かみなぎ36

八千穂は真由をさがして、ほうぼうを飛んだ。しかし気高の里にも呼月の神社にも真由の姿はなく、八千穂は滅びのまざまざしさ、いまだ里内にくすぶる煙の臭いを、いやというほど鼻に吸い込むばかりだった。
 高天原の軍はとうに立ち去ったにちがいない。軍に踏みしだかれた中で、火を放たれた里長の御館、そして里人たちの竪穴の住居。八千穂にも見覚えのある生活のなごりを眺めながら、八千穂は深く息をつき、それから何度も頭を振った。

 真由はどこへ行ったのだろうか。八千穂にはどうしても、真由がこの里とともに滅びてしまったとは思えなかった。真由は、きっとどこかで泣いている、そんな気がした。ひかりも差さない場所、そう、あの魂の室のような暗くさびしい場所で、ひとりきりでひざを抱えて、よるべなく泣いているのだ・・・。そんな幻影が、八千穂のたよりない気持ちをささえたのだった。真由は死んでなどいない。

 八千穂はもはや巫の霊力を意のままに振るうことができるようになっていた。彼は息をするのと同じくらいの何げなさで、出手母まで翔けて、しかし真由の不在に肩をおとしたのだった。

 巫の、遠地に身を飛ばすというわざは、どうにも自分の知らない場所に関しては、行使ができないらしい。頭にその場所のしっかりとした映像を思い浮かべ、そのうえで足を前に踏み出す。目を開けた時には目的地に着いているわけだけれど、そうなると八千穂の行くことができる場所はごく少ない。八千穂にはさがすべきアテなどもうなかった。

 途方に暮れていたとき、八千穂は耳に鈴の音のようなものを聞いた。
「あ」
白野の庄でも一番高いところにある高倉の、茅葺き屋根にぼんやりと腰掛けていた八千穂は、その鈴の音がいちど耳にしたものであることに、すぐに思い当たった。三輪山でいちど死んだにもかかわらず、真由の霊力によって彼は甦りをした。目覚めた日の夜に因幡の里で聞いた、あのささやかな音色ではあるまいか。

 八千穂はあのときも、なにかしら呼ばれているように感じたものだったが、いま耳をたたくそれは、やかましいほどの激しさでじりじりと鳴り響くのだ。八千穂は頭痛にうめいた。まるで自分の耳に、鈴の大玉が籠められているような響きようだ。

 八千穂は目をとじ、今度こそは逃すまいと音色の根源をさぐろうとした。音色に心をこらすと、髪の毛が勢いよく後ろに引っ張られるような、強く呼ばれるものを感じた。鈴の音のむこうに八千穂はだれかの姿を見たような気がした。身をまかせればすぐにもそこへ行けそうだった。いいや、何が何でも引っ張られていきそうだった。

「八千穂どの」

 高倉の階下の方から、八千穂を呼ばわった大声があった。

「育ち盛りの若い者が、三日も飯を食っておらぬとは。いい加減にそんな所に座っておるのはやめて、したで羹でも腹に入れたらどうか」

 声のぬしは白野の庄の長、八耳である。だが八千穂は飯どころではなかった。彼は襲いくる眠気にあらがう人がよくそうするように、ひとりでに重くなる眼皮をひきつらせた。

「人を捜すにしても、捜すほうがばててしまっては、何にもならぬぞ。八千穂どのよ、わたしの言うことがなにか間違っているか?」

 八耳がさとし聞かせるような口調で、ため息まじりにそう言ったときには、八千穂のすがたはとうに高倉の茅葺き屋根のうえにはなかった。      *         *        *

 音色に乱暴なまでにひっぱられた八千穂は、ふと目を開けたときには、ちいさな神社のなかに立っていた。高窓がいくつもあるため内部はさっぱりと明るく、磨かれた床は奥までちりひとつもなく続いている。八千穂は心を決めて、足を進めた。ここがどこかはわからなかったが、まるで八千穂に関係のない場所ではないはずである。

 奥まったところに簾をへだてて、ひと一人が寝転がることができるくらいの広さの、一段高くなっている御座があった。簾の奥には、女性らしきちいさな人影もあった。少しだけ巻き上げられた簾のしたから、うす萌黄の袴がのぞいている。

「だあれ、里帆か?」

 八千穂のすがたと足音に気づいて、御座のひとが声をかけてきた。八千穂が思っていたよりも、ずいぶんと若々しい声色だった。幼いといいかえてもよさそうな。八千穂はすこし驚いた。・・・神社のような場所で御座に座るひとといえば、母巫女の天照や、おばでもある因幡の大巫女呼月、彼女らがまず思われてしまうからかもしれない。

「あなたですか、ぼくを呼んだのは」

 八千穂は慎重にたずねた。するとわずかの沈黙のあとに、簾からしろい両の手が伸びて、ほんの少し巻き上げられていたばかりの簾を、上まで一気にかきあげた。八千穂が立ち尽くしたまま凝視していると、それを押しくぐるようにして、ひとりの少女があらわれた。少女はしろい上衣に、くるぶしあたりまでのうす萌黄の袴を着込んでいた。長い髪の毛は背中でひとまとめにされ、こざっぱりとした風である。

 うりざね顔というにはほっそりとしたあごのあたりに、大きな黒い目がひときわ目を引くような少女だ。少女は八千穂をくいいるようにみつめた。それからふっくらした唇を引き結び、眉をつりあげた。

