かみなぎ34

 巫女王の御座でいつものように目覚めた八千穂は、ちいさな明かり取りの窓からさしこむ朝の日差しが三つ格子の影を落とし、くるぶしから裸の足までをあたためているのをみつけていた。きのうは壁に寄りかかったままうとうとし、そのまま眠り込んでしまったようだ。

 天照は食欲もわかないと言うと、二、三日前から運ばれるお膳にも口をつけずにいた。無くしてしまった何かを取り戻そうとするかのように八千穂と昔語りをかさね、(とはいえ、八千穂はほとんど聞き役にまわっていたのだが)夜遅くになっても簡単には寝付かなかった。八千穂は女童のように身を擦り寄せてくる母にとまどいながらも、ぎこちなく柔衾をひきかけてやり、そのうえでやさしく背をなで続けていたのである。
 彼女がすこやかな寝息をたてて眠ったあとも、八千穂はなにやら横になる気になれなかった。物思いをして壁にもたれているうちに、眠ってしまったにちがいない。・・・八千穂はこの二月というもの、ずっとこんな生活をつづけていた。王坐は母の御座で朝をむかえ、朝食を母とともにとる。美栄彦のはからいで、体が空腹を訴えるというようなことはなかった。朝食のあとは、八千穂を須佐ノ男と思い込んでいる天照を相手に、とりとめもない話をするのだ。

 天照が八千穂を須佐ノ男とまちがえるには、それなりの理由があった。いままで皇子として暮らしてきた八千穂は、皇子でありながら母巫女から隔離されていた。天照のほうも後ろ暗いことがあるせいか、それとも須佐ノ男の面影を八千穂に見るのがいたたまれなかったのか、八千穂を近くに招き寄せようともしなかった。

 八千穂は、父である須佐ノ男に生き写しであった。うりざね顔というには随分ほっそりとした顔付きに、柔らかくも強いまなざし。つねにうっすらとほほ笑みがたたえられている口元。それに八千穂はもはや童男ではなかった。童男と言うには丈高くなりすぎていたし、あてのはずれた物言いなどを差し引いても、彼を見て童男だと思う者はひとりたりともいないだろう。

 けれど、ただひとつ須佐ノ男とそぐわないのは、八千穂のまとう雰囲気だ。大地にあるもの・・・鳥のささやき声であったり、雲のたなびきであったり・・・を心から愛しむ気持ちが、八千穂を須佐ノ男よりもいくぶん頼りないものにみせていた。

 八千穂はかるい背伸びをしてから立ち上がった。きちんと横になって寝なかったせいか、体のふしぶしがこわばっていたが、軽く動けば気にならなくなる程度。大きなあくびをすると、まなじりに涙がにじんだ。
 簾ごしに母のすがたは見えないものの、一昨日あたりに美栄彦が驚いたように、天照のする表情は目に見えて変化してきていた。
笑顔はひどくおだやかなものになり、少女のような物言いと笑い顔は、八千穂ばかりではなくほかの人々にも向けられることが多くなっていた。具合をわるくしていた巫女王を見舞おうと、御座を訪れるひとびとは、彼女の変わりようにとまどい、奇妙なものでもみせられたように口をぱくぱくさせる。その顔がおもしろいと、天照ははじけるように明るく笑うのだ。
 たしかにそれは、奇妙なものであったろう。いままであらゆる人々に敵意のまなざしを向け、牙をむくようにして、周りをつねに緊張させていた彼女のことを考えれば、ゆるやかなほほ笑みをたたえ、しゃれのきいた物言いをし、あかるい笑い声をあげる天照大巫女王のすがたなど、奇異なものにちがいないのである。・・・それどころか、まるきり別人であった。

 王坐びとたちをおどろかせたのは、なにも天照だけに限ったことではなかった。むしろ天照を変えた原因、八千穂にこそ人々の関心はあったと言える。なにしろ八千穂はいちど死者として王坐に運び込まれ、彼を喪すもがりまでも行われたのだから、驚愕は道理であった。
王坐びとたちは八千穂などとうに死んだものとして扱っており、よもや生きてここに帰ることなどは夢にも思わなかったにちがいない。
天照の御座にいるのは、山城の弓取りたちに殺された、大穴牟遅の皇子の怨霊ではあるまいか、山城に復讐するために黄泉国から立ち戻ってきた亡霊ではあるまいか、などと、それこそ大騒ぎなのだった。

 八千穂は美栄彦が苦笑をまじえてそう言うのを聞いていたが、彼が言葉のうちに、王坐から疾く立ち去れという警告をふくませていたのも知っていた。八千穂はやはり王坐では邪魔者であり、この場所で八千穂を必要としている人間などひとりたりともいないのだと思い知った。

 母の向けてくれるあたたかな眼差しは、須佐ノ男の影としてのじぶんが受け取っているに過ぎないのだ。彼はゆうべ夢のなかで《八千穂》と真向かったときに、その事実を受け入れないわけにはいかなかったのである。

 けれど、もうどうでもよかった。須佐ノ男の影でもかまわなかった。八千穂のするべきことは、天照の死を看取ることにあるように思われたのである。激しくもさびしい生き方をした天照を、せめて死の床ではゆっくりと、思い煩うこともなく休ませてあげたい。だれに何と言われようと、皇子としての、大穴牟遅としての心がそう言ったせいだった。まだ立ち去るわけにはいかないのだ。

