かみなぎ33

 八千穂は気がつくと、ほのぐらい廊下に立っていた。いままで踏み締めていた直土の感触は板敷きのつめたいものに変わり、闇に慣れ切った瞳には、間隔を置いて下げられた鉄燈籠のこぼす、わずかな灯火でさえもまぶしく感じられる。・・・静かな夜は、王坐の奥の奥までも闇色にそめぬいていた。

 八千穂は、鼻につく饐えた匂いを深く呼吸することで、じぶんのいる場所が高天原は王坐なのだと知った。目の前にはかわせみの羽根を思わせる薄布が目隠しとして幾重にもさがっており、それは王坐でも巫女王の御座へつづく室の入り口なのだと八千穂は気づいていた。

(ぼくが望んだことだ)

 真由の制止をふりきってここへ来るのは、八千穂にとって簡単なことではなかった。真由が八千穂に与えてくれたのは、名前ばかりでなく、とほうもないやすらぎだった。真由からはなれることが寂しくないわけはない。けれど、真由のそばにいて彼女を傷つけてしまう予感のほうを、八千穂はまず先におそれたのだった。

 御座に踏み入りかねていた八千穂の耳にふと、やさしい歌声がきこえた。この時刻、御座は天照の寝所になる。歌声のぬしは母しかいないと考えると、八千穂は確かめてみたい気持ちにもせかされて、駆け込むようにして入り口の垂れ布をかきわけた。

 天照は御座の奥の簾のむこうに、毛衾や水鳥の羽をあつめ、うつくしくつくろった柔衾を打ち掛け、横になっていた。しかし眠れないのか身を丸めたまま、立て灯籠をひとつばかり屏風の脇にたてた薄暗いなかで、こっそりと歌っていた。

 子守歌だろうか、恋の歌だろうか。歌詞はわかりかねたが、母が歌をうたっているのだと思うと、ただふしぎであった。ときどき歌詞を忘れたりするらしく、とぎれがちだ。けれど耳に優しい歌声は、きっと子守歌であろうと思われた。

 八千穂はおそるおそる母に近づいた。八千穂にとって母である天照というひとは、じっさい母らしい仕草のようなもの・・・例えば優しい言葉や、ほほ笑みといったものを、なにひとつ八千穂に与えはしないひとだった。八千穂ばかりではない。天照は合わせて九人の子供たちに対するときは、いつであろうと上の空であり、母子のつながりさえも否定しかねなかった。

 天照は子供たちを憎んでいる。それは悲しい事実であった。天照の皇子たちはすべて父がちがう。それは高天原のいしずえを堅固なものにするために、天照が高天原にひざをおる有力な一族の首長たちと、共寝をくりかえし、そのすえに孕んだ皇子たちであったためだ。大巫女王の義務としての共寝であれば、子供たちを愛しめと言うほうが無理なのではあるまいか。

 八千穂はここまできて、まだためらっていた。声をかけられずにいた。八千穂は自問をした。いまだに母の拒絶をおそれているというのだろうか。天照の枕元にまで歩み寄っても、まだ八千穂は一言も物を言えないままだった。

「だれ」

 天照はやはり眠っておらず、八千穂が近づいていたのにも気がついていたらしい。背を向けたままそう言った。

「呼月?」

「大穴牟遅です、母うえ」

 小さくもしっかりとした声で八千穂は言った。すると天照は寝所からゆっくりおきあがり、八千穂をみつめた。それから小首をかしげる。おさない仕草だった。

「おかしなことを言うのね。そなたは須佐ノ男ではないの」

 八千穂は母の物言いに奇妙なものをかんじた。まるで少女のような、軽やかなしゃべりかただった。八千穂の知る、他者をつきはなすような冷たい口調ではなく、天照はごく柔らかな声で八千穂を招き寄せた。八千穂は天照がまぼろしを見ているのだと知っていたのかもしれない。天照は八千穂のほほに触れながらも、じっさい、八千穂など見てはいない。八千穂は身を固くして、母のつめたい手を受け入れていた。

「ぼくは・・・」

 ぼくは須佐ノ男ではない。八千穂はそう言いかけたが、黙った。母の慈愛に満ちた心からの微笑を見ているだけで、彼の言い出したかった言葉はむなしくも喉元で溶けてきえていった。ただ、大きなむなしさばかりが胸にあった。

(どうなるというのだろう)

 須佐ノ男ではない、じぶんはあなたの息子なのだ。そう言って細い肩を激しいまでに揺すぶろうと、きつく抱き締めようと、じっさいどうにもならないと八千穂は感じていた。

「とてもおそろしい夢をみたの。呼月がいなくなり、そなたもわたしの前から消えてしまう夢。呼月もそなたも泣いてはだめだとばかりわたしに言い置いて、消えてしまう」

 天照はふいに悲鳴を上げた。すすり泣きとともに身を震わせ、八千穂の胸に顔をうずめた。急なことに驚いたものの、八千穂は天照をだきしめ、拒絶されないのを知るとおそるおそるその背中をなでた。骨の浮き出た、痩せた背中であった。

「ぼくはあなたの側にいます」

 興奮していた天照は、八千穂がそうささやいてやるとようやく息をつき、八千穂の鼓動を聞こうとするように胸に顔を強く寄せ、甘やかにつぶやいた。

「安心したわ。そなたがいれば、鬼どもはこない。すべてわたしの寝所にふみこまず、帰ってゆくもの。あの気味のわるい鬼たち、毎夜わたしのもとに訪れて、わたしに恐ろしさばかりを置いてゆく。七人の鬼たちが、わたしを引き裂きにやってくる」

