かみなぎ35

 伊住は鼻につく生暖かな血のにおいと、息をするのもままならないくらいに体を圧迫する重みで気がついた。顔がちょうど直土にほおずりしているような格好で、しかもひたいからまぶたにかけて、なにかぬめるもので濡れていた。すぐにはじぶんのおかれた状況がわからないままだったが、こわばった手を動かしてどうにか目元をぬぐった伊住は、あたりの様子に目をむいた。

 ここが気高の里だというのだろうか。住居の数々はことごとく焼き払われ、黒い煙をくすぶらせていた。彼が目を瞠ったのは、里内にころがるおびただしい骸の山のせいだ。夕暮れの中、高天原の軍がふみけちらした里内は、燠火のくすぶりを残したばかり。ありし日の里の様子は、黒い炭の塊を見るだけでは思い浮かべることすらできない。

 ただひとつ火をまぬがれた里長の御館では、兵たちが酒宴でも開いているのだろう。ここまで漏れ出してくる笑い声が、伊住にはひどく遠く思われた。

 だが、これはどうあっても夢ではないのだ。伊住の目の前の惨状、血の匂いとあまたの骸。伊住の目のはしに、夕暮れのあかあかしいひかりに染まった、男の死に顔がとびこんできた。真っ赤な血のしずくは夕日の残り火よりもまだ赤く、それは男のまなじりにあって、涙のようにみえた。瞑目することもなく見開かれた瞳に最後にうつったのは、どんな恐ろしげなものだったのか。恐怖に顔を引きつらせたままの死に顔に、伊住は思わず込み上げるものがあった。

 伊住は身を起こしかけた。けれどそれは骨の折れる作業だった。身に澱みのようにたまった疲れは振り払いがたく、それにこちらに倒れかかるようにして折り重なったいくつもの骸を、伊住はいちいちどけて抜け出さねばならなかった。

 どうして無事かなど、知る訳がなかった。死にたくはなかったが、高天原の軍に刃向かって生き残れるとも思っていなかったのである。とにかく今は、このつめたい骸の山々から抜け出したかった。それが全て。 おれはまだ生きている。死んでたまるか。男の死に顔をみつめたとき、胸底から突き上げてきたのがその思いだった。おれは生きているんだ、死んでたまるか! 伊住は骸の山をかき分けるように抜け出すと、後ろも振り向かずに走りだしていた。

 頭がどうにかなっていたのは間違いない。あざやかなまでの赤い夕日の色彩と、血の深紅がまじりあい、金さびた血の匂いもあいまって、伊住の頭をおかしくしていたのだ。恐怖に憑かれて、どこをどう走ったかなど、まるでおぼえていない。ただがむしゃらに走った。見とがめられることをおそれて見通しのいい平地ではなく、薮の濃い場所を選んでいたことだけは確かだったが、彼がようやく足を止めたのは、繁みのわずか数歩むこうに、人の気配を感じたためだった。

 伊住は身をかがめ、息を殺した。気配はひとつばかり。高天原の兵だろうか。一人きりならば、あちらが武器を持っていようと勝つ自信はじゅうぶんにあった。伊住は薄闇が広がりはじめた雑木林のなか、茂みに片膝をつき、こちらに近づいてくる人影を凝視した。顔まではわかりかねた。ただ彼の頭の中には、相手を縊り殺してでも逃げることしかなかった。・・・どこに逃げればいいかなど、わからない。ただ、死と滅びの満ちるこの場所から、一足でもいいから遠ざかりたかった。里の滅びを悲しむよりもまず先に、伊住を内部から喰いつくそうとする恐怖ばかりがあった。

 太った化け物のように大きく広がった絶望と恐怖は、しかし伊住を悲しみへは走らせなかった。伊住はただ生きることへの執念に動かされ、そして、今こちらに近づいてこようとする人影をぶち殺してでも助かりたいと思っているのだ。殺しをすることにためらいはなかった。ためらうには遅すぎるくらい、伊住は殺しすぎていた。

 目にもあざやかな血しぶきを上げながら死んでいった人々、顔に浮かぶのは苦悶の表情でしかない。死のほんの一瞬前に、憎悪をまなざしに籠めて剣を切り結び、相手をにらみつけ、やはり憎悪を抱いたまま死んでゆく。飛び来る矢の数々。「背なががら空きだぞ、おまえさん」伊住のかわりにあまたの矢を受けた、彦田のかすれ声が耳によみがえった。伊住はきつくきつく目をとじた。