「母うえ」

 八千穂はあかるいひざしの差し込む御座の奥、簾をへだてて籠め室のようになっている母の寝所にふみこんだ。彼女の寝所は、寒々しいくらいになにもなかった。高天原を統べる大巫女王の御座であれば、風になびくように細工してある、うつくしい玉をつらねた簾や屏風、そういったものがひとつかふたつでもありそうなものなのに、さっぱりしすぎている。・・・それはたぶん、彼女の性癖というよりは、現世に執着する心のごく弱いことのあらわれなのかもしれない。

「母うえ?」

 八千穂はそろそろと呼んだ。母の体に触れ、その衰弱ぶりを認めてからというもの、毎朝のこの瞬間が八千穂をいつも緊張させた。もしや母はこのまま、寝所でつめたくなっているのではないか。そんな恐れとも期待ともつかない感情がこみあげ、八千穂を息苦しくさせるのがこの時であった。

 八千穂は簾を巻き上げ、さらに、巫女王の臥し所へつづく籠め室にかかる垂れ布をかきわけた。足音をたてるのもはばかられるような気がして、八千穂はそっと母に近づき、見おろした。まだ眠っているようだ。声をかけるものの、応えがない。幼いしぐさで眠たげに目をこすり、八千穂と目が合うと、はにかんで笑う彼女はそこにいなかった。

 頬にふれると、ひっそりと冷たい。・・・底冷えのするつめたさだ。肉のあたたかみはみな、魂とともに抜け出てしまったのだろうか。

 母は、死んでいた。

 八千穂は立ち尽くしたまま、涙も出ない瞳を、形ばかりとは知りながらも何度かまばたかせた。

 ひっそりとした笑みを浮かべたまま、母は息絶えていた。この世の汚辱などいっさい振り払い、いっさい感知しないような笑みであった。そうした彼女の笑顔はやはりうつくしく、どこまでも無垢。ひとの生命こそを、この世でもっともうつくしいものとして愛するひとが口元にのぼらせるような、やさしい笑みであった。

(いってしまわれた)

 八千穂はふと、母にとっては、死こそが解放だったのではあるまいかと思った。そしてたぶん、それは正しいのだ。八千穂はそう考えたときにはじめて、まぶたが熱くなった。母の死が痛いのではなく、そこまで追い詰められていた彼女の心を思って、泣きたかった。死よりもまだ生きることが辛いなんて、そんなことがあっていいのだろうか。彼女が向き合い、その末に心を壊してしまうほどのさだめ。それが真実だというのならば、生きることの意味がどこにあるというのか。

「だれか、そこにいるね」

 八千穂はじゅうぶん心を落ち着かせてから、静かに声をあげた。美栄彦が見張りの采女をつけていることはとうに知っていた。

「美栄彦を呼んでくれないか」

 采女がさせる衣擦れの音が、そろそろと廊下をすべりゆくのを聞きながら、八千穂はただ天照の骸をみおろしていた。今にも起き出しそうな、ただ眠っているとしか見えない女のむくろを、みつめていた。

「みまかられたか」

 しずかな声が八千穂の耳を思いのほか強く打った。八千穂はようやく天照からまなざしを外すと、うしろをふりかえった。すると苦い笑いを顔にたたえた美栄彦が、側近もなしで籠め室の垂れ布をかきわけてくるところだった。美栄彦はそのまま八千穂に天照の足をもつように言った。美栄彦は敷かれていた褥ごと天照の体をもちあげると、ひろびろとした御座に運んだ。天照の体はちいさいものの、存外にずっしりと重かった。「死とともに美しさも消え果てたか。むざんなものだ」

 美栄彦はしばし天照の死に顔をみつめていたが、つぶやくなり顔をそむけた。上掛けの衾を彼女の顔まで引き上げ、こちらからみえないようにする。・・・たしかに天照の容姿は変わり果てていた。玉のごとく輝いていた美しさはかけらも残さずに消え去り、ひからびた皮膚、しみとしわだらけの顔を八千穂のまえにさらしていた。はりを無くした肌には茶色の大きな染みが所々にうきだし、長い髪の毛は白鳥のまつげのように真っ白であった。黒いものが一本もみつけられない、見事なまでの白髪。 美栄彦はいたたまれなくなって顔を隠したのだろうが、力無く投げ出されたままの腕が、ふいと八千穂の目に入った。ふしくれた、骨の浮き出た腕は、まるで朽ち木であった。

 海を漂ってきた、腐った朽ち木。流されるままに流されて、行く先などわからない。八千穂にはそんなまぼろしが、ありありと頭に浮かんだ。
「流されて、流されたまま、どこへ行ってしまわれたんだろう」

 ぼんやりと独り言を言う八千穂をみつめると、美栄彦はめずらしくもほほえんだ。苦笑ではあったけれど、いつものような嘲るような笑いではなかった。

「深い海の底にでも行ったのではないか。このひとには、天空よりも黄泉国につづく海の方がふさわしい。人の死も、それにともなうすべての穢れも、すべて海に流される。流されて、はじめて無にかえる」