「ぼくが追い払いましょう」

 八千穂は母の匂いをかんじた。彼はいままで母にだきしめられた覚えも、こんなに近しく言葉をかわしたおぼえもない。けれど憧れのようなものはあった。母の匂いはやさしくもあまい匂いだという。

 けれど、母の漂わせている匂いは、死人のにおいだった。

 衰えることのない美しい容姿のうらに確かな老いの陰りを認め、八千穂はせかされるようにして天照をきつくだきしめた。この頼りなげなひとが、いますぐにでも現身をおいたまま黄泉路へ旅立ってしまいそうな気がしたのだ。すると天照は笑いながら痛いと言った。

「いつまでも子供だとばかり思っていたのに、姉を抱く腕がこんなに力づよいなんて。ふしぎね、ふしぎだわ。そなたはほんとうに、ちょっとまえまでは足も立たない赤子だったのに」

 泣くまいと八千穂はくちびるを強く噛んだ。天照は八千穂のむこうに須佐ノ男を見ている。天照の柔言は、息子ではなく須佐ノ男に向けられているものなのだ。天照は息子のことなど目の端にも捕らえてはいないのに、この言葉の数々は須佐ノ男のまぼろしに与えられたものなのに、なぜこんなにも心が潤びてしまうのか。

「男の子はいい。大きく育てば、故郷など捨ててしまえるもの。女の子はそんだわ、だってずっと故郷に縛られてしまうもの。わたし、男の子であればよかった。そなたのように自由に、どこへなりとも行ってしまえるもの。・・・ここは寂しいわ、歌っていなければ、闇の間をついて鬼どもがやってくる。だからちっとも眠れないし、とても恐ろしいの」

 天照はみじろぎをした。八千穂はあまりに強く彼女をだきしめすぎていたことに気づき、腕のちからをゆるめた。天照の瞳に八千穂はみえていない。天照にとってのやさしい思い出ばかりが、彼女の目の前に見えている。八千穂はそのことに、生まれてはじめて苛立ちを覚えた。

「そなたはわたしを置いて行ってしまうの、呼月のように。わたしを嫌って王坐をでてゆくの」

「だれがあなたを嫌うんです」

 八千穂は母のにおい、饐えた死のにおいを呼吸しながら、言った。

(ぼくはいつだって母うえのそばにいた。なのにどうしてこの人の孤独をわかってあげられなかったんだろう)

 天照を追い詰めたのは、孤独によりそう恐怖だったのか。恐怖が天照のうえにのしかかり、彼女を狂わせてしまったというのか。癒せないままの傷をもてあまし、天照は愛しい弟を手ずから殺したというのか。

「呼月はわたしを置いて行ってしまった。そなたも遠くへ行くと言うのだね。ひどい子、そなたはひどい子だわ」

 まったく会話がかみあわない。しかし八千穂はあまり頓着しなかった。影におびえ、七人の鬼に恐怖する母の心がなぐさめられるのならば、一晩中背を撫でつづけることも苦ではなかった。だが母の背をなでることはできても、本当の意味で彼女を安らかにしてやることなど無理なのだ。 腕の中にいるひとが寝息を立てはじめたときになって、八千穂はようやくしびれ出していた腕をとき、母の体を毛衾のうえにそっと寝かせた。柔衾をととのえると、八千穂は御座をぬけだした。入り口の垂れ布をかきわけると、廊下に灯されていたはずの灯火がもはや消えていることに彼は気づいた。灯火のいらない時刻なのだと知ると、八千穂は母の背を撫でていた時間の長さを思わずにはいなかった。冷たくなった死人を抱き締めて時を過ごしたような疲れが、体の底にたまっていた。母を抱いていることが苦しかったのではなく、やはり八千穂のことなど母の目の端にも見えていないのだと思い知ることがつらかった。

 どちらがまことの天照なのだろう。あくまで他人をよせつけず、すべてを敵と見なして息巻いている孤高のけもののような天照。孤独をきらい、いとしい人たちの面影をだきしめて生きる、頼りなげな天照。

(どちらも母うえだ)

 ふたつの人格はまったくかみ合わないようでいて、じつはとても近しいものではないのか。八千穂はいまこそそう考えることができた。天照は、人格を分けてしまうことでじぶんを守ろうとしたのではあるまいかと。

 そのときちょうど、廊下のむこうから二人の側近をひきいてやってくる男があった。

「大巫女王の御座に怖じもせずにふみいるとは、何者だ」

 話し声が漏れていたのだろうかと八千穂はあわてもせずに考えた。

「美栄彦」

 八千穂は目を細めて男の顔をみつめ、それが兄であることをみとめた。「大穴牟遅か、まさか」

 美栄彦は厠でばけものと出会ったような恐れと、ばけものを見る我が目を疑うかのような、引きつった笑い顔で八千穂を見た。それから八千穂の全身を食い入るようにみつめる。くたびれた土器色の上衣にみじかい袴という、一見して磯の若者のような質素ないでたちだったが、八千穂のまなざしには出会うもの全てのうわべばかりか、底の底までも見透かしてしまいそうな、澄み切った意志があった。美栄彦が目を疑ったのは、死んだはずの彼が王坐にいることは勿論だが、そのまなざしに籠められた、意志の力のつよさのせいでもあった。