「おそいわ、ばかもの!」

「おそいって・・・」

 やにわに怒鳴られて、八千穂は目を丸くした。年の近そうな少女が相手だったので、自然と八千穂はくだけた言い方をした。

「ぼくはきみのような子を知らないし、会ったこともないのに」

 なのに遅いとののしられるなんて、奇妙でしかなかった。少女はむっとして唇をとがらせると、八千穂に近づいて、ひとさしゆびを彼の胸につきつけた。ごく近くで睨み上げられるような格好になる。細い腕につけた、鈴をいくつもつらねた腕輪が、ちりりと鳴った。

「何年待ったと思うのだ。それは、もう、途方もない長い時間を待っていたというに。気が狂いそうになるくらい待ったのだぞ。わたしをこんなに待たせておいて、ひどい言いよう」

 八千穂はぎょっとした。何も会う約束をしていたわけではない。それどころか初対面だ。とまどう八千穂を飽くことなくにらみ続けていたが、少女は思い直したのか、ああ、と言った。

「そうか、ぬしは小鷹ではないのだった」

 少女はわけのわからないことを呟いた。

「わたしが約束をしたのは小鷹だ。だが、ぬしは小鷹の血を引く彼の末裔であろ。そうであろ? 高天原びとの匂いがするもの」

 形のいい鼻をふかふか動かして匂いをかぐまねをすると、少女は笑い顔とも泣き顔ともとれる、ふしぎな表情をした。

「ぼくは小鷹ではないよ。ぼくは八千穂だ」

 八千穂は何を口にすればいいかわからなかったが、とりあえず大事なことを言い置いた。八千穂は須佐ノ男でもないし、小鷹という人間でもないのだ。

「たしかに高天原の炎の末裔の血をひいてはいるけれど・・・」

「忘れてしまっているのだね、ぜんぶ」

「ぼくは、いや」

 八千穂が言いかけた言葉をしまったのは、少女がいまにも泣き出しそうに、顔をゆがめたせいである。少女は目元をゆびで触れながら言った。「わたしの名は、明日香。ここは武佐師。凪の一族の領だ。ぬしは、ヤチホというのか? ああ、八千の穂群で八千穂か」

 明日香は顔をあげて、涙をにじませたままの瞳で八千穂を見つめた。「・・・ぬしはやはり、小鷹だ。ぬしが八千穂だろうとかかしだろうと、ぬしの魂は彼とおなじ色彩をしているもの。そう、森をわたる風の色、空高くを飛びまわる、自由な鷹の魂だ。ぬしの魂は、縛られることを一番に嫌がっている」

 明日香はきっぱりと言い切った。

「ぬしはこうして、わたしの所に来たのだね。遠い昔の約束をはたしに」「約束?」

 言い立てられても八千穂はうなずきかねた。まるで身に覚えのないことだし、小鷹という名にもやはりおぼえはない。明日香はちいさくため息をついた。

「そうか、ぬしが知るわけがないのだ。小鷹はずっと昔の男だものな。ずっと、ずっと、昔の男よ。ぬしらが神代と言う時代に生きていた男だもの。わからぬか、凪のおとめと一緒に高天原をはじめた人間・・・そういえばわかるか?」

 八千穂は物も言えなかった。なにしろ、あまりに途方もないことである。高天原を創始したのは炎の御子と、その妻である凪のおとめ。神語りでは、そういうことになっている。

「小鷹というのは、炎の御子のこと?」

 明日香がてきとうなことを言っているとは思えなかった。彼女の瞳はひどくまじめで、そして真実を知る者だけのもつ、確信に満ちたきれいな瞳の色をしていた。八千穂はそろそろとたずねた。

「炎の御子。おお、そうも言う」

 明日香はいいかけて、しかし考え直すそぶりをみせた。

「わたしとぬしの知りおることには、差があり過ぎる気がする。・・・これからすべてを話すつもりだが、その前にぬしがすべてをわたしに語れ。わたしはぬしが何か大事なものをなくして、その何かを必死にさがしていたことを知っている」

「ふしぎだ。どうしてわかるの」

 八千穂はおどろいた。すると明日香はくちびるを歪めた。

「やはりな」

 息詰まるくらいの長いあいだ、明日香は八千穂をながめつづけた。八千穂がなにやら落ち着かなくなって、目をそらすまでである。

 明日香はようやく、しずかに言った。

「ぬしはちょうど、小鷹が凪のおとめをいちど見失ってしまった時のような、よるべない童男の瞳をしているもの」

 八千穂が首をひねると、

「そのことはいい」明日香は短くもそう言い捨てた。

「言ってごらん、何を捜していたのか」

「まゆを捜している」

 八千穂はよどみなく言った。明日香はすぐさま聞き返した。

「まゆというのは、ぬしのすきなおなごか?」

 八千穂がうなずくと、明日香は腕組みをした。それからふいに八千穂の肩越しに顔なじみの若い女のすがたをみつけて、話を中断した。

「明日香さま、このかたはどなたです?」

 どうやら話し声をききつけて様子を見に来たらしい。

「心配いらぬ、里帆。わたしの待ち人だ」

「待ち人・・・あ!」

 里帆はちいさく声をあげた。八千穂がふりむくと、里帆はなにかまぶしいものを見るように目を細めた。

「このかたが、明日香さまのおっしゃっていた、御鏡のよばわる炎の御子さまであられるのですか」

 おずおずとほほ笑む里帆に、八千穂はやはり戸惑いながら笑顔をかえした。すると里帆は顔を赤くして下を向いてしまった。

「御鏡のふるえるのは、炎の御子さまがいずこかの地でおめざめになったからではないかと、他の者と話し合っておりました。炎の御子さまと凪のおとめがふたたびこの世でであい、遠い神代の昔からの約束を果たしにいらっしゃる。それはいつなのだろうとも」