「だから死者を深海人というんだろうか」

 美栄彦はさあな、と言った。それから深く息をついた。

「もしやとは、思っていた。双子姫の死は、生まれ落ちる時が一緒であるだけに、死もまた同じときに訪れるのではあるまいかと」

 八千穂は顔をあげて、美栄彦をみつめた。美栄彦はうつろな瞳でむくろを眺めていた。

「どういうことです」

「高天原の軍を因幡に送った。一月も前のことだ。あと数日もたてば、気高を落としたとの報告の早馬が高天原につくだろう」

「軍!」

 八千穂はちいさく声をあげた。何のための軍だ、そう問おうとして、あまりにばかげた、間の抜けた質問だと八千穂は唇をきつくかんだ。

「真由を王坐に取り戻すための軍さ」

 美栄彦はほほ笑みを消し、つめたく言い捨てた。

「あなたは知っていたのか、まゆが気高にいるということ」

「手負いのけものはどこにかえる? ねぐらに違いあるまい」

 八千穂はにわかにめまいがした。それは激しい憤りのせいだった。

「彼女は王坐へは帰らない」

(けっして母うえのようにはさせたくない)

 それがすべてだった。驚くほど明快に、王坐が真由を手にするすえに生まれる、真由がこうむる不幸が八千穂にはありありと思い浮かんだ。
 美栄彦は真由を天照の代わりにしようとしているのだ!

「王坐はまゆを不幸にしかしない」

 八千穂は美栄彦をにらんだ。あくまで彼が真由をとりもどそうとするのなら、美栄彦はあきらかな敵であった。そう思うことに、ためらいは髪ひとすじも無かった。

「真由がどう思おうと、なんとしてでも連れ帰る。真由なしで高天原はなりたたぬ。現人神たる巫、真由がいるのだ」

「まゆは、あなたがたが厭うている土蜘蛛のむすめだ」

「土蜘蛛であろうとなかろうと、もはやそんなことはどうでもよい。わたしは彼女の霊力がほしい。それだけだ」

「わたさない」

 八千穂は唸った。美栄彦が驚いたように見つめ返してきた。彼は八千穂と真由につながりを見いだせないままであるに違いなかった。

「おまえがそのように何かに強く執着するのは、はじめて見た」

 言われてみれば、八千穂がこんなに譲れないとおもったことは、やはり初めてなのだった。八千穂は低い声で言った。

「まゆはぼくを受け入れてくれた。ぼくがぼくであることを教えてくれたのがまゆだ。まゆが不幸になると知っていて、彼女をほっておくことはぼくにはできない」

「惚れたのか?」

 美栄彦はぽつりと言い落とした。八千穂は自分でも驚くくらいぎくりとした。出手母で伊住にもたずねられたような気がしたが、その時はことばの意味すらあいまいだった。けれど、ゆうべの夢で、もうひとりの自分と向かい合ったとき、おぼろげながら八千穂は理解したのだった。 ほれるということは、誰よりもそば近くにいたい、見つめていたいと望むことではないか。たしかに八千穂はそれを望んでいる。けったいな真由のどじをもっと笑ってみたいし、教えてほしいことがまだまだ山ほどある。

 けれど、八千穂の願いは真由をほろぼすのだ。どういう経緯で禍つ誓約が実行されるかなんて知らない。なにしろ八千穂には真由を殺す気なんてどこを叩いてもでてこないし、母の禍言すら最近の八千穂はうたがいはじめていたのだから。

「ぼくはまゆを守りたい。その気持ちがほれるということなら、ぼくはまゆにほれている、たぶん」

 美栄彦はなかば無意識に親指の爪を噛んだ。

「大穴牟遅、おまえの霊力を高天原のために使う気はないか。そうする気があるなら、真由をおまえに与えよう。・・・おまえたち二人で呼日を支え、高天原の礎をより確かなものに・・・」

 美栄彦は八千穂のまなざしに、霊力あるものだけの持つただびと離れをした輝きを見て取ったのだった。それが美栄彦に八千穂の内部にあるという霊力の存在を信じさせ、また、惧れさせた。

 八千穂は首を横に振り、まなざしを伏せた。

「あなたは分かっていない。ぼくはまゆを守りたいんだ。まゆは高天原の持ち物ではない。まゆはまゆだ。ぼくはぼくだ。ぼくらの巫の霊力は、ぼくらの意志で、使う」

「巫、だと」

 息を呑む美栄彦を、八千穂はしずかに見つめ返した。すると美栄彦は八千穂の顔に何を見たのか、瞳を瞠り黙った。

「ぼくらはもうあなたがたの持ち物ではない。天照や須佐ノ男、それだけじゃない、これまでの巫たちが王坐に縛られつづけてきたように、王坐というしがらみはぼくらには必要ない。ぼくらに敵するものではない」 
八千穂はかがんで、天照のむくろを抱き上げた。さっきは二人がけでも重かったが、いまの八千穂には綿毛を抱いているようなかろやかさであった。八千穂は天照の、老いてなお気高い死に顔をみつめた。

「どこへ行かれる気だ」

 そのとき御座の垂れ布をかき分けてあらわれたのは、建御雷のすがただった。ふしくれた朽ち木のような手で白いあごひげを撫でていた老人は、後ずさる美栄彦を見て、それから天照を抱いた八千穂を、驚きとともに見上げた。八千穂はいつのまにか、老人の背などとうに追い抜いていた。いままでは丸まった背で地面ばかりをみつめるようにして歩いていた皇子だから、とんと気づかなかったが、毅然とした様子で建御雷をみつめるいまの八千穂のすがたは、まるきりの別人にみえていたのだった。建御雷は八千穂のすがたに須佐ノ男をみて、驚愕したのである。