 八千穂は強い瞳のまま、きっぱりと言った。

「母うえにご用なら、もう少しあとにしてほしい。いま、ようやく眠られたところだから」

 八千穂が言うのを聞き流し、美栄彦は首を振った。

「ばかな、おまえは死んだはずだ、山城の弓取りたちの放った矢群れに抱かれて」

 美栄彦が目を瞠り、やがてわずかの惧れを瞳ににじませて、くいいるようにこちらをみつめてくるのを見返すと、八千穂は苦笑をした。

「たしかにぼくはいちど死んだ。でも、まゆの霊力で甦りをした」

「甦り・・・巫の霊力でか」

 美栄彦は納得しかねるように八千穂に近づき、無遠慮に両肩をつかんで手荒くゆさぶった。美栄彦の表情はやはり亡霊を見るようなうさんくさげなものだった。

「美栄彦、ぼくは幻影ではない」

 八千穂はしずかに言い切った。美栄彦は側近たちを数歩さがらせると、八千穂と向かい合った。穴があくほど凝視してくる美栄彦のまなざしをうけとめながら、八千穂は言った。

「ぼくはあなたに言わねばならないことがある」

 美栄彦が八千穂を少し上から見下ろした。いつものそうするように美栄彦は八千穂からけして目をそらそうとはしなかった。・・・いつものように、禁忌から目を背けようとはしなかった。八千穂の存在は、言うまでもなく忌まれるべきものだったのである。美栄彦はその禁忌さえ忘れて、八千穂をみつめていた。

「呼日のことです」

 八千穂の身にながれる濃すぎる血は、呼日に継がれるはずだった巫の霊力を奪ってしまったように思われてならなかった。

 美栄彦がみずからの子、呼日を天孫としてまつりあげ、天照の次位を継ぐ者として期待をかけているのは周知のことだった。王坐のはずれにいた八千穂でさえも知っていることだ、美栄彦はその心積もりで我が子をみつめてきたにちがいない。

 呼日がしろき炎を見つけ得たのは、ごく最近のこと。八千穂が天照の令旨で因幡にでむき、真由と出会った夜のことだ。天照が勾玉のかがやきを王坐で感じ、そのすぐあとに呼日が神懸かりしたように激しく泣き出したのだという。天照はけして泣き止もうとしない呼日のことを聞きとめると、すぐさま御座にまねき、眼乾かしの清水をほどこしたあとに、呼日がしろき炎を見守ることができる巫であると認めたのだった。

 呼日の胸にある大蛇の勾玉は、巫であると認められた呼日に天照が与えたものなのだった。

「神薙ぐおのこは呼日ではない。ぼくだ」

 八千穂はゆっくりと言った。八千穂はふと、美栄彦がなぜこんなにもおびえた目でじぶんを見つめるのだろうと訝った。巫の霊力が我が身にあるとはいえ、八千穂はじぶんが強くなった気が一向にしないのだ。八千穂はやはりろくに物を知らない人間であり、やはりちっぽけなのだった。

「大穴牟遅、おまえは本当に大穴牟遅なのか」

 あえぐように美栄彦が問いかけた。八千穂はうなずいた。階段の上から見下すような居丈高な物言いを、兄がしようとしないことが彼はふしぎだった。

「ぼくは大穴牟遅じゃない」

 八千穂はじぶんの言い出していることに驚きながら、言いやめることはなかった。

「ぼくは八千穂だ。あなたがたの知っている大穴牟遅は、三輪山で死んだ。ぼくはもう、皇子ではない」

 真由に出会い、八千穂という名をもらうまでは、生きていても死んでいたような気がする。食べ物のほんとうの旨さも知らなかったし、笑うことも知らなかった。たとえ生活に不自由しまいと、王坐での生活がはたしてまことに八千穂に喜びを与えてくれただろうか。

(ここはぼくの故郷じゃない。ぼくの故郷は)

 八千穂にまことのよろこびを与えてくれたのはだれだ。笑うことを教えてくれたのはだれだ。苦しいまでのやるせなさを教えたのは、だれだ。 幻影の中にあって、母の心は八千穂に寄り添い、庇護をもとめてきたのだ。八千穂が母を受け入れようとしたとき、八千穂のこころに流れ込んできたのは、さまざまな悲しみや痛み、そして涯のない憎しみだった。どろどろとした憎しみは、櫛名田に、ひいては真由にいちずに向けられるものであり、母の執念が禍つ誓約を十七年たった今まで生かしつづけてきたこともそのとき知ったのだ。

 八千穂は母のすべてを受け入れる決意をした。しかし真由を傷つけようとする天照の意志だけはかたく拒み、押さえこもうとしたのだった。真由の側にいたままでは、いつその枷がちぎれとんでしまうかわからない。八千穂はそれを一番におそれたのだ。

「八千矛か、勇ましい名だ」

 美栄彦はかわいた声でつぶやいた。

「黄泉国からごくまれに立ち戻る者は、それだけでただびとならぬ霊力をえるという。おまえの霊力はいかほどのものか」

「だから、巫の霊力だと言っているのに」

 美栄彦はまったく信じようとしなかった。八千穂はそれ以上言いさとすのをやめた。信じようと信じまいと、たいして大事なことでもなかった。大事なのは、八千穂の身に宿った巫の霊力の正しい使い道であり、彼はそれを探すためにも王坐へやってきたのだから。