「だれぞ、そこにおるのは」

 伊住は聞こえてきたするどい誰何の声と同時に、茂みから立ち上がり、駆け出していた。すぐ近くまで近づいていた相手の胸元をつかみ寄せ、息もつかせず足払いして直土に押し付けた。大声を上げられることを恐れて口をふさぎ、肩をきつく押さえ付ける。全身の重みでもって相手の動きを押さえ込んでしまうと、伊住は存外にやわらかい体に触れたことに驚いた。どう考えても屈強な兵のものとは思えなかった。

 ごく間近で顔を突き合わせると、それはだれあろう、真由とともに神社へ逃れたはずの、卯月であった。卯月の黒目がちの瞳は驚きに瞠られていた。伊住はすぐさま、彼女の口元にあてがっていた自分の手をはなした。やがて卯月の方も伊住に気が付いたらしい。瞳を細め、笑いらしきものを唇にうかべた。

「生きておったのか、おまえさま」

「あんたこそ」

 伊住は卯月のうえからどき、卯月もよろよろと立ち上がった。ふたりはそれきり物も言わぬままに、しばらくお互いの瞳のなかに真実をさぐりあった。伊住は彦田の死を言いかねていたし、卯月のほうもヤチホコをおいたまま、いずこかへ駈けさってしまった真由のことを、言い出しかねていた。しかし卯月は伊住の表情から事実を読み取り、伊住も卯月の首にまとわりつく埴色の毛並みのテンを見て、真由の不在を知ったのだった。

「あんた・・・」

 やがて伊住はかすれた声で、一言つぶやいた。いままで彼の上にのしかかっていた恐怖、その感情に麻痺していた伊住の心。そこに卯月のふと浮かべた涙が、彼の心にも潤びた、何かあたたかなものを蘇らせたせいだった。

「言わずともよい、あの子が死んだのはわかっておる」

 卯月はあえぐように言った。

「おまえさまの顔を見て、あらためてあの子の死が思われた。・・・おお、わかっておる。だから言わずともよい、いいや、言うな」

 卯月は無造作に、男物の衣の袖で目元を拭った。それから伊住に背を向けて歩きだした。

「あの子にはよくよく言い聞かせておった。高天原でうけた恩は、けして忘れてはならんと。おまえさまが危険にさらされたなら、我が身を盾としてでもおまえさまを守れと」

 伊住は彼女の背をみつめながら、立ち尽くしていた。卯月はどこからか胸に白斑のある黒馬をひっぱってくると、伊住に向き直った。

「おまえさまが生きおるということは、あの子は恩をりっぱに返したのだな? そうだな、伊住よ」

「恩だと、ばかな」伊住は唸った。

「彦田がいつおれに借りを作ったっていうんだよ」

 彦田の生命をひきかえにするほどの大きな借りを、伊住は作った覚えなどなかった。

「高天原にて、あの子はおまえさまに命をすくわれた」

 高天原で途方に暮れていた彦田を、伊住の住居に引き取ったことを卯月は言いたいようだったが、伊住にしてみれば、そんなちっぽけなことを恩とは取られたくはなかった。それに、彦田を伊住の住居につれてきたのは、青田彦だ。伊住が助けたわけではない。

 伊住は顔をしかめた。もしや伊住のほうが彦田に返しきれない借りを作ってしまったのではないか。伊住はどうあっても、彦田が無駄死にしたとしか思えなかった。生命が助かったのはたしかにありがたい。だが彦田を犠牲にしてまで助かってよかったおのれだとも、言い切れない。
「これから、どうする気だよ」

 伊住は目からあふれ出すものを止めようと、何度も深呼吸する卯月を眺めながら、慎重に言った。どんなに勇ましい物言いをしていようとも、泣いている卯月はやはり女いがいの何物でもなかった。

「わからん。しかし、このままじっとはしておれまい」

 卯月は少しの間考えるそぶりを見せた。

「わしは武佐師へ帰ろうと思う。真由の行方も捜しようがないし、とにかく、明日香のおんきみに、なにがしかの助力をもらう。わしが今するべきことは、それしかあるまい。・・・おまえさまはどうする」

 伊住は決まりが悪くなって頭をかいた。卯月の潤びた目元からどうしてもまなざしが離せないのを、さすがに不まじめだと思ったのだ。

「高天原へ行っても、おれのいるところはもうないしな。あんたと一緒に武佐師へ行くことにするよ」

「そうか」

 卯月はうれしそうにつぶやいた。彼女の目には、もう涙はなかった。       *       *       *

 陸路で武佐師に向かうとなると、馬足でも三月はかるくかかるだろう。秋ばかりか冬まで越してしまう。そんなにのんびりとした旅をしている暇はなかったし、不審者を振り分けるべく、検問がところどころに敷かれているというはなしである。