「あなたがたが母うえのもがりをする気がないのは知っている。天照は高天原の太陽だ。その死は隠されねばならない」

 八千穂はかわいた唇を湿らせながら、言った。老人の前でなさけなく声が震えないように、慎重に言葉をつむいだ。

「よくご存じだ」

 建御雷はひきつれてきた側近を御座のそとに待たせたまま、八千穂に向かい合った。建御雷はおせじでも嘲りでもなく、素直に感心をした様子をみせた。

「ぼくはひとりきりでも母うえのもがりをする。そう決めた」

 八千穂はこみあげるものを押さえるように、静かに言った。

「大巫女王の代わりはどうなされるおつもりだ」

 建御雷が言うと、八千穂はあからさまな敵意をこめてにらんだ。老人が何を言いたいのか彼にはいたいくらいわかっていた。

「まゆは大巫女王になどならない。まゆはまゆだ。高天原の持ち物ではない」

「彼女がそう言ったのか、大穴牟遅の皇子よ」

 油断ならない瞳のまま、八千穂はうなずいた。

「王坐にあって、だれが幸福になれただろう。母うえも、須佐ノ男も、きずついたけもののように狩り手におびえ、おびえきったまま死んでしまった。あなたがたが彼らを追い詰めたんだ。庇護をするふりをして、背中から矢を射掛けるのがあなたがたのやり方だ」

「ずいぶんな言われようだ」

 建御雷は吐息をついた。八千穂はじぶんの眼差しがすこしも老人をおびえさせていないことに、腹立ちをかんじた。じぶんの堅い決意を分からせてやることができるのならば、霊力を使ってもかまわないような気さえしていた。

「巫女王を喪してのち、どうなさるおつもりだ。土蜘蛛どもに寝返るおつもりか。あなたにそれができるのか? 禍つ誓約をふりきってでも、あの娘とともに生きれるのか?」

 八千穂は声をなくした。建御雷が口にした言葉の数々は、八千穂の胸にどんな罵りよりも鋭い痛みをもたらした。建御雷は知っているのだ、天照が血を吐くような思いで口にした、禍つ誓約のことを。

「あの夜のことは、よくおぼえておる。巫女王は亡霊のようなありさまで、全身を血まみれにして帰り、赤子のようにわしの前でお泣きになった。そのときに禍つ誓約のことも彼女の口から語られ、知ったのだ」

 八千穂は顔をゆがめた。建御雷は、たたみこむように続けた。

「巫の霊力は、やはり大穴牟遅、あなたのうえにあったのだ。もっとも高天原の血が濃く、濁りのないあなたのうえに。大穴牟遅の皇子よ、さだめを受け入れなさるがいい。こうなれば、あなたには高天原の巫として生きるしか道はないのだ。国つ者を殺さずに牽制し、つつがなく高天原をおさめればよい。大王として」

「大王」

 八千穂はぼんやりとつぶやいた。老人はうなずく。

「あなたが黄泉国から持ち帰った霊力で、あなたの兄皇子がた、八十神たちをたばね、大国主として、または芦原の強男として高天原の御座にお座りなさい。そうすることが、巫として生まれたあなたのさだめなのだ。高天原をいや栄えさせることは、国つ者のむだな反抗を押さえることにもつながろう」

 八千穂は物も言えずに立ち尽くしていた。建御雷が甘言を言っているのはわかっていたのかもしれない。しかし、老人の言葉はとにかくもっともであるように聞こえたし、禍つ誓約を無きものにするためには、言うがままになるしかないとも思われたのだった。

(そうだとしても)

 八千穂はひっそりと唇をかみしめた。

「なにをためらっておられる。あなたが高天原のあるじ、大国主として高天原を継ぐというのなら、すべてが丸くおさまるというのに。大巫女王のもがりを執り行い、あらたな太陽としてあなたが高天原に君臨するのだ」

「そのような、大国主だと」

 美栄彦はあえいだ。

「大穴牟遅と呼日、どちらが神薙ぐおのこかもわからぬうちに」

 八千穂が大国主として高天原にとどまれば、呼日の御座などのぞむべくもないだろう。けれど、八千穂が御座をのぞむことは、みずからすすんで高天原のくぐつになることではないのか。

「・・・あなたがここから消えれば、即刻国つ者の同朋とみなす。次に会うときはわれらの敵だ。さあ、時間はない。禍つ誓約にしたがって、真由を我が手で殺すことを選ぶのか、それとも高天原の大王として彼女を見守るか。ふたつにひとつぞ」

 建御雷はたたみかけるように続けた。八千穂はごくりと喉をならす。
「ぼくは」

 八千穂は乾ききったくちびるを湿らせ、ひととき天照のむくろをみつめた。天照にとって、死こそが解放だった。王坐は彼女をしばり、それこそ死ぬまで、見えない檻のなかに籠めつづけたのだ。建御雷は、八千穂に大王になれと言う。それがいちばん良いことなのだと。しかし、八千穂にはどうしてもそうは思えなかった。

「ぼくは・・・」

 大王だなんていくらなんでも途方もないこと。けれど、正直を言って八千穂はどうすればいいのかなどわからなかった。八千穂はすぐさま真由のところに帰りたかった。けれど、ここから逃げることは最良の選択だと思い切れないのもまた事実なのだ。真由のそばで暮らすことによって彼女におよぶ不幸を、八千穂はいまだにおそれていた。

「よもや、高天原とのつながりを断ち切れるとお思いではあるまいな。ここはあなたの故郷ぞ。あなたの産土、母なる土地ぞ」

 建御雷はささやくように、しわがれた声で言った。けれど八千穂はあきらかな違和感を感じ、そのおかげでようやく言葉を口からおしだすことができた。

「ぼくの故郷はここじゃない」

 八千穂はつぶやいた。追い詰められた童男の声で、八千穂は言った。
「ぼくを生かしながらも殺していたこの場所を故郷だと言うのなら、ぼくは捨ててしまっても、惜しくはない」