「ぼくは母うえのそばにいたい。あのひとは、もうすぐ死にます。だからせめて少しの間だけでも、そばにいて慰めてあげたい」

 美栄彦はもはや天照を亡き人のように言っている八千穂に驚いたようだったが、ちいさく頷いただけだった。

「死が近い、そうだ。大巫女王は、もはや長くはない。御座に座る気力さえ、おまえが死んだあとにはなくなってしまった。ただひとりの息子を亡くし、それがすこぶる身にこたえたのだろう」

 美栄彦も間違いなく天照の息子のひとりである。なのに彼はそう言うと、ひややかに笑って見せた。

「七人の鬼、彼女がそう言ったのを聞いたか」

 八千穂がうなずくと、美栄彦は囁くような小声で言った。まるで禁忌を口にするように。

「彼女の寝所に踏み入った、七人の首長たちのことさ。それしか考えられまい。母にいわせれば、おれもまた鬼の子だというわけだ。汚れた血の、うとましい忌み子だと」

 美栄彦の小声は、しかし八千穂の耳に食い込むかのように強くひびいた。天照が夜通しおびえていた七人の鬼。・・・美栄彦の言葉はまちがいないと思え、それと同時に八千穂は美栄彦のまなざしにたたえられた、憤りの色をはじめてみつけたのだった。

「八十神ともてはやされようと、母の慈しみすら知らない者が国をつつがなく治めることなどできようか」

 八千穂をみかえし、美栄彦はくちびるを引き結んだ。よけいなことを言ったことを悔やんでいるような、何かを振り切る口ぶりだった。

「よかろう、とどまるがいい。かがやかしい高天原の大巫女王が、老いさらばえた醜いむくろを晒すときになるまで、そばにいて添い寝でもしてやるがいい」

 八千穂は美栄彦の瞳にちいさな痛みをみつけていた。痛みは、孤独なのだ。美栄彦は親鳥からはなれた無力なヒナの目をしている。・・・そして、ちっぽけなヒナが八千穂にむけるまなざしは、嫉妬にもにた感情なのだった。

 八千穂が王坐にとどまった二月、じつに彼はおかしな立場にいた。王坐に戻りながらにして皇子を捨てたと言い、なにをするかといえば、日がな巫女王の御座で母と雑談をした。もっとも、天照は八千穂を須佐ノ男と思い込んでおり、八千穂もそれを知ったうえでの会話だったから、内容はきっちりかみあっていなかった。けれど八千穂はうまく調子をあわせていたし、天照はそのせいか楽しげに笑い、ときには少女のようにほほを染めて、だいじな思い出を八千穂に教えてくれた。

 母がつらい思い出をすべて忘れ去ることで、じぶんを守ろうとしていたことに八千穂は気づいていたし、それでも良いと思っていたのだった。須佐ノ男や櫛名田をほろぼしたことで、天照を責めることは無意味であり、禍つ誓約のことにおいてもまたしかり。須佐ノ男も彼女から逃れこそすれ、さいごまで彼女を心底憎むことはなかった。

「そなたは狩りに出ても、獲物をえるかわりに野の花ばかりを眺めていたという。男の子は獣を追ってしとめることこそ、いさおしなのだと矢野が口を酸っぱくしても、そなたは聞き入れなんだ」

 天照はやさしくつぶやいた。彼女は須佐ノ男に向かって話をしているのだ。そうはわかっていても、八千穂はどうしても心がほぐれてゆくのを止められそうになかった。

「ぼくは狩りをするよりも、野のけものが自由に走り回ったり、水をゆっくりと飲んだりする仕草を見ているほうが好きです。野の花だって、野にあるからこそきれいでしょう。切り花のようなはなやかな美しさはないけれど、ぼくは野の花のあかるい美しさのほうがずっと好きだ」

「また、そのようなことを言って、須佐は」

 天照は笑った。八千穂はそのてらいのない笑顔をみつめながら、母もまたうつくしいと思うのだった。少しばかり頬がこけてはいるものの、まなざしには生命のともしびがゆるやかに灯り、頬はすこし上気していた。八千穂はいままで、こんなにいきいきとした母を見たことがなく、それにもましてじぶんが母の話し相手になることなど思いもしなかった。(ぼくはなにを恐れていたんだろう。母うえは、たださびしさをもてあましていただけだったのに)

 八千穂は母とともに笑いながら、むなしさをどうすることもできないままにそう考えた。天照の死期は日を越すごとに近づいてくる。八千穂にはそれがよくわかっていた。母のまなざしには、はじけるばかりの生命のかがやき、生気がまるでない。八千穂にいま見えているのは、油皿にのこされたほんのちょっぴりの油滴が、音を立ててちいさくぽっと燃え立つときのような、最期のかがやきなのだ。

 八千穂は母をみつめた。すると小首をかしげた天照が、無邪気にほほえむのがわかった。

(このひとが、あの天照だなんて)

 この穏やかなひとが、あんなにも激しく憎んだり、怒ったりしたのだろうか。剣を手にして、感情のままに須佐ノ男に罵りの言葉をあびせたのだろうか。それほどまでに須佐ノ男に執着するいわれが、どこにあったというのだろう。八千穂はそこがふしぎでたまらなかった。