「まったく、冗談じゃない」

 伊住はついにため息をついた。陸路では武佐師へ着くのが遅すぎるということで、海路を選んで若狭の湊に着いたはいいものの、ふたりを乗せてくれる船がまったく見つからないのだ。

 そもそも若狭の湊というのは、五つある湊の総称であり、ふたりが足を止めたのは栗田の湊というちっぽけな船着き場である。もう三日もこうして湊にくすぶっているというのに、北へ向かう船はそのことごとくが、不審な人間が船に乗ることを承知しなかった。勘合札のない者を船に乗せると、高天原の咎めがあるとかで、水夫以外をけっして乗せないのである。何度、いらいらしながら船を見送ったことか。

 ここまで乗ってきた黒馬は、とうに売ってしまった。はじめの頃は船に乗ることがこんなに難しいなんて考えていなかったのだから、しようがないと言えばそれまでだが、あれほどの良い馬を焦って売ったことを伊住は少し後悔していた。

 栗田の湊は、小汚いが、ほどほどに栄えた場所だった。風の起こす水面の波立ちにしたがって、舳先をつらねた大小の船がおだやかに揺れている。海へとつづく大きな川ぶちは船で埋まり、その両岸に民家やらほったて小屋やらが、ひしめくごとく打ち建っていた。ごちゃごちゃしているものの、水辺が近いせいか不思議と雑然とした様子が気にならない。杉の皮を葺いた質素な小屋の数々では、湊に船を乗り付けてきた客たち相手に羹や握り飯を売っており、潮の匂いにまじって、空腹を刺激するあたたかな匂いがただよってくる。

 この湊は異国からの船よりも、北の土地から流れてくる高天原への貢ぎや、市庭での物々交換のために運ばれてくる品が着く場所として栄えているらしい。見上げるまでの高さの帆柱を、悠々と立てた何槽もの船がひしめき合う中、北へ戻る船があるにちがいない。なのに指をくわえていなければならないとは。

 特定の印判の押された合札なしでは、船の方でも客を乗せない。しかも客は、すべからく検問を通ったうえでなくては、合札も手にすることができないときている。・・・陸路がだめならば海路でという考えが、あさはかだったのだろうか。ともあれ、このまま足止めがつづくことは間違いない。合札なしに船に乗るには、船主に袖の下でもつかませて、頭を柔らかくするほか、いい方法はなさそうだった。

 伊住が居るのは、栗田の湊に集まる客を相手に、打ち建つ旅籠の数々のうち、めっぽうふるびた旅籠の二階である。吹き込む潮風が住居を痛ませるのは、気高もここも同じらしい。板敷きの床は身動きするたびにぎしぎしと軋み、いつ踏み抜くだろうと思うと、おちおち寝返りも打てない。

 二階だけに眺めはいいので、手持ちぶさたに寝転がり、揚げ窓からからりとのぞく外の景色、午後のひかりを反射している水面をぼんやり眺めていたときだった。

「伊住どの」伊住は耳をたたいた懐かしい声にとびおきると、階下につづく狭い階段をみつめた。大きな体をすくませるようにして階段をのぼってくるのは、よくよく見慣れた、親しい男だった。

「青田彦」伊住は息を呑んだ。

 青田彦は高天原で別れたときのままの、針樅の暗いみどりの衣袴を身につけており、そしてそれは、彼の気に入りであったことを伊住は思い返していた。青田彦は物も言えない伊住に、さびしそうな微笑をみせた。「わたしはあなたに謝らねばならない。わたしの伊住どのへの裏切りを」「裏切りだと」伊住は思わず声を上げた。彼は青田彦の口から、なによりもその言葉を聞きたくはなかったのである。

「伊住どのや、阿多流どのへのあきらかな裏切りだ。隼背の言っていたとおり、因幡への使いを殺したことも、隠れ家の場所を漏らしたのも、すべて、わたしが高天原に命じられてやったことなのだ」

 青田彦は言い切った。

「高天原の犬として」

 伊住は目を堅くつぶった。やはり何より聞きたくない言葉であった。
「嘘だ」伊住は首を横に振った。「おまえはそんな男じゃない」

 青田彦は伊住が心底から聞きたい弁解の言葉を、一言たりともしゃべろうとはしなかった。伊住は心を決めると、きつく綴じていた目を開けた。すると目の前には、もはや青田彦の大きな体はなかった。

