かみなぎ32


 卯月は真由の背中をすこし強く撫でながら、のたうちまわっていた鳥船がいつのまにか消えているのに気づいた。見れば、杉の古木の合間をよろよろと飛んでゆく鷹が一羽ある。あれが鳥船であろうとは思ったものの、いまの卯月には弓矢もなかった。それに真由に目を潰されてからでは、やすやすと霊力の行使もできまい。

「どこに行っても逃げられない。逃げることなんて、できないもの」

 真由はしゃくりあげる下からそう言った。はじめ卯月は鳥船のことを言っているのだろうと考えたが、どうやら違うらしい。真由の声には絶望だけがあったのだ。

「逃げなければいい。立ち向かえばいいのだ」

 卯月は言った。しかし、そんな言葉は神社の惨状をみせつけられた真由の耳にはとどかないこともわかっていたのかもしれない。真由は悲しみにうちひしがれ、戦う気力をすっかりなくしているのだ。鳥船が真由から奪っていったものはとてつもなく大きい。

「立ち向かうことは、きっとあの人と殺し合うことよ」

 真由は悲鳴をかなでるように痛々しく叫んだ。真由は涙に濡れた顔をあげた。血と汚物によごされた顔。傷ついたけものの瞳だった。

「天照が須佐ノ男をころしたように、もうすぐあのひとがわたしを殺しにやってくる。高天原からはなれた巫の霊力を取り戻しに・・・」

 瞳を瞠った卯月は、しかし物も言えずにいた。そのうちに真由を抱き締める卯月の腕はふいに空気をいだき、よほど真由をきつく抱いていたのだろう、彼女は勢いあまって我が身を抱き締める格好になった。真由は身を飛ばしたのだ。行き先など知る由もなかった。

「真由」

 卯月はなにやら頬にふわふわしたものが当たるのを感じ、そちらに目をやった。すると、卯月の肩には真由が出手母から連れ帰ったテンがいたのだった。埴色のテンは真由の不在をなげくかのように、きいきいとちいさく鳴いた。

「ヤチホコ、おまえさまのあるじはどこへ行った?」

 卯月は言いながらも、胸をつくむなしさで息ができなくなりそうだった。真由の言い切った不吉な言葉のかずかずが卯月の喉元に食い込み、息をさせなかった。

 卯月は息を吐くと蹴倒された入り戸から神社に踏み入った。するととどこおった臭気にもまして、おびただしい骸の山に卯月は戦慄をした。「無事な者は、おらぬか」

 卯月は何度もそう声をかけた。鳥船の霊力が目交いあうことによって作動するのだとすれば、目を見ていなかった者がだれか生き残っている可能性もある。卯月はひとつひとつの骸をしらべた。老いた者が童男や女童を胸にかばうように死んでいる有り様のなかには、生き残っている者など望めそうもなかった。人よりも鼻の利くであろうヤチホコは毛を逆立て、卯月の細い両の肩を行ったり来たりしている。

 骸をかきわけて呼月の御座に向かっていた卯月は、耳にうめき声をききとめた。足元をみると二十歳ほどの娘が体を折って荒い息をくりかえしていた。助かるまい、腹を両手で押さえている娘の腕をやさしく解くと、卯月は傷の深さを見て取ったのだった。鳥船はまなざしで殺し切れなかった者を、こうして手ずから殺してまわったのだ。

 娘は卯月をみあげると、腕を伸ばして彼女の手を握った。死の間際におかれているとは思えない強いちからであった。

「凪の者」

 娘は言った。しかしそれは娘の言葉ではなく、なにか別の者の意志による声。卯月には覚えがあった。森を吹きすぎ梢をやさしく揺らす風のような、大地の寄せる人へのいとしみを感じさせる声。

「呼月のおんきみ」

 卯月は抱え起こした娘の体をじぶんの腕でささえると、ひとすじの血を流した口元に耳を寄せた。呼月の意志であるにしろ、里娘の今際の際のうめき声であるにしろ、一言たりとも聞き逃してはならないことのように思われた。

「わたしの霊力が、もはやあのような現神にすら劣るものだとは。里者たちをひとりきりで守り切れると思ったわたしが愚かであったのか」

 この神社のあるじ呼月は、娘の体に魂を滑り込ませているのにちがいなかった。呼月というひとは大巫女という誉れ名をもつ現神なのだ。しかしいくらただびとを越えた霊力をもつ現神だろうと、死は等しくその身におとずれる。呼月が他人に魂滑りをしているということは、呼月の体がもはや口もきけない状態だからにちがいあるまい。

 卯月は何かにせかされ、あえぐように言った。

「死んではなりませぬ、あなたが死んでしまっては、だれが国つ者をささえるのか。なりませぬ、けっして」

「凪の者よ、そなたらには両神山の明日香姫がおろうに。わたしは結局、高天原にあらがいながらも高天原に呑まれてしまった哀れなおんななのだ。・・・高天原をすてながらも、わたしの心にはつねに高天原があった。いとしい天照のすがたがあった」

 卯月は娘のくちびるがほほ笑みをたたえるのを、痺れたようになってみつめていた。やさしいほほ笑みは遠くをみつめ、卯月など見てはいなかった。

「天照がわたしを憎んでいるのはよくよく知っている。しかし、わたしがあのまま高天原におれただろうか。いとしい姉姫の死を闇見したわたしが、あのまま側におれようものか。姉姫の死は、むごい。喪す者は皇子がひとりきり、ひっそりと野に埋もれるのが、あのひとの死に様だ」
 卯月にはその情景が見えるような気がした。じっさい、見えていた。朽ち木のように横たわり冷たくなった老女には、うつくしさなどどこにもない。しなびた体にはしみが浮き出し、黒髪はつやをうしなって抜け落ちている。いつか御座で見たような、まさに天を光で足らしめる美麗さは、かけらもなかった。死の寝床のそばに立ち尽くし、しずかに見つめる皇子がひとりきり。皇子の顔に浮かぶのは悼みと哀れみだろうか、それとも安堵と喜びだろうか。卯月には皇子の後ろ姿しか見えず、表情もしるよしがなかった。