「須佐は遠慮というものを知らない。わたしの顔になにかついているの」 八千穂はあわてた。知らぬうちにみつめすぎてしまったらしい。

「おきれいだから、ついみとれてしまいました」

「ほほ、口がうまい。でもうれしい」

 天照は素直に喜んでいた。はしゃいでいる母をみていると、八千穂にはどうしても須佐ノ男をころしたのが母だとは思えなかった。

「須佐、いとしい子。そなたは何がほしい? そなたの欲しいものを言うがいい。わたしはそれをそなたに与えることができるのだから」

 天照は八千穂の頬に手をのばし、そっと触れた。八千穂は母の手にじぶんの手をかさるねと、首を振った。

「いりません、なにも」

 これいじょう何を望むというのだろう。八千穂が欲しかったもの、ずっと切望していたものは、今このとき彼の手の中にあるというのに。母の笑顔、やさしく頬をまさぐる手こそが、八千穂がずっと欲しがっていたものだった。

「欲のない子。欲の張ったのはいやらしいが、あまりにさっぱりしているのもあじけない。遠慮をせずにお言い、わたしを満足させておくれ」
 そこまで言われては、八千穂も考えた。天照は彼が何かを所望するまで引き下がらない気配だった。八千穂はふと、母の胸に揺れているちっぽけな勾玉に目が行った。ごく自然に八千穂はそれをみつけていたのだ。くすんだ色をしたヒスイの勾玉は、八千穂のまなざしにとまることを待っていたように、なにげなく母の胸にあった。

「その勾玉をいただけますか」

 天照の手によって三つに分けられた大蛇神の魂、三つの勾玉のうちのひとつだ。ほしいと強く望んだわけではなかったものの、八千穂の胸にゆれるそのうちのひとつが、母のものと強く呼び合っているのだけは感じられた。考えてみれば、もとはひとつの魂である。三つにわけられたままでは大蛇神も心もとないのではないか。

「よい、取らせよう」

 天照はすこし不満そうだった。

「ほんに欲のない子。こんなもので満足するとは」

 天照は勾玉にまつわる事柄もすべて忘れてしまったようだった。すさまじいまでの須佐ノ男との霊力のぶつけあいも、なにもかも。天照をさいなむ過去のできごとは、すべて彼女の意志でなきものにされているようだった。

 天照は目を伏せたままの八千穂の首に、勾玉を通したひもをかけた。うつくしい綾紐に通されたちっぽけな勾玉は、けれど八千穂の胸にあってほんのすこしだけ赤い光をはなった。天照はそのかがやきを不思議そうにみつめていたが、ややして顔をゆがめた。

「なにやら気味悪い、そのひかりは。はやくしまっておくれ」

      *        *         *

 八千穂は夢をみていた。王坐へ戻ってからというもの、毎晩のようにみるゆめであった。格別印象にのこる夢というわけではない。ただ、ひかりの一筋もささない真っ暗闇に捨て置かれ、そこで自分が大声をあげて叫んでいるという奇妙な夢だった。

 夢の中での八千穂はいつも、何かに追い立てられ、急かされるようにして大声を上げていた。何を叫んでいるのかは、目が覚めたあとではさっぱりおぼえていない。とても大事なことを言っているようなのに、すっきりと忘れてしまうのがはがゆくさえあった。

 ひとりきりの闇というのは、あまり愉快なものではないと八千穂は思った。出手母で真由と別れた夜、真由の暗闇にいたときは、こんなにさびしくはなかった。真由の暗闇は八千穂をみたし、こころに凪を与えてくれた。けれど、真由のこころの凪にただじっと、とどまっていることが八千穂にはできなかった。・・・みずから凪海をすてたのだ。

(ぼくはひとりを選んだのだ。ひとりがいやなくせに)

 八千穂は暗闇でいつもあてどもなくうろうろしている。泣きたいくらいの後悔をかかえながら、夢の中の八千穂はいつも腹をすかせており、のどもからからに干上がっていた。背筋がこごえるように寒く、歯はがちがちと音をさせている。足をおおう沓もなく、あたたかな襲もない。彼の青白いまでにこごえた素足はひたひたとさまよっている。踏み締めているのは氷だろうか、そう思われるくらい、底冷えのするつめたさだった。沼のうえに張った薄氷のうえを歩かされているような心もとなさがある。いつ割れてしまうか知れない薄氷のうえを、一足ひとあし歩いてゆくような、頼りなさばかりがある。

 そして、すべてにこらえ切れなくなったとき、八千穂は叫ぶのだ。

「母うえ!」「まゆ!」

 ふたつの叫びが重なった。やがて八千穂はじぶんのすぐ隣にだれかがいることに気づいた。・・・なにやらいつもの夢と様子がちがう。いつもならば、叫ぶだけ叫んで、声がかれはじめるときにようやく暁がおとずれ、目が覚める。それの繰り返しだった。べつの誰かがこの暗闇にいるという展開ははじめてだ。