 思わず目をこする伊住のまえには、青ざめた彦田の顔が浮かんでいた。「伊住・・・」

 青白い死人の顔が、ささやいた。奇妙だ、おそろしい。当然起こるべきそんな気持ちがまるでないのは、頭のどこかでこれは夢なのだとわかっていたせいだろう。これは、夢だ。ただ、このうえなく残酷な夢だった。 いくら見ないふりをしようと、忘れようとつとめても、夢は伊住の逃れようのないところまで追ってきて、こうして事実をつきつけるのだ。
「おれはまだ、死にたくはなかったのに」

 彦田は口元から真っ赤な血の流れをみせながら、そう言う。乾いた唇が低くささやくのを、伊住はしびれたようになって見つめていた。

「伊住よ、おまえさんの代わりに死ぬなど、おれはごめんだったのに」

 気高の里が高天原の軍によって踏みしだかれた日。軍を食い止めようと打ち立てた、にわかごしらえの柵が破られ、おのおの白銀の剣や槍を手にした兵たちが、里に流れ込んできた。たちまち里内は喧噪にまみれ、伊住も槍ひとつで三人の兵を相手にしていたときのことだ。

 伊住のうしろで、ふいにうめき声がした。後ろを振り向くと、伊住よりもわずかに背の低い若者の後ろ姿があった。

「彦・・・」言いかけて、伊住はその次の言葉をなくした。背までの豊かな髪を三つ編みに結ったすがたは、たしかに彦田であった。伊住は瞳を瞠り、落胆のあえぎとも絶望ともつかない息を吐いた。

 彦田の身には、五本もの矢群れが突き立っていたのだ。

「背なががらあきだぞ、おまえさん」

 伊住は悲鳴をあげて、やみくもに幻影から逃げた。里人たちの骸の山、里の滅びから、背を向けて逃げ出したときのように。伊住はいつものっぴきならないところまで追い詰められ、そして、なにもかもに我慢ならなくなったときに、ようやく悲鳴をあげることが許される。だれに許されるかなど、知らなかった。彦田か、それとも自分自身か。

 まどろむたびに襲う悪夢は、伊住の全身にからみつき、どうあっても離れる気はないようだ。彼が目を覚ましたのは、階下から響いてくる女の声が、伊住の眠りを打ち破ってくれたおかげだった。

「にいさん、おおい、にいさん」

 呼び声からして、旅籠の女将にちがいない。

「おおい、いまだお眠りかい」

 勢いよく身を起こすと、窓から見える外は、もう暗闇ばかり。水面のきらめきや、船の揺れるさまが、すっかり夜のとばりに覆いつくされてしまう時刻だった。

 伊住は女将の呼び声に、何度目かでようやく声を返すと、少しのあいだ両手で顔をおおい、深く息をついた。立ち上がると、いつの間にか打ちかけられていた薄い麻衾が足元に落ちた。女将がかけてくれたものだろう。踏むとぎしぎし音をさせる狭い階段をおりると、ほのあかい松明のあかりが伊住の目を細めさせた。

「おそいお目覚めだぁねえ」

 階下に降りてきた伊住を見ると、中年の女将は気持ち良く笑った。

「飯の時間だよ。お連れさんはあんたをおまちかねだ」

 昼間は磯漁にでかける息子夫婦と三人で営む旅籠は、民家に少しばかり手を加えたものだから、広いものではない。一階には古びてささくれのできている古びた卓子が三つあり、そのうち入り口に近い卓子に突っ伏すようにして、藍染めの野良着と、枯竹色の帯をしめた姿の、飲んだくれた女があった。卯月である。男物の衣袴は人目につくということで、てきとうな民家をあたって取り替えたのだった。

 くたびれた野良着だとはいえ、その下に隠れたすんなりとした姿態と、白い肌はけして見劣りするものではない。それどころか、酒でか松明の灯火でか、ほのあかく染まった首筋や、野良着から伸びたひざのあたりが、目を瞠るくらいなまめかしい。

 しかしそちらよりも先に伊住が目を離せなかったのは、卓子のうえに散らばった土器のたぐいや、からになった酒瓶の多さ。それにもまして、卯月と同じ卓子によっかかり、赤い顔をしてうめいている四人ほどの男たちである。鉢巻を前縛りにし、素膚に刺し子の長着という格好を見れば、船の水夫であろうと察しはついた。