 里帆はわきおこる興奮を止められないようだった。

「明日香さまにお仕えする者のなかでも、御子さまに一番はじめにお会いできるなんて。うれしい、どうしましょう」

 明日香はそれをたしなめた。

「はしたないことはおやめ、里帆。炎の御子のよみがえりとはいえ、御子の記憶をも持ち合わせているわけではないのだ。・・・八千穂が困っているよ」それから明日香は八千穂をみつめた。

「八千穂は御鏡などしるまい? 炎の御子として、赤代兄と争った記憶などあるまい? 八千穂は八千穂、それで当然だ。神代から長の時間を記憶とともに生き続けるのは、わたしひとりでよい」

 明日香の声はしずかな孤独を語っていた。八千穂は今度こそ、彼女から目をそらしはしなかった。明日香のかなしいまでに澄んだ瞳に、真実をさぐろうとしたのだ。それにもまして、八千穂は彼女の瞳になにかしら揺さぶられるものを感じたのだ。どこかで見たことがある、そんな気がした。思い出そうとすると、軽いめまいをおぼえた。それとも、ただの気のせいなのだろうか。

「きみは、だれ? やはりどこかで会っているんだろうか」

 懸命に思い出そうとしている八千穂をみつめながら、明日香はほほえんだ。ふたたび、今度はひどくゆっくりと、かみしめるように呟くのだ。「わたしは明日香。わたしはぬしを待っておった。ほんとうに長い間、ぬしが約束を果たしにやって来るこの時を」

 明日香はいちど言葉をきった。

「ぬしだけを待っておった。この長い年月、ぬしのことだけを想って生きてきたようなもの。くやしいが、まるで、いとしいこいびとを待つようにね」「はあ」

 八千穂はどのような言葉を返せばよいのかわかりかね、気の抜けた返事を口にした。

 八千穂のおとずれは、なにやら特別なことらしかった。明日香にしてみても、里帆たちのように神社につかえる女たちにしてみても、八千穂を他人のようには扱わないのだ。つまり、上にも下にもおかぬ扱いということである。八千穂はちやほやされることに慣れていないせいか、気疲れをもてあました。

 明日香が武佐師でどういう存在なのかも、いまいちわかりかねていたし、八千穂をひとめ見て炎の御子だなどと、ためらいもなく決めつけ、まるで疑っていないことも、奇妙でしかない。御鏡だとか、約束だとか、さっぱりわけがわからない。

 八千穂が知りたいことはすぐには何ひとつわからず、たずねても明日香はじらすように何も語ろうとはしないのだ。八千穂は真由をさがしていただけなのである、いつまでもここにじっとしてはいられないと思うものの、何かを知っていて出し惜しみするかのような明日香の口ぶりが、八千穂を神社に押し止どめていた。それに八千穂には、つぎに行くべきアテもなかった。

 それにしても武佐師というのは、かわった土地だった。高天原にひざを折りもせず、定期的に貢を支払うわけでもない。なのに高天原からは一目を置かれ、繁栄を許されているのだ。そこに明日香が関わっているのは、里帆ならず全ての武佐師びとたちの明日香に対する、尊敬と畏怖のこめられた物言いや態度からみても、あきらかなことだった。

 明日香のすまう、こじんまりとした神社は、両神山と呼ばれる女山のふもとにあった。中年の古巫女たちと五、六人ほどの巫女見習いたちがひっそりと暮らす場所である。神社では八千穂を泊める場所もないということで、彼は神社からずっと下ったところにある小鹿野の里に、明日香とともにむかうことになった。

 八千穂は明日香に話が聞ければ、寝る場所などどうでもよかったが、明日香のほうが彼を手放したがらなかった。

「ぬしが知らぬことを、わたしは教えてやることができるよ。知りたくないのなら、無理にはとどめぬ。・・・ただ、あてもないまま、真由をどうやって捜すのだい?」

 話を渋ったのは、やはりなにか思惑があるのだろう。八千穂が神社に姿を見せてからすぐさま、明日香は小鹿野の里に使いをやった。小鹿野からの迎えは、ほどなく、こちらから送った使いとともにやって来た。「神社をあけてしまっていいのかい」

 明日香は神社を守るべきあるじのはずである。けれど明日香はこともなげに言った。

「わたしがいないほうが、あの子たちものびのびとやれるのだ。わたしのような小うるさいばばが始終一緒では、あの子たちも息がつまろう。息抜き、息抜きよ。わたしにも、あの子たちにも」

 八千穂は奇妙なものを感じたので、言わずにはおれなかった。明日香は十四、五歳ぐらいの少女で、それ以上にはみえない幼さが残る顔立ちをしている。けれど、古めかしい物言いと、やわらかな物腰、それにまなざしなども、どこか底知れなく、どこかただびとばなれした所がある。一見してただの少女にはみえない。けれど、それを差し引いても婆には見えなかった。