 暗闇だけに相手の顔は見えないが、肌をぴりりと刺すような、はっきりとした存在感がある。八千穂をしずかに誰何をした。

「きみはだれ」

「ぼくかい?」

 誰かは笑いをにじませた声で言った。

「ぼくは八千穂」

 八千穂は我が耳をうたがった。ふたたび聞き直したものの、やはり答えは《八千穂》だった。《八千穂》はささやいた。

「ぼくは八千穂で、おまえは大穴牟遅」

「わけがわからない。それに、ここはどこ。出口をさがしているんだけど」

「出口だって。なにを言っているのさ、出口なんてもの、ありはしない。ここはおまえの魂の室だもの」「魂の室?」

 八千穂は聞いたこともない言葉に出会って、首を振った。

「聞いたこともない。王坐の倉庫のひとつ?」

 正直を言って、八千穂にはここがどこなのか見当もつかないのだった。灯火のひとつもない真っ暗闇といえば、幼いころ兄皇子のいたずらで塩籠め倉に閉じ込められたときのことしか思い浮かばない。あの時かんじた恐怖と空腹、凍えるばかりの寒さは、ここの様子とごく似通ったものがあった。

「倉庫だって」

 《八千穂》はいやな笑い方をした。八千穂の無知を笑うような、ばかにした笑いである。そもそも八千穂の耳に聞こえる声というのは、八千穂の声色にあざけりと冷笑を籠めたような、あからさまに敵意のあるものだった。

「倉庫なんかよりもずっと広いのが、魂の室だよ。人ならだれでも持っている。ここは大穴牟遅、おまえの室だよ」

「へえ」

 八千穂は素直に感心をした。魂というものがこんなに広い室だったなんて、思いもしなかった。ここが八千穂の室だというのなら、どうやって入り込んでしまったのだろう。入り口があるなら、出口があるはずだ。 そう言いかけて、八千穂は首を振った。大事なことを思い出したのだ。「ちがうよ、ぼくは八千穂だ。大穴牟遅じゃない」

 すると《八千穂》は声をあげて笑った。

「何を言うんだい。おまえは母うえを呼んだじゃないか。まゆよりも、母うえを選んだのがおまえだ。ぼくはまゆを選んでいた。ぼくのこころはいつだってまゆを呼んでいる。まゆだけを」

 八千穂は声のするほうを睨みつけた。とはいえ、向かい合っているはずの相手の声は、八千穂の耳の奥に染み込むかのような不思議なものであり、八千穂にはじっさい、相手がすぐ頭上にいるのか、それともはるか向こうにいるのか、それとも足のしたに踏まれているのか、見当もつかないのだ。気配はひとつばかりでなく、百も二百もあるように思われ、それでいて、とても近い場所に一つだけ、《八千穂》をつよくかんじる。「美栄彦に大穴牟遅を捨てたと言い切ったくせに、ならなぜおまえは王坐にとどまっているんだい。どうして母うえのそばにいたがるんだい、まるで乳を欲しがる子猫みたいに」

 《八千穂》は言葉で斬りつけるように八千穂をせせら嗤った。なぜこんなにも敵意をむきだしにするのだろうと八千穂はいぶかり、けれどすぐに平静ではいられなくなった。

「おまえは大穴牟遅だよ。須佐ノ男の影だということも知らずに、母うえに笑顔をむけてもらって素直に喜んでいる。はしゃいでいる。おまえは本当に、バカ穴牟遅だ」

 《八千穂》はつづけた。八千穂が睨もうと唸ろうと、まったく気にしない風だった。

「母うえは死ぬ。たくさんの傷を抱いたまま、狂気を抱いたまま死ぬんだ。母うえにはおまえなんか見えてはいないよ。それに癒してもらおうとも思っていない。だって、おまえは須佐ノ男の影なんだから。影にはなんのちからもない」

「ぼくを影だというのなら、きみだって影だ」

 八千穂は腹立ちを押さえ切れないまま、唸るように言った。姿が見えないのが卑怯に思えた。するとそんな八千穂のこころに答えるように、暗闇に《八千穂》のすがたが薄らぼんやりとうかんだ。白いかがやきをまとう彼は、まるで雪で織り上げた襲を引き被っているようだ。

 あまりに唐突で驚いたが、八千穂はべつな意味で驚愕をしたのだった。こちらを見つめているのは、まちがいなく自分だったのである。目見の当たり、笑みをたたえる口元。水鏡でうつしたような、ふたなりの瓜が顔を突き合わせているような奇妙を八千穂はおぼえた。

 《八千穂》の右手には一振りの剣が握られており、ちょうど勇ましく両手で構えるところだった。

 《八千穂》はじりじりと間合いをつめると、手にした剣をするどく振るった。八千穂は危ういところで剣をのがれると、いつしか我が手にも抜き身のつるぎが握られていることに気づいた。・・・これで何をしろというのか。問うまでもなく、答えはあきらかだった。耳元で《八千穂》の剣が風をおこす音がするどく響いた。八千穂が態勢をくずして地面にひざをつくと、すぐにも剣の切っ先がくりだされる。歯を食いしばって逃れるが、息をつくひまもくれぬままに次々と剣は振るわれる。こちらも剣を差し出すものの、食い止めるばかりで一太刀も打ち込めない。乾いた剣戟の音が、しずかに、ゆっくりと八千穂の体力をうばってゆく。「どうして、こんなことを」

 つらい息の下からあえぐように言うと、《八千穂》は軽やかに笑った。
「言ったでしょう、ぼくは八千穂だって。ぼくはおまえで、おまえはぼくなんだ。・・・ぼくはおまえを殺さなきゃならない。すべてまゆのためだよ。まゆに害なす大穴牟遅の部分を、さっぱり殺してしまうんだ」