「おまえさまら、もうおしまいか」

 卯月は上機嫌でそう言うと、酒の満たされた土器をぐいっとあおった。「つまらん。なにが国一番の上戸か」

 やけにすずやかな笑い声が旅籠にこだまする時になると、伊住はさすがに呆れた。昼間からどこかへでかけたきりだと思えば、男を連れこんで酒盛りとは。

「ばかか、あんたは。なにを遊んでいるんだよ」

 身をのけぞらせて、頭を後ろに倒れるくらいにまで反らせると、卯月は伊住のすがたをみつけて笑った。

「遊ぶだと? これはまた、ひどい言われよう」

「あのなあ」

 伊住はむっとして、声をあげた。卯月が連れ込んだ男たちは皆、前後の不覚もなく酔っ払っていた。すっからかんになった酒瓶の数を見ても、水を呑むようにいくつも呷ったにちがいない。

「あんたは何を考えてるんだ。今は、こんなことをしてるときじゃないだろう」

 卯月は瞳をぱちぱちさせた。それから、酒に酔っているとは思えない厳しい物言いをするのだ。

「では、おまえさまのように、日がな横になっておれば活路は見えるのか。わしには、そうは思えん」

 伊住は言葉につまり、ただ卯月を睨んだ。

「にいさん、夕餉はどうなさる」

 険悪な雰囲気に、見かねた女将が割って入った。しかし伊住は作り笑いをする気にはなれなかった。酔っ払い相手に本気で怒るなんて、ばからしいことに違いあるまい。だが伊住はこのところ、まるで心の余裕が持てないでいた。それに、酒に酔う気にもなれない。

「今夜はよしとくよ」

 伊住は片手をあげて女将にふってみせると、卯月に近づいた。

 彼女のように酔ってしまえれば、よほど楽なのかもしれない。だが、酔いどれて苦しい事実を一時でも忘れようとすることに、伊住は反感を感じずにはいなかった。

「来なよ、酔っ払い」

 そんなおかしな操だてを、彼女に言外に嗤われているような気がしてならなかった。伊住は強い口調で言い捨てた。

「おや、歩けぬ」

「しようがないおんなだな、あんたは。ほら、おれによっ掛かりなよ」 苦みを言葉尻にこめて卯月の肩に手をかけると、卯月は思いのほか素直に伊住にもたれかかってきた。

「すまん。ちいと、飲み過ぎたようだ」

「なにが、ちいと、だい。どういう経緯であいつらと飲んでいたかは聞かないが、あんまり感心しないね」

 卯月は笑いを漏らした。

「もしや、やきもちか。あの、焼いてもふくれるだけで、ちいとも旨くないという。犬も食わぬとな、まこと、どのような食い物であろうか」
「あんたらしくないぜ、まったく」

 伊住はあきれた。

「酔っ払いめ、飲める量をきっちりわきまえな」

 女将の目にはふたりの様子がむつまじく映ったのだろう。

「にいさんが夕餉をとらんと言うなら、油をタダにしとこうか」

 女将が気を利かせて二階に灯火をいれてくれると、薄暗い階段もどうにか、酔いどれ女が一緒でものぼれそうだった。

「ここの旅籠の女将をみなよ。気が利いて、そのうえ美人ときてる。あんたもおれの嫁なら、どんなときでもしゃんとして立っていなよ。頼むから」
「すまん。おまえさまにはいつも迷惑をかける」

 伊住の物言いに、女将はますます気を良くした。

「まあまあ、若い夫婦のケンカは見苦しいもんさ。にいさんも、こんなきれいな嫁御をもらっておいて、ちっちゃな咎めで目くじら立てることもないだろう」

 気持ち良く笑うと、卓子につっぷしている水夫たちに目を走らせ、女将はつけくわえた。

「酒代はこいつらにつけとくよ。いいんだよ、気にするこたぁない。こいつら近ごろ、お上から言い渡された、なんだったっけ、ああ、あの合札とかいうのをあこぎに使って、もうけてんだから」

「どういうことだい」

 伊住はふとたずねた。女将は、ちらばった酒瓶を片付けながら、いやね、と言った。

「検問で合札をもらわなきゃ、船には乗れないっていうお上のお触れを、うまうまと儲け口にしているのが吾代っていやな男さ。こいつらの親方」
「へえ」伊住は赤い顔をした卯月をながめた。