 八千穂はここから立ち去ることを願った。八千穂を戸惑わせ、すぐさま答えを引き出そうとする老人を前にして、八千穂が口にしていることは、ただひとつの真実だった。

「ぼくの故郷は、ぼくを心底から呼んでくれるひとのもとにある」

 天照のむくろを抱いた八千穂のすがたは、空気にうっすらと溶けはじめていた。向こうが透けて見えるほどに薄まった八千穂の体に手を伸ばしながら、建御雷はすがりつくように言い放った。

「高天原に敵することぞ、あだなすことぞ!」

 いつもは焦ることなど知らなげに、まるですましている建御雷のこんな慌てふためいた声を聞くのは、八千穂にとってはじめてでさえあった。 ふしぎなことに、そう思うと、いかめしくも威厳のあった老人の姿が、たちまちのうちに、枯木が衣をつけているようなこっけいな様に見えるからふしぎであった。

 じぶんはどうしてこんなに建御雷をおそれていたのだろう。目の前にいるのは、八千穂の脅威とはなりえない存在だというのに。

 八千穂は少しのあいだ建御雷をみつめた。老人の目のなかにあるのは、八千穂に寄せられたおびえであった。

「かまわない」

 八千穂はいまこそはっきりと言い切ると、御座からきえた。

       *        *        *

 八千穂が綴じていたまぶたをそっと開いたとき、まず彼の視界にはいったのは、褪せはじめた深森の緑であった。それから耳には清い水脈のながれ、そして鳥のささやきがひそみ寄ってくる。

「三輪なる神の山・・・」

 八千穂はいままで足の裏にかんじていた、冷たいまでの板敷きの床の感触が、かさかさした緑の苔にかわっていても、もはや驚きはしなかった。なにしろじぶんが望んだことである。

 母を喪すところとして、八千穂は三輪山を選んだのだった。三輪山ははじけるまでの鮮やかな緑の夏衣をぬぎすてて、ほんのりと紅葉の秋衣を裾野にみせはじめていた。

 空を飛ぶ鳥はおのおの翼に金色のひかりを受け、まるで黄ばみはじめた緑の葉の数々が、散り急いでいるように見える。八千穂は三輪の山中を飛び回り、母の死のしとねにふさわしい場所をみつけた。いちしの群れ生えた原野である。なだらかに続く一面の原野に、真っ赤な花をつけた細長いくきの植物がしずかに風にゆれていた。

 いちしは彼岸花ともいう。八千穂は花群れのなかに母を横たえると、ふとそんなことを思い出した。死者が旅立つのが彼岸であり、残される者、まだ生きおれと言われる者は此岸にたちつくし、死者を見送らねばならない。

「これでよかったんだ」

 八千穂はじぶんに言い聞かせるように、低くつぶやいた。

 死をも隠される場所が王坐だというのなら、そこから母を解き放ち、せめて大地に喪すことだけでもしたかった。それに八千穂にできたことは、これだけだったのだ。何か彼女のためにひとつでもいいから与えたい、慰めになりたいと思ったときにはもう、彼女は此岸と彼岸のあいだをながれる大川に、青白い足先を浸したときだったのにちがいないのだ。 八千穂はいちしのなかに埋もれた母のむくろを、少しのあいだじっとみつめた。母を喪すのは、いちしの花々だ。風に揺れる赤い花ばなは、やさしい子守歌を歌うだろう。夜になれば、八千の星ぼしが彼女をなぐさめ、けっして寂しがらせないだろう・・・。

 八千穂は母をみつめていた。ほんとうに短い間だったのかもしれないし、一刻もの長い時間みつめつづけたような気もしていた。とにかく、八千穂を呼ぶ声が聞こえないままであったなら、おそらく彼は、むくろからずっと目を離さないままだったろう。

「山つ神?」

 八千穂はためらった。呼び声はごく低い風のうなり声にも似ており、すぐにははっきりとわかりかねたのだ。耳をよくこらし、八千穂はようやく確かなものを聞き分けた。すると髪の毛がうしろに強く引っ張られるような、引き寄せようとする力をいやがおうにも感じる。八千穂がどこかに身を飛ばすときには、きまって奇妙なこころもとなさがあった。じぶんがどこにいるのかさえ見失いそうになり、足元もさだまらず気の遠くなる恐怖がある。

 霊力をひきだし使うことを覚えた八千穂は、霊力に対する惧れもまた引き受けていた。巫の霊力は、惧れを忘れて振るうことなどできない。惧れをなくしてしまったら・・・頭のてっぺんから爪の先まで、どっぷりと霊力に頼り切ってしまうこと。それをおいて他に、恐ろしいことなどなかった。しょうじき、巫の霊力をもちいたならば出来ないことなどない。ひとを殺すことも生かすことも、砕けたはなし高天原を滅ぼしさることも、繁栄させることも、八千穂の思惑ひとつなのだと、彼は気づいていた。

(あってはならない霊力だ。あってはならない存在だ)

 八千穂は悲しくそう思った。巫の生きる余地がどこにあるというのだろう、高天原の思惑が渦巻く中で。巫の霊力を身に受けて生まれた須佐ノ男や天照が、霊力をもちいてはたして幸福でありえたのだろうか。