 明日香は八千穂の物言いを聞くと、声を立てて笑った。笑うときばかりは明るい少女らしさのぞき、八千穂はなんだか安心をしていた。神代のころから生きているなんて、ただの冗談に違いあるまい。そう考えると、八千穂はわけもなくおかしくなった。

 神代のころから生き続けるなんて、途方もないことに違いあるまい。巫の霊力がこの世に存在するということだけでも、十分ふしぎだというのに。

 二人して笑い合っていると、小鹿野からふたりを迎えにやって来た若者が、信じられないというような目で八千穂をにらんだ。日に焼けて浅黒い肌をした若者は、二人の乗る栗毛馬のたづなを引いていたのだが、明日香と相乗りをして、やけにくだけた物言いをする八千穂に、どうにもがまんがならないようであった。

「おそれ多いことを」

 ついに苦々しく言いこぼした若者を、明日香は笑ってたしなめた。

「なにが恐れ多いものか。八千穂はわたしの待ち人だもの」

「だが、明日香のおんきみ。おんきみに礼を欠くやからは捨て置くなと、わたしは父からもつねづね言われておるのです」

「わたしがいいと言っているのだよ。それならば、そなたがいちいち目くじらを立てることもあるまい?」

 明日香はいたずらっぽい目をしながら言葉を続けた。

「それともそなたはわたしの言葉よりも、父の言葉に重きをおくか」

「いや、そんな」

 若者は決まり悪くなったのか、口ごもった。

「おんきみの言われようは、わたしにとって父の言葉よりも大事」

 ほほ笑んだままの明日香にみつめられて、若者はそれきり黙った。

「冗談だよ。そなたの言葉はうれしいが、そなたの父、互大どのの言葉をおろそかにすることもまた、ならぬぞ。そもそも、そなたは首長の息子であろうに。すえは若首長のそなたが、なにもみずからわたしを迎えに来ることもなかったのだ。のう、居淵よ」

「何を言われるか」居淵はようやく笑顔をみせた。

「武佐師の首長よりも何よりも、重くおかれるべきなのがおんきみの御身でしょうに。それに、卯月からもよくよく頼まれておることです。小鹿野におんきみがいらしたおりは、つつがなくお迎えするようにと」

 明日香はそうか、と言い返しただけだった。八千穂は黙ってふたりのやり取りを聞いていたが、ふと卯月の故郷もまた武佐師なのだと思い出した。明日香は意外そうな表情をした。

「ぬしが卯月を知りおるとはね。ぬしらは高天原でであったのか?」

 八千穂は卯月とであった経緯を手短にしゃべった。ついでにじぶんが高天原の皇子であることや、いちど死んだこと、真由のちからによって甦りをしたこと。天照の死や、因幡の滅びを語った。

「ぼくは因幡の神社が、骸だらけになっているところも、この目でみた。呼月のおんきみのなきがらもまた・・・」

 明日香は何も言わなかった。

「卯月は彦田と一緒に、気高の里にとどまっていたはずだ。彼らがどうなってしまったのかは、ぼくにはわからない」

「あれは、すぐにくたばってしまうほどやわではない」

 居淵は信じがたいことを聞いたというように目を瞠ったが、ややしてやけに明るく言った。

「どこかで生きているにちがいない」

「そうだろうか」

 八千穂は力無く首を振った。彼は滅びの光景がいまだ生々しいせいで、どうしても楽観的に物事を考えられなくなっている。もともと八千穂には、すぐに何かをあきらめてしまう困った性分があった。八千穂が真由と離れてしまったのは、ある意味その性分のせいともいえた。

 八千穂は彼女のためによかれと思って選んだことが、結果として真由を傷つけてしまったことに気づかないままではいられなかった。けれどあやまりたくとも、今度は真由がいない。

 なにくれと話をしているうちに、栗毛馬は居淵にみちびかれて里にはいった。ひとくちに里と言っても、小鹿野はずいぶんと開けた場所だった。茅葺きやら板葺きやらの寄せ棟づくりの住居がびっしりと並び、それらのあいだに狭い路地が複雑に走っている。住居のおおきなかたまりが軒を連ねるたたずまいの中には、掘っ建て小屋のような仮住まいもまた多い。

 居淵の話によると、秋に行われる両神山の祭りがごく近いらしく、武佐師だけでなくさまざまな場所からも人々があつまってきているのだという。掘っ建て小屋のような簡単な住居は、小鹿野にやってきた商いびとや見物人たちの、仮の住居なのだと。

「明日香のおんきみを慕ってやってくる人間が、小鹿野を大きくしたのだ。秋の祭りにやってきて、祭りがすんでしまったら、そのまま住居を作り出す人間もおる。ここは、よい土地だからな」

 八千穂が卯月の知り合いだと知ると、居淵はむやみに明日香への軽口を咎めたりはしなくなった。居淵はわが子を自慢するように武佐師の美点を言い立てた。

「ほら、ごらん。あそこで男たちが盛り土を固めておろう。あれは相撲の土俵をつくっておるのだ。土俵はのど自慢の舞台にもなる。あっちは競い弓の会場だ。間もなく祭りだから、男も女も、準備に余念がない」
 首長の御館につくまで、八千穂はさまざまなものを見た。人々の息づかいはあたたかく、しかも力強かった。ここでは男も女も生きるちからにあふれている。ひときわ強く感じたのは、武佐師の女たちの威勢のよさ、きっぷのよさだ。因幡の女たちも明るかったが、それにまるでひけを取らない。歩幅の広い歩き方は堂々としており、しかも王坐の采女たちがしずしずと歩くのより、きれいに見える。大地をしっかり踏み締めて歩く姿が、八千穂はこのましかった。