 《八千穂》の口調は、少しもふざけてなどいなかった。どこまでも本気なのだということは、痛いくらいまじめなまなざしでわかった。

「母うえの禍つ誓約に犯された大穴牟遅の部分を殺せば、ぼくは帰れるんだよ。・・・そうさ、まゆのところにね」

「きみは・・・」

 八千穂は息を呑み、あえいだ。《八千穂》が口にするのは、また八千穂の願いでもあることに気づかされたせいだった。真由によりそいたい八千穂の心を、《八千穂》はにくいまでにはっきりと言い切るのだ。

「逃げてばかりでいいの?」

 八千穂の衣の胸元を、《八千穂》のふるう剣がかすった。かろうじて避けていようと、体中にこまかな傷がたくさんできている。いつまでも避けきれるものではない。腕が、胸が、腹が、少しづつ切り裂かれてゆく。流れ出すのは冷や汗だろうか、血だろうか。八千穂は顔をしかめ、後退しながら、もうろうとする頭で考えた。

「いつもおまえは逃げてばかりだ。考えることから逃げて、王坐では無知を知りながら、それをなんとかしようとすらしなかったのがおまえだ。そして、今度はまゆからも逃げたね。ぼくなら、逃げない。背を向けたりはしない。母うえの禍つ誓約がまゆを殺すというのなら、どんなことをしてでも誓約をころしてみせる」

 八千穂ははっとして《八千穂》をみつめた。彼の瞳にはひとかけらも偽りがない。偽りや、その場しのぎといったあいまいなものを何よりも憎む瞳なのだと、八千穂は気づいた。

「なんのために、そんな」

 八千穂は言い出さずにはいられなかった。

「なんのため?」

 いたく真剣に聞き返す《八千穂》の表情に、八千穂はたしかに自分を見たのだった。

「まゆはぼくに名をくれた。ぼくを皇子ではなく、ひとりの人間として、好きだと言ってくれた」

 八千穂は瞳を瞠った。《八千穂》は頓着せずにつづけた。

「ぼくはまゆと出会って、たくさんのことを知った。食い物の本当のうまさ、いただきます、ごちそうさま。それだけじゃない、笑い方だって。ぼくはほんとうにたくさんのものを得た。けれど、そのぶんたくさん失った。けものの声や渡り鳥の話す異国のできごと。草木の言い交わす秘密や、ほんとうにいろいろな、やさしいものを。

 でも、ぼくは後悔していない。ぼくはまゆをみつけた。ぼくが失って惜しいと思うのは、まゆだけだ。まゆがいないところに、ぼくの帰るところはない。そう思える」

 やがて八千穂は、《八千穂》がたしかにもうひとりの自分なのだと気づいた。母を呼んだのが大穴牟遅、真由を呼んだ存在が《八千穂》なのだと。《八千穂》はそう言いたいのだ。禍つ誓約を実行するのは、母をしたう大穴牟遅のこころだと。だから真由に害なす大穴牟遅の人格を、削ぎ取るようにして殺してしまうのだと。

「ぼくは母うえの禍つ誓約をころしてみせる。かけらも残さず消し去るには、大穴牟遅のこころが邪魔だ」

 八千穂はたしかに母を呼んだ。大声で母を呼んだのだ、まゆではなく。八千穂はそう思うときゅうに後ろ暗くなり、くちびるを噛んだ。《八千穂》の言うとおり、まさしくじぶんは大穴牟遅なのではないかという気がした。・・・皇子の地位と大穴牟遅という名を捨てるといいながらも、八千穂は母の存在をつよく求めている。母の笑顔、やさしく愛撫してくれる手を求めているのだ。それだけはどうあっても偽れなかった。

 けれど、八千穂の中に真由をこのましく思う気持ちがあることも、また確かなのだ。彼女へ感じる好ましさ、もはや好ましいの域をとうに超えてしまった気持ちが、たしかに自分のなかで息づいている。

 《八千穂》は、母を求める大穴牟遅を殺そうとしているのだ。そして真由のもとに帰ろうとしているのだ。しかし、八千穂はおめおめと殺される気などなかった。

「そうだ、剣を振るえ。母うえをしたう心とまゆをもとめる心は、同じ場所にはありえないんだ。どちらかが退かなくてはだめなんだ」

 《八千穂》は、剣をきり返すいとまもなく斬りつけてくる。八千穂はのけぞりながらも剣をかろうじて防いでいたが、ついによろけた。

「大穴牟遅、おまえも気づいているはずだよ。おまえは消えてしまったほうが良いということ。母うえはおまえを見てはいない。ほんとうにぼくを見つめてくれるのは、まゆだけだということ」

 八千穂はよろめきかけたが、転びはしなかった。態勢をたてなおした八千穂は、思い切って手にした剣をおおきく振り上げた。勢いよく前に踏み込むように飛び込むと、思いのほかうまくいき、強く振るい返すことができた。剣の腕はほぼ互角。ふたりはゆるやかに、しかし確かに殺気の籠められた剣をふるいあい、きりむすび、やがて八千穂の剣が《八千穂》のそれをはじいた。