「吾代は、お上から渡された印判を持ってるからね、自分の好き勝手に合札をこしらえることができるのさ」

「袖の下なしには、合札を出さない・・・か」

 女将は同情を込めて伊住をみつめた。

「そのとおりさ。にいさんたちも、だからこんなちっぽけな湊で足止めを食らってるんだろ。腹立ちは分かるが、嫁御を怒っちゃならないよ。この三日というものあんたらを近くで見ていたが、二階で寝っ転がっていたあんたの代わりに、自分らを乗せてくれる船を探してたのは、嫁御のほうだろう」

 今夜だって、と言いかけた女将は、考え直したのか黙った。伊住は決まりが悪くなって卯月の背中に腕を回すと、薄暗い階段をきしませた。
「怒っちゃならない。やさしくしてやりなよ」

 ふたりを夫婦と信じ込んだ旅籠の女将は、心底から気遣わしげに言った。伊住は満足に返答も返さないまま卯月を二階にはこぶと、できるだけやさしく寝床にねかせた。寝床とは言え、板敷きの床にムシロを一枚敷いたきりの粗末なものだ。

 肩まで麻衾を引きかけてやると、卯月のかぼそい声がした。

「怒っておるのか、おまえさま」

 女将とのやりとりを聞いていたのだろう。伊住はちっぽけな油皿の灯火をみつめていた。

「怒っているかだと。ああ、そうさ」

 苦り切ったため息をつきながら、伊住は卯月のほうを見た。卯月はかるく目をとじて横になっていた。

「あんたは何を考えているんだよ。吾代というやつの手下に近づいたのは、ただの偶然じゃないだろうが」

「偶然だ。おまえさまの考えているようなことはない」

 卯月は口ごもった。伊住は彼女の言葉にほころびを見つけると、思わず口元をほころばせた。

「なんだい、おれの考えているようなことって」

 黙り込んだ卯月が、伊住は少しおかしかった。

「吾代の手下なら、合札を二枚か四枚持っていると思ったのかい。どうせのこと、合札をやるから酒に付き合えと言われて、ほいほい盃をあけたんだろう」

 卯月は言い訳をしなかった。

「あんたは巫女さんだというから、よくよく知らないかもしれないが、男が付き合えというときは、ほんとうに最後までなんだよ。最後って、わかるだろう。・・・まあ、あいつらもあんたがこんなに上戸だとは知らないで声をかけたんだろうが」

「わしはそのようなことも知らぬあほうではない」

 卯月はむくりと身を起こし、伊住をにらんだ。しかし酒に潤んだ瞳でみつめられても、まるで迫力はなかった。

「吾代の手下と知って声をかけたのは、わしだ。わしが最後まで酒につきおうたなら、明日、吾代に会わせてやろうと、あやつらはわしに約束をしたのだ。直接に会えば、気を変えて合札をくれるやもしれぬと」

「約束だと」伊住は笑った。「ああいう奴らの約束ほど、虫の良いものはないぜ。貰うものをもらって、あとはあんたをほっぽり出すだけさ。吾代のとこに行くのは、悪いことは言わない、やめときな」

「わしにはやるものなど一つもないが」

 あっけらかんとした卯月の言葉に、伊住はあきれるのを通り越しておかしくなった。

「男には、あんたの持ってるいいものがたくさん見えるよ。とびきりの良いおんなだからな、あんたは」

「伊住もそう思うのか」

 卯月は伊住がうなずくのを待っているようだった。伊住は妙に胸騒ぎがして、彼女から目線をはずした。

「正直を言って、わしには男というものがわかりかねる。弟の彦田にしてもそうだ。あの子は故郷に埋もれるのがいやだと言って、武佐師をとびだした。むちゃなことと知っていて、故郷を捨て切れないと知っていて、あの子が武佐師をでる理由がどこにあったのか」

 卯月は独り言のようにささやかに言った。

「わしは彦田にとって、どのような姉であったのだろう。わしは考えずにはおられんのだ。おまえさまにとって、わしはどのようなおなごなのであろうかと」

 心中で伊住は、こんな話題をふらねばよかったと思わずにはいられなかった。卯月は言っている言葉の意味も、相手もわきまえず、思いついたままを口にするのだ。卯月は伊住の複雑な胸中など思いもせず、ほほ笑んだ。