 それから、ひらめくように卯月の頭にべつの映像が浮かんだ。

 太陽をかくす月だった。真昼の空にまたたく星ぼしがあらわれ、卯月はあまりの奇異さ、恐ろしさに思わず声を上げそうになった。

「月が太陽をかくす。わたしはなんどもこの光景を夢に見た」

(おんきみが高天原をはなれた理由は、それだったのか)

 呼月の言っていることが真実だとしたら、なんということだろうか。月が太陽をかくすということはすなわち、呼月が天照に害をなすということではあるまいか。その夢をくりかえし見た呼月が、いたたまれなくなって高天原をでたというのである。

「しかし、その夢見が当たっていたかすらも、いまのわたしには分からぬのだ。わたしが天照のもとを離れたことで、ほんとうに天照が救われたのだろうか。いいや、救われなんだ。巫というものの持つ運命のふかさ、むごさを共に背負ってやることこそ、姉姫を救うことではなかったかと、いまさらになって思う」

 呼月は一声うめき、咳き込んで血の混じった唾を吐いた。

「いま、真由の悲鳴が聞こえた。あの子の悲鳴は、わたしに天照の叫びをおもいださせる。天照は、はじめからああではなかった。なにをもってやさしいと言うのかは知らぬが、わたしにとっては、ごくやさしい姉姫であった。・・・真由は天照に似ている。容姿ではなく、前向きな黒い瞳がにている。まっすぐであるゆえに、狂気にすらおちいりやすい娘だ。狂気をかわすすべも、逃げることを知らぬ」

 呼月はまっすぐに卯月をみつめた。

「凪の者よ、そなたにとって、凪のおとめを守るという一族の誓約はいまだ生きているか」

 ふたりの巫、つまりは凪のおとめと炎の御子を見守り、助けるのが凪の一族である者のさだめだった。高天原をはなれ武佐師に里を打ち立てた凪の一族は、あらぶる炎の末裔を監視する役割のほかに巫たちを助けるのが役目なのである。

「真由はわれら一族のたてまつる現人神である以上に、この卯月にとって守るべきおなごなのです」

 卯月はそう口にすると同時に、しっかりと真実にすることを決意していた。呼月はそれを聞くとつらい息の下からほほえんだ。

「神代のころ炎の神を鎮めた凪のおとめという方は、多くの仲間のちからを得てはじめて、炎の神の悲しみと怒りを鎮めえたと聞いておる。そなた、真由を助けてくれような? わたしが天照を狂気から救えなかったように、真由も救われぬのでは、あまりに辛い・・・」

 呼月は顔を歪め、ひときわ強く卯月の腕をつかんだ。

「途方もない霊力を身にもって生まれようと、心はただびとなのだ。つぶれてしまわぬように、壊れてしまわぬように、ただ大事にすればいいというわけでもない。むずかしいことだからこそ、そなたに頼みたい。頼まずにはいられぬのだ・・・」

 卯月はうなずいた。いま背負わされようとしているのが大変な荷物だということは分かっていた。だが、いまの卯月には荷の重さなど気にならないのだ。卯月の背負った荷物のことを言うならば、真由や八千穂の背負うのは大岩だろうか。霊力をもたないただびとであろうと真由の苦しみはわかった。一瞬でひとを滅ぼし去ることのできる霊力を身に持つ巫への惧れがあるのは疑う余地もない。しかし卯月は八千穂や真由を惧れ、憎む気にはなれないのだ。

「あなたの背負ってきたものを、受け取りましょう。あなたのかわりに運んで行きましょう、どこへなりとも。だから、おんきみよ、安らかにお眠りなさい。あなたを現世にひきとめるものは、もうなにもない」

 卯月はせかされるようにそう言った。呼月が魂滑りをした娘の体がもう限界にきている。卯月はそのときにわかに左の胸に痛みを感じた。それから、なぜかは知らないがあふれ出てくる涙をとめられなかった。胸にぽっかりと穴があき、なにかがそこから滑り出ていってしまうような心もとなさが卯月を泣かせたのだった。髪を結い上げていた葛のつるが前触れもなしにぷちりと切れ、彼女の背までとどく黒髪は音もなく扇のように肩のうえにこぼれた。

 髪どめのつるをあいたほうの手で拾い上げると、結び目のところから真っ二つにちぎれていた。不幸の先触れにちがいなかった。なににもまして、今朝に弟とお互いの無事を祈って結び合った髪であれば、卯月は彦田の身が無事ではないことを悟らずにはいられなかった。胸に走った痛みもまた、彦田が急所に受けた痛みではあるまいか。

「おんきみ、どうすればいい。わしはどこまであなたの荷を運んで行けばいいのか。わしひとりでは、やはり重すぎる、その荷は」

 卯月は低い声でささやいた。感情を殺しているために声はかすれ、喉は干上がったようにただ熱い。卯月はいまたくさんの死に囲まれている。いまさら弟の死ひとつで取り乱すことを愚かとは知りながらも、割り切れるわけがなかった。ただひとりの弟、肉親だ。高天原へ飛び出していったときにいちどは見限ったものの、やはり弟は弟、いとしいものなのだ。 卯月はすがるように呼月をみつめた。しかし呼月は目を綴じたまま、もはや二度と再びまぶたを開くことはなかった。

 

                    

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