「武佐師には男も女もない。男ができることは女もするし、女ができることは洗濯だろうと縫い物だろうと、男も引き受ける」

 明日香はどこか誇らしげに言った。

「男たちは女たちを認める。そもそも、我が子をはらんでくれる女を見下す男が、どこにあろう。女たちは、だから女であることに誇りをもてる。好いた男にも認められぬままでは、いたたまれまい。認められるということは、媚びるということとは違う。誇り高くあることだ。誇り高くあろうとするから、おのずと美しくもなるのだ」

 そこに居淵がなにげなく口をはさんだ。首長の御館へつづく門扉をくぐり、二人を馬から降ろしたあとだった。

「まるで、首を高くあげた、うつくしい牝鹿だ。物も言わぬが、目だけで語りかけてくるものがある・・・」

 明日香がおや、と軽く瞳を瞠った。

「居淵、そなたにもそのような萩妻ができたのか。そなたはこれまで、言い寄るあまたの牝鹿にも、目もくれなかったではないか」

 居淵は頭をかいた。明日香がつづけた。

「高天原へいったきりの、ろくでなしの弟のほうは牝鹿に目がなかったように覚えているけれど。その兄はとくれば、いい齢をして数ある萩妻を選ぼうともせぬ。互大どのが苦り切ってそう言うのを、わたしは聞いた覚えがあるもの。・・・しかし、いまのそなたは何やらいい顔をしているね。まこと、いい顔」

 居淵はすると気持ちのいい笑顔をみせた。

「ようやく見つけました、わたしだけの萩を」

「それはいい。互大どのもこれにて心やすらかになるだろうね。鹿は、萩を寝床に折り敷いて、そのうえに伏すという。萩の別名を鹿の柵とはいうけれど、そなたもようやく嫁というしがらみを得る気になったか。甘くて、匂いやかなしがらみをね」

 明日香はほほえんだ。少女の笑顔とは思えない、内部に秘めた豊かなものをかんじさせる微笑であった。

「出会ったばかりです、まだ。けれど、とてもふしぎな娘で・・・」

「そなたをそこまで夢中にさせるとは。会ってみたい気もするが、まずは互大どのにあいさつをせねば」

 居淵は馬のたづなを走り寄ってきた舎人男に手渡すと、明日香と八千穂の先に立って歩き始めた。午後の光が地面をあたためる前庭を横切り、階段を踏んで首長の御館に入ると、廊下の格子窓のむこうに裏庭の竹林がみえた。ほどなくして広々とした母屋に通されると、客人のおとずれに気づいて立ち上がった男があった。

「これは、これは、両神山のおんかた。急な使いで何事かと案じておりましたが」

「大事はない。けれど、ひとつ喜ばしいことがあってね」

 明日香はそこで一度言葉をきると、八千穂のほうを見た。

「わたしの待ち人がようやく現れたのだよ、互大どの」

「待ち人と」

 精悍な居淵をそのまま老けさせたような互大は、八千穂を食い入るようにみつめた。それから、まさか、と言った。

「この方が、炎の御子の生まれ変わりだと言われるのか。それにしても、なぜ、今になって」

「わたしにもわからぬ。けれど、あるときふいに目の前が開けたようになり、八千穂のたましいの輝きが、わたしの心をどよもしたのだ。あれは、つい最近のこと。夏の中頃であったろうか」

 おそらく、いちど八千穂が死んだとき、彼の身にあった霊力の歯止め金が外れてしまったのだろう。三輪山で死んでしまうまで、たしかに八千穂の体には、彼とは異質の魂・・・須佐ノ男のたましいが住んでいたのだから。八千穂はためらいもなく、そう言い切った。須佐ノ男が八千穂におよぼしていた影響は、今考えればすこぶる大きいような気がした。 八千穂が炎の御子かどうかは別として、須佐ノ男のたましいが、八千穂の生まれながらにして持つ、巫の霊力を押さえ込んでいたのはたしかなことだ。だから八千穂には、巫なら当然見えるはずのしろき炎が見えなかったし、霊力の現れ出る兆候もなかった。

 けれど、死の間際になって、八千穂ははじめて自分の意思で霊力を行使した。身の内のけものの存在、ひいてはおのれに対する恐怖を認めないわけにはいかなくなったのである。

「つまり、八千穂はそれまで眠っていたということか?」

 そこまで言って、明日香は首を振った。

「王坐は、すべての神を締め出している。風の流れもとどこおる場所において、わたしは無力だ。炎の御子にいちばん近い魂をもつ子が生まれ出たのも、知らぬが道理か・・・」

 明日香の声には、悔やみがあった。会話がとぎれ、八千穂はふと気になっていたことをたずねた。

「ぼくが炎の御子のよみがえりと言っていたけれど、それはどういう意味なのだろう。ぼくは、高天原の巫だ。それは認めるけれど、約束だとか、炎の御子だとか、わからないことだらけだ」