(何のための霊力なんだろう、なんのための存在なんだろう)

 巫の霊力はひとをけして幸福になどしない。霊力があたえるのは、途方もない絶望だけではないのか。霊力を覚えた今では、それにたよらずにいろというほうが無理なのだ。げんに八千穂は、前に一歩足を踏み出すだけでも息を殺し、ともすれば膚を食い破って爆発しそうな霊力を、おさえこんでいるような状態なのである。

 引き寄せられるままに、けれど慎重に足を前に踏み出すと、いちしの咲き乱れた原野はもうどこにもなかった。八千穂はもはやうしろを振り向かず、八千穂を呼ぶ者のもとに出向いたのだった。

「山つ神?」

 八千穂が居たのは、すずやかにひろがる湖面をまぢかにした岸辺であった。ふるくも太い杉の巨木が、何本も湖に根までつかっており、薄霧のたちこめるずっと奥の方まで、ぼんやりと、直立した青白いすがたを八千穂にみせていた。しずかに生命をたたえてきた水面は、わずかの波立ちすらもない。

 八千穂はこの場所に見覚えがあった。三輪山の山つ神である赤い猪を見た場所だ。湖面にぽっかりと、忘れ去られたようにあった苔むした巌。山つ神たる赤い毛並みの猪が巌に立ち、こちらをじっとみつめている幻影が八千穂の眼先をかすめ、それからすぐさま淡くも消え去った。

「どこですか、山つ神」

 八千穂は声を上げた。八千穂の少しかすれた声を、おもしろいまでに木霊はゆさぶり、どこですか、どこですか、と繰り返した。八千穂はがっかりせずにはいなかった。山つ神に呼ばれたと思ったのは、ただの勘違いだったのだろうか。

 それでも山つ神のすがたを捜して、八千穂はぐるりと首をめぐらせた。けれど静かな水面をたたえたうつくしい神の庭は、あるじもないままに静まりかえっていた。八千穂は肩を落とし、なにげなく足元にまなざしをおとした。すると、いつのまに近づいていたのか、八千穂の足にまとわりつく小さな黒いかたまりが目に入った。それが生き物なのだと知ると、八千穂はやにわに両手でつかみあげ、ほほえんだ。

「なんだろう、泥だらけでわからない。きみはなんていうけものなの」 今まで鳴き声は聞こえていたものの、けもののすがたをちっとも見かけなかったせいもあり、このちいさなけものが薮中から出てきてくれた嬉しさは、ひとしおであった。けものは八千穂がかるがると抱き上げられるほどちいさく、けれどずっしりと肉の重みが手に伝わってきた。脈打つ鼓動はせわしなく、四本のみじかい足をばたつかせている。つぶらな瞳はさねかずらの真っ赤な実をおもわせるほどに赤い。

 八千穂はけものと瞳を見合わせると、おどろきに声を詰まらせた。赤い瞳、それは神威を宿す存在の有する色彩ではなかったか。

「もしかして、きみ、山つ神かい」

 おそるおそる八千穂はたずねた。だとしたら、今じぶんはとても恐れ多いことをしているにちがいなかった。八千穂はたしかに呼ばれたのだ。来てみたはいいものの、八千穂のまえにいるのは足をばたばたさせた泥まみれのちいさなけものだけである。八千穂はごくりと喉をならした。《はなせ》

 八千穂はぎょっとして、思わず手を放した。泥のかたまりは、赤みを帯びはじめた苔のしとねに転がり落ち、痛んだまりのように弾むことなく、ぽてり、ところがった。

《すぐに放すばかがあるか》

 どう考えても、この泥まみれのけものが山つ神であるようだ。八千穂はやはり信じがたくて、もう一度けものに手をのばした。みじかい足で蹴りつけられるが、ひづめも柔らかいせいで痛みはまるでない。八千穂は水辺に近づき、腰をかがめた。それから腕まくりもしないままに、けものを掴んだ腕ごと水につっこみ、毛皮にこびりついた泥をこすり落とす。それはちょうど、毛羽だった古いまりをごしごし洗っているような作業であった。けものはいつまでも抗っていたが、最後にはあきらめたのか、八千穂の手のなかでじっとしていた。

 かたくこびりついていた泥を洗い落とすごとに、その下に隠れていた深紅の毛並みがあらわれる。水に濡れていようと、深紅は燃え立つ炎をおもわせた。八千穂は目を細めた。ぐったりとして小さくはあったが、八千穂の手のなかにおさまっていたのは、たしかに赤い猪であった。

「山つ神、どうしてこんなに小さくなったんです」

 もう随分前のように感じられるけれど、三輪山へ祝りの狩りのためにやって来たのは、夏の中頃であったろうか。そのとき八千穂にまみえた山つ神は、牛ほどの大きさの巨大な猪であった。目の前の赤子猪とでは、くらべるほうが間違っている気さえする。

 山つ神は濡れそぼった体をはげしく震わせ、水滴をはじきとばした。八千穂は赤子猪の視点にあわせて身をかがめていたから、水のしぶきを顔にまともに受けて、思わず目をつぶった。

《ばかもの。大きいものがそうそう縮むものか》

 たわむれなのか、それとも本気で怒っているのか、山つ神は八千穂の親指の爪ほどのひづめで、八千穂のひたいを蹴飛ばした。

《わしはたしかに、山つ神よ。ヤチホ、そなたの知りおる山つ神よ。まえの体は、もはや地に還った。そなたらは着古した衣を取り替えるな。おおむね、それと同じだと思えばよい》

