだ。

「もはや、そなたの知る真由は死んだ!」

 建御雷は、真由の面輪に凶悪な笑みをきざみながら、そう宣言した。

                            

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