 明日香は円座に座ったうえに、脇息によりかかりながら、八千穂をじっとみつめた。互大が口を挟んだ。

「八千穂どの、あなたが高天原の皇子であり、巫でもあるというのなら、神社の御鏡がふるえるのも説明ができるだろう」

 互大が言うには、次のとおりであった。

「巫とは、最も濃く神の末裔の血を受け継ぐ者のこと。かれらは炎の御子であり、凪のおとめである」

 高天原を開始したのは、炎の御子と凪のおとめ。彼らはまぐわいのすえ、双子をうみおとした。それが巫、すなわち神薙ぐおのこと神凪ぐおなごである。神代の血脈は、いまだに消えることなく受け継がれている。 先代は須佐ノ男と天照に。今代は八千穂と真由に。

「巫の存在意義というものを、考えたことがおありか」

 八千穂はうなずいたが、考えても考えてもさっぱりわからない。

「巫がこの世にあるわけ、破壊と癒しが対になっているわけ・・・」

 明日香は独り言のようにつぶやいた。互大が続けていうには、巫とは約束を果たされるために存在するものだというのである。

「約束?」

 八千穂は困惑して明日香をみつめた。明日香はうなずいた。

「炎の御子は、わたしに約束をした。今は無理だが、いずれわたしを解き放つと。だから待っていてほしいと。簡単に言うと、それが約束だ」 明日香はいたくまじめに八千穂をみつめた。八千穂は慎重に訊ねた。「きみを何から解き放つの」

 明日香はほほえんだ。美しくありながら、したたかな微笑であった。「御鏡の呪いから。御鏡にしばられた、わたしの不死を解いてほしい。使命を無くしたままに存在し続ける鏡を、打ち砕いてほしい」

 八千穂は目を瞠った。聞き間違いかと思ったが、互大もまじめな表情をくずしてはいなかった。不死とは、死なないことだ。いいや、死ねないことだ。目の前の少女が不死の体を抱えているというのだろうか。

 やはりすぐには信じがたくて、八千穂は問うように彼女をみつめた。「神代のころから生き続けているというのは・・・」

「うそだと思ったか?」

 明日香はさびしくほほ笑んだ。

「このようななりをしているが、わたしは産屋のばばよりも、ずっとずっと年老いているのだよ。体ではなく、心が年老いている。御鏡の呪いと言っても、八千穂にはすぐにはわかりかねるだろうが、話は神代にさかのぼる」

 明日香は、黙り込んでいる八千穂を眺めながら、言い出した。

「佐那来の男神は不死こそを愛しみ、すべてを醜くする老いや、死といったものを一番に憎んだ。けれど佐那巳の女神は、死にゆく者たちが身を削って咲かせる花こそが、いとしめるものなのだと言い放ち、夫のもとから離れた。・・・死が二人をわかち、男神が黄泉国へ女神をたずねたことになってはいるが、そうではない。佐那来は老いさらばえた佐那巳の姿を目にしてから、ますます死や老いといったものを憎悪したのだ。

 千曳の大岩を差し挟み、彼が離縁を言い渡したのは、佐那来が抱いた妻への絶望と、憎悪が言わせたものだった。まことに千曳の岩を引いてきたわけではない。ただ、彼らの間に横たわった確執は、大岩にもまさる重みと大きさでもって、彼らを隔てた」

 明日香はくちびるを湿らせてから、つづけた。

「佐那巳は夫の支配するアカの氏族から別れ、月の化身である白鳥に導かれて北にのがれた。不死を捨て、みずからも老いを迎え入れたのだ。彼女にとって、不死こそ忌むべきものであったのだろう。・・・彼女はタカ族やオオ族、シラトリ族をすべる女神として、まっこうから夫と戦った。迫り来る老いと病の影と戦いながら、夫の愛する不死をこそ拒みつづけたのが、佐那巳というひとであった」

「男神は、女神を殺した炎の御子を憎んだと聞いているけれど」

「歪められて伝えられていることが、多すぎる。女神が死んだのは、炎の御子にホトを焼かれたせいではない。・・・男神はこの世から死というものを滅ぼしさり、すべてを不死で形作ろうとした。それを見とがめたのが女神だ。
女神を殺したのは、男神の使役していた八人のしもべとまみえた時、負った深手なのだ。女神はその戦いの時に負った傷のせいで、やがて死んだ。・・・炎の御子というのは、たしかに佐那巳の子。御子は佐那来の八人のしもべたちを、我がちからとしてうばい、操って、どこまでも不死と、すなわち佐那来と対抗したのだ」

「明日香が言っていた、御鏡というのは?」

 八千穂が聞くと、明日香は深く呼吸をしてから続けた。

「佐那来の不死を打ち砕こうと、佐那巳が国つ神たちにつくらせた四つの鏡のことをいう。ひとつあれば、不死と再生がかなう。二つあれば、神をも鎮め、または殺す。三つあれば、黄泉路をわたる。四つあれば、全てのものに滅びを与える。それらをあわせてますみの鏡というのだ」 明日香はひとさしゆびでこめかみに触れた。

「それらの鏡にはそれぞれ鏡守りがいた。わたしもそのうちのひとりだ。神社にある鏡は、わたしの鏡。わたしをいまだ不死に縛り付ける憎いやつだ。
・・・鏡守りはすべからく、不死をひきうけねばならぬのだ」