「ぼくを、呼びましたね」

 八千穂は蹴られたひたいをさすりながらたずねた。

《呼びはしたが、しかし呼んではおらぬとも言える》

「わけがわかりません」

 八千穂は首をひねった。

《つまり、そなたのほうがわしを呼んだのだ。わしはだから、そなたの呼び声に応じて母の寝床からでてきたのだ。乳を口にふくむのをやめるのは、まこと難儀であった》

「ぼくが呼んだ?」

 八千穂は言いかけたが、山つ神の言葉のつづきを聞くと、じつに奇妙なものを感じておどろいた。山つ神が母だの乳だのいうのが奇妙でならなかったのである。

《なにを驚くか。わしとて山つ神とはいえ、すべからく母を必要とする。老いた体をぬぎすてたのち、よみがえる体は、母の胞衣なくしてはありえぬのだ。同じように、母の乳なくして、わしは命をつなぐことすらできぬ》

「山つ神でも母はいるのですか」

 八千穂はつぶやいた。小さな山つ神は以前のような迫力はまるでなかったが、見つめているとこちらの気持ちが張り詰めるような、揺るぎない威厳は衰えてはいなかった。八千穂はすがるような気持ちで山つ神をみつめた。

「母はいとしいものですか。・・・ぼくは、あのひとの死を悼めない。あのひとを哀れだとは思うのに、どうしても愛しめない。ぼくは間違っているんでしょうか」

 山つ神はじっと八千穂の話を聞いていた。くすんだ桜色をした鼻を鳴らし、それから山つ神は、八千穂の頭にじかに響く声でもって言った。
《哀れみは愛しさではない。同情もまた共感ではない。そなたはそれを分かっているようだな。・・・それでよいのではないか、この世の皆人をいとしめるわけがないのだから。たとえ母であろうと、父であろうと、血のつながりこそが真実、愛しめるものではないということだ》

「では、いとしいとはどういうことです」

 八千穂はつづけた。

「なにをもっていとしいと言うのですか」

《それを知れば、そなたは迷いを断ち切れるというのか》

 山つ神はしずかな物言いをしているのに、八千穂はぎくりとした。

「わかりません」

《頼りないことを言う。そなたはもはや、無力なおのこではない。神代から受け継がれてきた現人神の霊力、神薙の霊力をわがものとして振るえるおのこではないか。なにを迷うのだ》

「霊力を手にしたからこそ、迷うんです。どうしたらいいのか、見当もつかない」

 八千穂は首をふった。それからふと、山つ神の言ったことはただしいのかも知れないと思い直した。八千穂は出口の見えない迷路にのまれ、必死に手探りをしている。迷路の中は真っ暗闇で、八千穂は地面にはいつくばっているのだ。まるで、出口につづく糸のひとすじでも捜そうとするように。そして八千穂がようやくつまんだ糸のかたはしを、山つ神がくわえているのだと八千穂は考えていた。

「ぼくが霊力をもって生まれた理由をしりたい。ぼくとまゆが出会ったのは、本当に母うえの歪んだ願いのたまものでしかなかったのかを、確かめたい。高天原の軍が因幡に向かったと聞きました。もう遅い、何もかも間に合わない」

 八千穂はあえいだ。

「ぼくはただの臆病者だったんだろうか、まゆのためと言いながら、ぼくが彼女から離れなければ、里は滅びからまぬがれたはずなのに」

 八千穂の声は悔いにまみれていた。美栄彦が気高に軍を向けたと知って、すぐに身を飛ばす気になれなかったのは、正直、いまさらという気持ちがあったからだった。いまさら気高に行って、何になるだろう。真由の身を案じていながら動き出せないのは、八千穂の後ろ暗さから生まれた気後れのせいなのかもしれなかった。八千穂はやはり、逃げたのだ。真由は一緒に歩いて行こう、生きていこうと言ってくれたのに。

《滅びとは、なにをもって滅びというのだ、ヤチホよ》

 山つ神は反対にたずねた。八千穂は顔をあげ、つぶやくように掠れ声で言った。

「すべてが壊れてしまうことです。積み重ねてきた生活が、あたためてきた命が、すべて消えてしまうことです。なにもかもが」

《よく聞くのだ、ヤチホ》
山つ神は八千穂に近寄った。
「はい」

 八千穂はよるべなく手をのばし、若い猪の毛並みにふれて、それからそっと抱き上げた。午前の太陽のはなつ輝きが、木の間から漏れ落ちてくる。八千穂は、木漏れ日があたためた苔床のうえに座り込み、山つ神を間近でみつめた。乾きはじめた山つ神の毛並みは、陽のひかりをてらてらと照り返して、八千穂の目にもまぶしかった。

《滅びは終わりだと考えているのだな、そなたは。だとすれば、ヤチホよ。そなたのもつ神薙の霊力もまた、すべての事物に終わりを与える霊力だと。そうだな?》

 八千穂はうなずいた。八千穂がおびえるのは、内なるけものの存在、すなわち須佐ノ男が押さえ込んでいた巫の霊力のことである。八千穂は自信がなかった。霊力を押さえ込む自信がまるでないのだ。自信がなければ、須佐ノ男が天照のもとから逃げ出したように、真由のもとから去るしかないではないか。