 勢いのままに左胸を刺し貫こうとした八千穂は、しかし踏みとどまった。《八千穂》は立ち尽くしたまま、彼をひややかに嗤った。

「どうしたの、殺すんじゃないのかい。矛盾はひとつにはなれない、ぼくらはけして相いれないものなんだ。・・・痛みを恐れているの?」

「ちがう」

 八千穂はつるぎを力いっぱい遠くに放り投げた。剣は八千穂の意志を映すように、どこまでも飛んでいって、やがて暗闇の向こうに消え去った。息を吐いたのもつかのま、彼の耳にけたたましい笑い声がひびいた。八千穂をわらう、もうひとりの八千穂。人を食ったようなその笑い声にどうしようもなく腹は立ったが、憎しみなど湧きようがなかった。なにしろ相手は自分自身なのだから。

「臆病者」

 八千穂はさげすみの言葉にも顔色を変えなかった。ただまっすぐに《自分》をみつめた。

「そうだ。ぼくは臆病者だ。まゆから逃げたのは、ぼくのなかの大穴牟遅が恐ろしかったからだ。大穴牟遅がまゆを滅ぼすことを、おそれたせいだ」

 八千穂には目をそらさずにしっかりと自分を見つめ直す義務があるのだ。これはとても大事なことなのだ。

「ぼくは大穴牟遅をおそれる。大穴牟遅のなかに息づく、まゆにあだなす霊力をおそれずにはいられない」

 八千穂はしっかりとした口調でそう言い、《八千穂》をみつめた。もうひとりの自分をしっかりとみつめたのだ。《八千穂》はふしぎそうな表情をしていた。彼から放たれていた、むせかえるまでの殺気はとうにきえていた。八千穂が剣を投げ捨てたとき、もうひとりの八千穂もまた、剣を捨て去ったのだろうとおもえた。

「だから、殺してしまえばいいんだ」

 《八千穂》はしょうこりもなくそう言った。

「大穴牟遅がまゆをころす。母うえの禍つ誓約は、つよい予言でもあるんだ。大蛇神も言っていたでしょう、ぼくらが真由をころすと。だから、大穴牟遅をころしてしまえばいい。どこまでも母うえに寄り添うこころを。母うえの禍言をかなえようとする心を殺せばいい」

「だめだ」

 八千穂は聞き分けのない子供をしかるように《八千穂》をにらんだ。「大穴牟遅も八千穂も、どちらもぼくだ。どちらが欠けてしまっても、それはもうぼくではない」

 言いながらそう気づいて、八千穂は驚きとともに納得をした。どうして大穴牟遅を捨てることができようか。八千穂は大穴牟遅であり、また大穴牟遅は八千穂なのだから。大穴牟遅を否定することは、八千穂をも否定することになりはしないか。・・・それはとても愚かなことだ。

「ぼくは、なんてばかなんだ。ぼくもきみも、すっかり同じものなのに。母うえをしたう心も、まゆをもとめる心も、二つあわせてぼくという存在がいるんだ」

 天照を受け入れようとしたとき、悲しみや怒りとともに八千穂は憎しみも受け取った。憎しみは真由を滅ぼそうとする意志であり、けれど八千穂はその憎しみばかりは押さえ込もうと決意した。だからこそ、真由のもとを離れもしたのだ。逃げたのではないと、大声で言いたかった。 憎しみを覚えると同時に、八千穂はどうしてもゆずれない部分をみつけた。それが真由をいとしく思う気持ちなのだった。《八千穂》が真由をよび、《大穴牟遅》が母を呼ぶことは、あるいみあたりまえのように思えた。どちらも比べようがなく大事なのだ。

 八千穂はもうひとりの自分に近づいた。歩み寄って、手をつかんでひきよせた。《八千穂》はすると笑っていた。心底からのほほ笑みだった。
「きみも、わかってくれんだね」

 八千穂はおそるおそるたずねたが、聞くまでもないということは彼の笑顔をみれば解ることだった。彼はさっぱりとした、迷いを断ち切った者の表情をしていた。ややして八千穂は、じぶんもまたそんな笑顔をしているのだろうとふと思った。なぜなら、八千穂が真向かっていたのは、自分自身への不信感、嫌悪感だったのだから。《八千穂》のほほえみは、それらを解消した八千穂自身のほほ笑みでもあるはずなのだ。

 もうひとりの八千穂は言った。

「ぼくは王坐がきらいだ。ここには死のにおいが満ちている。はやく逃げ出してしまおうよ」

 八千穂は苦笑をかえした。もうひとりのじぶんの声は、やはりもうひとつの本音なのだ。八千穂はごく自然にそれを認めていた。

「だめだよ。まだすることがある。大穴牟遅として、母うえの子として」 
八千穂はちいさく吐息をついた。

「大穴牟遅はどうあっても捨てられない。捨てることは、逃げることだ。それこそじぶんを殺すことだ」

 《八千穂》はそれを聞くとうれしそうにほほ笑んだ。それから神妙な顔付きになって、ささやいた。

「でもね、なるたけ早くすませてほしいんだ。なんだか胸騒ぎがする、とてもいやな胸騒ぎなんだ」

 八千穂はうなずいた。たしかに、気のせいとは言い切れない焦りが胸底からわきあがり、どうあってもぐすぐすしてはいられない気になってくる。八千穂はなかば無意識のうちに《八千穂》をつよく我が身にひきよせた。もうひとりの八千穂は、引き寄せられるままに、八千穂にとけあった。

 ふたりはひとりになり、そして八千穂は夢から目覚めた。

          

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