「壊してしまえばいい」

 八千穂は思いつきとは知りながらも口にせずにはいられなかった。壊せるならば、とうに壊しているはずである。

「できるものならば、とうにやっている。壊そうと溶かそうと、鏡はびくともしないのだ。わたしも触れたことがあるが、あきれるほどの頑丈さだ」

 互大が言った。明日香はつづけた。

「佐那来がほろび、鏡は不要になった。不要なものが作用していることこそ忌むべきことはあるまい。現在、鏡は二枚も残っているのだ。わたしの持つ両神山の神社の鏡と、高天原は王坐の神社に安置されている鏡。
不要なものは残りおる意味もないまま、生き続けている。巫という者たちも、もしや鏡のちからが生み出すものではないか、わたしはそう思わずにはいられぬのだ。一枚あれば、不死と再生。二枚そろえば、神をも鎮め、あるいは殺す。神凪の霊力と神薙の霊力にごく似通ったものがある」
「巫が生まれるのは鏡のせいだと言いたいのか」

 八千穂はすっきりしたのか、ますますわけがわからなくなったのか、どちらともつかない気持ちをかかえていた。巫の存在は、鏡の霊力がひきおこすものだと言うのだろうか。明日香の言う約束とは、鏡を打ち砕き、巫の霊力をもまたこの世から消し去ることなのだろうか。

 たしかに、巫の霊力は不要なものだ。ひとを幸せにもせず、ただ絶望だけをあたえるのが巫の霊力だ。なくなれば良いに決まっている。

 八千穂が渋い表情をしていると、明日香はくちびるをゆるめた。

「ふしぎだね、炎の御子が身に抱えていた、しもべたちの霊力を、八千穂の体からも感じるのだ。わたしは、だからそなたを小鷹と間違えてしまったのだよ」

 明日香はさびしく笑った。彼女の瞳は、いちずに八千穂の胸元にそそがれていた。

「小鷹は八人のしもべを使って、佐那来をほろぼした。しもべというのは、一つ身に八つの首を持つ、大蛇神のことなのだよ。炎の御子と佐那来の男神がぶつかった、最後の戦いのとき、大蛇神は佐那来を食いつくし、佐那来と同化をした。たしか、出手母で鎮まっているはずだけれど」
 八千穂は驚いてものも言えなかった。なにしろ明日香は、大蛇神は佐那来の男神だと言うのである。本当にそうだとすれば、色々と見えてくるものがあった。・・・大蛇神が櫛名田や真由に執着をする理由。高天原をひときわ厭う理由・・・。

「小鷹はタカ族の男だ。彼が創始したということで、だから高天原ともいうのだよ。高天原をつくりあげたのち、小鷹は妻をともなって出手母に移り住んだ。八人のしもべ、つまり八またの大蛇神を鎮めるために、見守るために、六つ里を打ち立てたのだ」

 大蛇神を鎮めた山祇という巫女、山祇の生まれ変わりだという櫛名田、その血をひく真由。大蛇神が真由を愛しむのは、佐那来の意志によるものだというのだろうか。

「あるいは、そうかもしれないね。凪のおとめは佐那来の娘ということになっているが、じっさいは佐那巳の氏族の、シラトリ族の娘であった。佐那巳の血をひいていたから、面影もやはり通うものがあった。佐那来はいまだ妻を忘れてはいないのかもしれぬ」

 見てきたように言う明日香にやはり違和感はあったが、大蛇神が櫛名田や真由に寄せた並々ならぬ執着ににわかに答えが出て、八千穂はそちらのほうに気をとられていた。

「大蛇神の魂は天照の手で三つに分けられて、勾玉に籠められた。そのうちのふたつが、ぼくの胸にある」

 八千穂は胸元から勾玉の紐をひっぱりだした。ひとつは細く縒った麻のひもを通してある、ほっそりとしたもので、もうひとつは天照からよこされた、綾ひもを通した、たてにひょろ長いヒスイの勾玉である。

 八千穂の手にあって勾玉はゆるやかに輝きだし、明日香は目を細めて勾玉のひかりをみつめていた。

「わたしに貸してくれるか」

 紐を取り去って明日香に手渡すと、たちまちのうちに輝きはしぼんで消えた。やはり大蛇の勾玉をかがやかすことができるのは、真由と八千穂以外にはいないらしい。そのことも、よくよく考えれば当たり前なのかもしれなかった。

 山祇、すなわち凪のおとめの血をひく真由が、大蛇神の魂の籠められた勾玉を輝かす。凪のおとめは佐那巳の氏族の娘なのだ。大蛇神、つまり佐那来が妻を憎み切れていないからこその、激しい執着なのではあるまいか。八千穂の手で輝くにしても、またしかり。高天原は大蛇神にとって、あまり愉快な存在ではないに違いない。

「小鷹の末裔の血脈が、大蛇神を揺り起こしたのだろう。ぬしと真由しか勾玉を輝かすことができぬのも、あるいは当然なのだ」

 明日香は気もなくつぶやいた。光を失って黒ずんだ勾玉を八千穂に返すと、明日香は沈んだ調子で言い出した。

「とにかく、八千穂だけではどうにもならぬということだろうか。凪のおとめの末裔である真由もそろわねば、御鏡への対処の仕方もわからぬ。いったい、真由はどこへ行ったのか」