《滅びとは、おしまいではない。そもそも、終わりなど存在しないのだ。ある部分で断ち切られたように見えようと、真実、断絶することなどない。わかるか?》

「わかりません」

 困ったように首を横に振る八千穂を、ごくまぢかで見つめながら、山つ神は鼻を鳴らした。

《うむ。では、言い方を変えよう。そなたはなぜここにおるのだ? なぜヤチホとして、巫としてここにおるのだ。よいか、そなたは父と母の存在があって、はじめてここに居ることができる。では、父と母をこの世に産み落としたのはだれだ。それ、途方もない時間、途方もない数のひとびとが、そなたの存在にかかわっている。それらのただひとりが欠けても、そなたはこの世にないのだ。・・・受け継がれるものの意味を知るがいい、それを知り得たならば、まことの終わりなど存在しないとわかるだろう》

「受け継がれるもの?」

《血の流れは、とおい神代から受け継がれるものだ。そなたが知らぬことを、わしは知っている。そなたの先祖、そなたの血脈のはじまりを。そなたは、ある日突然この世にうまれたのではない。ひとは皆、なにか為すべきことがあるからこそ生まれ落ちもするのだ。長い時間をかけて、生まれては死に、死んではまた、生まれる》

 八千穂は眉根をしぼった。

《そなたが霊力をもって生まれた意味を、よく考えるがいい。そなたは破壊するために生まれたおのこではない。それに、まことの滅びなど、もとからありえぬのだ。とおい神代の昔から、そなたを生かし続けている血脈をみよ。度重なる戦においてもまだ、色あせる事なく、絶える事なく、神の血脈は今も息づいているではないか》

「わかりません。こんな恐ろしい霊力がいまだにこの世にあるということが。なんの思惑があって、巫なんてものがいるのかがわからない」

《この世には、ひとつたりとも無意味なことなどない。ただ、神代のころの、おろかしい殺し合いをふたたび繰り返すためにそなたらは生まれたのではない。わしはそう思いたいのだ》

 母の腹を焼き焦がして生まれ出た炎の御子は、荒ぶる気性ゆえに父神にうとまれた。父神と御子は戦を重ねたものの決着はつかず、緑の美しかった島つ国は、御子の炎によって死の土地となりはてた。父神はついには御子の暴虐をとどめることができず、ひとりの楚々たるうるわしい娘を与えた。それを凪のおとめと言う。神話のなかのできごとだ。

 炎の御子は凪のおとめによってあらぶる炎をおさえ、彼らが夫婦となって高天原がはじまった。・・・山つ神は途方もないむかしの出来事を語っていたが、ふしぎなことに、八千穂にはそれほど違和感はなかった。

 炎の御子は父に憎まれ、母を知らない孤独のひとだ。父を知らず母の腕もまた知らなかった八千穂にとって、炎の御子の感じたであろう孤独は、ごく近かったせいもあるだろう。

「ぼくだって・・・」

 ともあれ、真由と殺し合うのがさだめだというなら、八千穂は彼女に会おうなどとは到底おもえない。けれど、八千穂のこころが真由を呼ぶのはどうあっても事実なのだ。炎の御子が凪のおとめを求めたように、八千穂の心もまた真由のてらいない笑顔をほしがっている。

「ぼくだって、そう思いたい。ぼくらは殺し合うために生まれたのではないと。でも、どうしてもぼくは恐れずにはいられない。心底おそろしいんだ、禍つ誓約が、母うえの禍言が」

 山つ神は深紅の瞳で八千穂をみつめた。

《恐れるなとは言わぬ。だが、忘れてはならぬことも、またあるのだ。そなたは何をどうしたいのだ。このままぼんやりとしておるのが、そなたの望みか》

「・・・いいえ」おどろくほどすんなりと、八千穂は言い切っていた。

「会いたいひとが、います。この二月、離れていてやっとわかったことがあります。ぼくはみつけました、ぼくの帰る場所、ぼくの故郷を。禍つ誓約をねじ伏せてでも、ぼくは、まゆのそばにいたい」

《それなら話は早い。なにを迷うことがあろう。そなたにわしが教えるべきことなど、もとからなにもないのだ。でも、などと言うでない。けれど、も言うな。なにを迷う、そなたははじめから、何もかも知っているというのに。あとはそこへ一足、踏み出すばかりだというのに》

「でも」いいかけて、八千穂は黙った。頭を振り、ようやく微笑をすると、八千穂は山つ神のちいさなひたいに口づけをした。感謝と敬愛の気持ちは、言葉にするまでがもどかしかった。

《そなたがなすべきことは、そなたが為さんと望むこと。そなたはじぶんが思うほど、弱くはない。そなたはじぶんの強かさを信じねばならぬ》
 八千穂は微笑をはっきりとした笑顔にかえた。もう迷うことはなかった。禍つ誓約だろうとなんだろうと、八千穂にはそれを上回る強い決意がある。それを信じればいい。悩むだけ悩んでも、結局は簡単なことなのだ。禍つ誓約ではなく、真由とともにそれを打ち砕くことを考えればいい。・・・なにか言わねばならないと気持ちがせかされ、八千穂は思いつくままを口にしていた。

「ぼくはたしかに、あなたを呼びました。あなたの雄々しいすがたを。なんといえばいいかわからないけれど、ありがとう、山つ神」

 目の前の赤子猪は、どうあっても雄々しいとは言いかねた。けれど八千穂にとって、体が大きかろうが小さかろうが、三輪山の山つ神の威厳はひしひしと身に迫るものがあった。八千穂は敬意をあらわしたかった。
《ありがとうか》

 山つ神はどことなくうれしそうに繰り返した。

                            

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