「おまえさまは、まこと、彦田が盾となってでも生命を守るべき男であれば」

「ばかやろう。そんなことは、冗談でも二度と言うなよ」

 伊住はぴしゃりと言った。

「彦田とおれの生命、どっちが重いかなんて、あんたに量れるのかい」
 卯月は驚いたように黙り込んだ。もしや言い過ぎたかと、伊住は眉根を寄せた。時々忘れそうになるが、卯月は女なのである。・・・しかし卯月は伊住のきびしい言い方もまるで気にしない風に、再びほほえんだ。まるで伊住の答えに満足するように。

「おまえさまの言うとおりだ」

 彼女は言うなりふたたびムシロに横になると、伊住に背を向けた。

「・・・おまえさまの言うとおり、吾代のもとへ行くのはやめにする。しかしそれならば、明日からは伊住にも船さがしを手伝ってもらわねばなるまいな?」

 つぶやいてからほどなくして、卯月のすこやかな寝息が聞こえ始めた。伊住は苦笑いをすると、自分も揚げ窓の支え棒を下ろしてから、ごろりと横になった。

 なんてことだろう、弟を亡くした卯月のほうが、自分よりもよほどたくましいではないか。・・・伊住は真っ暗な天井をみつめた。背中のほうに聞こえる卯月の寝息を、なにかしら満たされた気持ちで耳にしながら、もういちど彼は眠ろうと目をとじた。明るくなったら、二人を北に乗せてくれる「良心的な」船をさがすのだ。

 今度こそは、あのような夢は見ないだろうと思えた。あれは伊住の弱気な心が作り出したまぼろしなのだ。・・・まぼろしなどに負けてはいられない、それはこの数日、卯月のふんばりを見てもわかっていたことではないか。女将の言うとおり、伊住が旅籠の二階でぼんやりしていた間、卯月はは湊を走り回っていたのだ。

 卯月が心底知りたくなるような男は、こんななまっちろい人間ではない。こんなことで動じて、悪い夢にうなされなどして、どうするというのか。青田彦が裏切りをしたと決まったわけでもないし、消え去った真由もさがさねばならない。いつまでもぐずぐずしてはいられないのだ。      *         *        *

 そう心を決めるなり、船はあっさりとみつかった。そのかわり、何人も水夫がいるような立派な積み荷船ではなく、ごくちっぽけな舟であった。荷船が乗りつける湊ではなく、磯漁にでる若者たちがおのおの舟をつける、ちいさな浦に舟はあった。

 砂浜にうちあげられた漁舟にまでは、吾代も目をつけなかったらしい。高天原から印判を預かったとはいえ、高天原の方でも預ける人間にまではよくよく目がいかなかったと見える。

 いくつもある若狭の湊の中でも、栗田の湾を監督する吾代は、おのれの利益ばかりを追い求め、合札に高値を吹っかけているというありさま。漁で食っている貧乏な人間には、はじめから見向きもしていないのだ。 そのことをそっと伊住に教えたのは、三日も世話になった旅籠の女将であった。女将は息子とのふたりぐらしが、息子に嫁が来たことで三人と一人に増え、漁ばかりで生活が賄えなくなったことを、まずはじめに言いこぼした。・・・つまり伊住が十日分の旅籠代を払うかわりに、息子の舟に乗せてやろうと言うのだ。

 三日間の空白は、女将が若い夫婦の懐具合をさぐるための、目利きの時間だったというわけだ。

 舟代は高かったが、乗らないわけにはいかなかった。反るにしても他にいい方法はなかったし、いいツテもない。高天原から隼背が乗りつけてきた黒馬を売って、先立つものは懐にあった。

 話が決まると、あとは呆れるくらいすんなりといった。

「荒潟までお願いしたい」卯月はためらいもなくそう告げた。

 若狭から直接に武佐師に行くことはできない。だからひとまず北の荒潟にむかい、そこから徒歩でいくしかないのだ。海路で荒潟まで遅くて五日。武佐師までは徒歩で四日ほどだ。馬で陸路をいくよりも、ずっと速い。

 水や食料を積んだ舟は、日が落ちて見通しの利かなくなる頃合いを見計らい、すべるように浦を出発した。舟を操るのは男がひとり。旅籠の女将の息子だけあって、気持ちの良い笑い顔と、はっきりした物言いは、伊住を久々に楽しませた。舟を操る手も慣れたものだが、口もよくすべる。素膚に着込んだざっくりした長着すがたは、浦の若者と目立った違いはなかった。しかしただひとつ、身につけた褌には白のさらしが多いなか、真っ赤に染め抜かれたものを使っており、それだけでも剽軽さが知れる。