「どこかにいるはずだ。ただ、ぼくがさがし忘れているだけで」

 とは言うものの、八千穂も心底困っていた。もう彼女をさがすあてはなかったし、もはや生きてはいないのではないかと、ふと思われるときも確かにあって、八千穂の気を滅入らせた。

(もう、ぼくを待っていてはくれないんだろうか)

 そんなはずはないと思いながらも、八千穂は自信がなかった。真由にはどこかで生きていてほしかった。逃げ出した八千穂を許してはくれなくとも、真由がどこかでつつがなく暮らしているならば、それでもいいと思えた。・・・真由がひとりぼっちで泣いたままでなければ、真由が笑っているならば、八千穂がでていくこともないのである。愉快な想像ではなかったが、そう思わなければやりきれなかった。

「じつは」

 すると、今まで押し黙っていた武佐師の首長、互大がきゅうに言い出した。しかし、なにかじつに言いにくそうな様子であった。

「明日香のおんきみ、じつは・・・」

「そなたらしくない、いかがした、互大どの」

 明日香が訝しげにたずねると、互大は気が進まなそうに言った。

「四日ほど前でしょうか、息子の居淵が、ここから少し行った相賀の原野で狩りをいたしました。狩りのさい、赤い目をした立派な枝角の男鹿にみちびかれ、ひとりの娘をみつけたのです。居淵は娘をつれかえり、今は女部屋にて世話をしております」

「赤い瞳の鹿か」

 明日香がつぶやくよりも先に、八千穂にはひらめく面影があった。

「まゆだ」八千穂は言い切った。「まゆに違いない」

 赤い目の男鹿とは、彼女によりそう須佐ノ男のたましいなのだ。

「互大どの、彼女に会わせてください」

 八千穂は熱心に言った。しかし互大は苦り切った顔で黙っているのである。明日香は察するものがあったのか、ちいさく声を上げた。

「まさか、居淵のおもいびとが真由なのか」

 互大がうなずくのも待たず、明日香は吐息をついた。

「あの熱心さでは、どうにも、あきらめるものだろうか。もしや、共寝にまでおよんでいるのでは」

「いいえ、それは。居淵にしてはめずらしい思いの入れようではありますが、萩、いいや真由どののほうが、はじめの二、三日は口も聞けないありさまで。居淵が熱心に看病をしていたところです」

 互大はため息をまじえてつぶやいた。

「彼女と出会ったのは、なにがしかのさだめに違いないと言い放ち、親がはたでみていても呆れるほどの浮足立ちようです。ただの素性の娘だとも思えなかったものの、まさか凪のおとめの末裔だとは・・・」

 互大は円座からたちあがり、八千穂をまねいた。八千穂はうなずくと、互大の広い背中をみつめながら歩いた。まもなく真由にあえるのだ。

 八千穂は互大がいう娘が、真由であると信じて疑いもしなかった。

 会って、向かい合ったなら、まずはじめに何を話そう。

 会いたかった、だろうか。ごめん、だろうか。ぼくのせいだ、だろうか。・・・いいや、ちがう。言葉くらい不自由なものはない。

 何度か廊下を折れ曲がり、昼下がりのやさしい日差しがさしこむ格子窓のひとつ手前で、互大は足を止めた。

「ここから真っすぐ行けば、女部屋になります。さあ、お行きなさい。いまは女たちも出払っているし、わたしもお邪魔する気はありませんよ」 八千穂はほほえんだ。互大の背中を見送ってから、八千穂はためらいもなく廊下を踏みしめてすすんだ。すると、奥からちいさく漏れてくる話し声があって、八千穂は思わず歩調をゆるめた。

「おまえは本当に、あの神鹿の妻なのか。みなが言うように」

 この声は、栗毛馬をひいていた居淵にちがいあるまい。

「あの鹿は、わたしを守ってくれているのよ、いつだって」

 八千穂はすこし瞳を瞠った。まちがいなく真由の声だ。けれど、それがわかっても八千穂は女部屋に駆け込む気には、どうしてもなれなかった。足を前に踏み出そうとしても、両足がその場に打ち付けられたように動かないのだ。

「あの鹿のように、わたしもおまえを守れぬだろうか」

 居淵はいたくまじめに言った。

「わたしの妻になってほしい。もちろん、ただひとりの妻に。大事にする。おまえを泣かせない。辛い思いはけしてさせない・・・どうしてだめなのだ?」

 居淵の声には落胆の色があったが、めげてはいなかった。

「おまえが何に追い詰められておるか、わたしは聞かん。おまえが何を恐れているのかも、聞く気はない。わたしは、ただ、萩を守ることができる。おまえにあだなす者から、おまえを守ることができる」

 わずかの沈黙があったが、八千穂には本当に長い時間に思われた。いまにも走りだしていって、真由に会いたいような、背を向けてにげだしてしまいたいような、わけのわからない気分だった。

「わたしはおまえが好きだ。会ったばかりなのに、こんなに大事に思えるのは、たぶん、おまえが愛しいからだ」

 八千穂はそこからきびすをかえすことを選んだ。そして、こんなに悔しくも情けないことは他にあるまいとさえ考えた。じぶんに怒っているのか、それとも居淵に怒っているのか、真由への怒りか。わかりかねたが、ただひとつ確かなことがあった。

 居淵の言い出したかずかずの言葉は、八千穂が胸にためていたのと、そっくり同じだということだけだった。

                            

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