 剽軽はいいものの、冗談とも本気ともつかない男の言葉の数々には、伊住も思わず閉口せずにはいなかった。

「なあ、だんな。あんな美人をどうやったらものにできるんだい」

 うらやましくてならないといった顔付きでささやいてくる赤褌に、伊住は舳先にちかい小縁にもたれかかって、笑い返した。

「あんたは、嫁とりをしたばかりじゃないのかい」

「嫁さんと美人は別さあ。嫁さんはおいらのガキを産んでくれる。海のものをたくさん海つ神にいただくにゃあ、海に出れる男がたくさんいるだろ。嫁さんにする女に美人を選んじゃならない。尻がどっしりしたのを選べ。それが、ひいひいひい爺さんの頃からの、大事な守り事さ」

 赤褌はしんみりと言った。

「暗がりだったら、美人も不器量もあるもんか。だが、おいらは男としてきれいな女に心ひかれるわけさ。わかるだろ、だんな」

 伊住は奇妙な目配せをうけて、すぐさまその意味を察した。狭い舟の中、背中を伊住とくっつけるようにして、うたたねをしている卯月に目をやってから、伊住は手を振った。

「やめときな。ぴしゃりとやられるぜ」

「ぴしゃりがなんだい」

 赤褌は喜びいさんで言った。

 その夜、伊住はなかなか寝付けなかった。荷を運ぶ大型の船にくらべてずいぶんと小形であり、海を走ることを意識して造られた舟である。狭くて横になる隙間もなく、凪海だとはいえ、ふらふら揺れる船底が寝床では、おちおち眠ってもいられない。

 だが眠れないのは、そのせいだけではなさそうだった。赤褌のにやけた顔つきと、昼間の本気とも冗談ともつかない物言いを、頭のなかであほうのように繰り返している自分がいることに、伊住は気がつかないままではおれなかった。

 止まったはずの舟が、ひときわ大きく揺れたときになっても、伊住は寝たふりをきめこんでいた。なにもまことの夫婦ではないのだ、それに卯月は女にしては腕もたち、望まないことなら暴れてみせるだろう。起き出すのはそれからでもいい・・・。

 小舟が壊れてしまうかと思えるくらいに激しくきしみ、もみあう息づかいが聞こえる。卯月は口でもふさがれているのか、それでも懸命に、のしかかるものを押しのけようともがいている。伊住はもはや我慢ならなかった。押さえがたい腹立ちがこみあげ、伊住はつぶっていた目をひらいた。下腹に力をこめ、何か物を言おうとしたときだった。

 ぎゃあっと男の悲鳴がしたかと思うと、なにかが夜の凪海に落ち込んだ。伊住は耳をうたがい、しかしそんな暇もなく、腕のなかに飛び込んできたやわらかなものに戸惑った。

 戸惑いながらもわかったのは、海に落ちたのは赤褌であり、伊住の腕のなかにいるのは卯月だということだけだった。伊住は何に向けられたかわからないままの怒りをもてあまし、ついきつい声をだした。

「あんたはどうして、もっと早く助けを呼ばないんだよ」

 むちゃくちゃな言いようだというのは承知のうえだった。ただ、むしょうに腹が立っていた。卯月はうつむいたまま、ぶるぶる震えていた。

「口をふさがれたらば、おまえさまの名も呼びようがあるまい」

 卯月はあえぎながら、とぎれとぎれにつぶやいた。

「男とは、恐ろしい。わしはいままで、しらなんだ。亡くなった故郷の父と、彦田と、あと、おまえさましか男というものを知らん。あのような恐ろしい男がいるとは、知らなんだ・・・」

 卯月の言いようでは、冗談ではなしに、まるで男というのを理解していない。赤褌だろうと、伊住だろうと、男にはちがいあるまい。伊住はやはり呆れたが、笑う気にはなれなかった。それはひとえに、卯月が泣いていたからである。伊住はため息をつき、暗い凪海にむけて、声を放った。

「言っただろう、ぴしゃりとやられるって」

 すると、こりない声が返ってきた。

「だんな、こいつはぴしゃりじゃなくて、ばしゃり、だよ」

 伊住はそれを聞いても、にべもなく言い捨てた。

「一晩そこに浮いていな。この女をあんたに預けるまでもない。舟代はあんたの母さんに、十分すぎるくらい払っているはずだぜ」

「そんな・・・。だんなぁ」

 哀れっぽい声が何度も返ってきたが、伊住は今度こそ寝たふりをきめこんだ。

 荒潟についたのは、それからかぞえて二日後のことだった。

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