かみなぎ38

 荒潟の湊を落とすのは、とかげの尻尾をちょん切るよりも、よほど簡単だった。湊の監督やその直属の水夫らは、まさに尻尾を切られたとかげのようにすばしこく逃げ去り、軍への抵抗すらなかったのである。

 海路の確保をすると、出手母からすみやかに武器が運ばれてくるようになった。しろがねの剣に槍先、矢尻。舟に山と積まれたそれらは、数のうえでは高天原の軍に劣る国つ者の軍を強め、皆の士気を高めるのにも大いに役立った。

 士気を高めたのは、しろがねの武器ばかりではない。高天原に抗い得る霊力をもつ二人の巫は、今や国つ者の手の内にあり、軍においても真由と八千穂は旗頭として軍についてまわった。

 荒潟を攻略してから何日もたたないうちに、軍は高天原へのぼりはじめた。先頭をきるのは巫をかかげた手勢。

 はじめの頃こそは数も少なかったが、各地で反旗をあげた人々とも合流をしつつ、いつしか武佐師から起こったちいさな軍は、高天原のおどしにも揺るがない、大きな力を蓄えつつあった。

 高天原は軍の数こそは多いが、国つ者を甘く見ている。数でおせば凌げるだろうという考えがあだとなり、ろくろく防備もしていないのである。巫の霊力も、戦場では振るわれることがないせいか、高天原の脅威とはなりえていなかった。

 そもそも八千穂は、神をも殺す恐ろしい霊力を、人間に向けて解放する気はなかったし、明日香もそれには一応はうなずいていた。あくまで軍どうしの戦いのはずである。

 筑紫にて同時に軍をあげた葦生も、はやぶさを思わせる素早さで軍をすすめている。まもなく合流するらしいと聞くと、明日香をはじめとして古老たちがあられもなく喜び合った。

 筑紫に飛んだとはいえ、明日香に霊力を貸しただけ。八千穂も直接に顔を合わせたことはないものの、葦生というひとについては、随分な英雄ぶりが言い交わされており、立派な人物を頭で思い描かないわけにはいかなかった。

 ひとたび軍をあげれば、疾風のごとく敵を蹴散らし、しかし武功をひけらかすこともない。万事おちついて物事にあたり、取り乱すことなどないのだと。すばらしい将軍像が言い交わされていたものだった。

「あれをまことの英雄というのです」

 軍に投降してきたひとびとの中には、たしかに葦生をしる者がいた。ただ、葦生を崇拝するのは年老いた翁や媼ばかり。若者のなかには知る者がなく、あまりに極端ではないか。もしや葦生というのは翁将軍なのではあるまいかとさえ、八千穂には思えたものだった。

 それはともかく、明日香姫の率いる軍は順調に敵陣を蹴散らし、ある時は死者をひとりもださずに奇襲を成功させた。馬を百七十頭ほど捕獲したうえ、傷を負った者も数えて十五人ばかり。いやがうえでもこちらの士気は高まり、高天原の軍に対する脅威も、薄まりはじめていた。

「数ばかりで、さもない奴らさ」

 日に日に軍を大きくしながら、高天原へ責め行こうとする道すがら、日が落ちたというので天幕を張ることになった。軍の士気が高まっているときには、進む馬足も早い。自然と、日が暮れるのもはやく思われるのかもしれない。

 たき火の炎を頬に受けながら、そういう皆の顔には、心地いい高陽と緊張があった。

「ここからが正念場だ」

 山越えをして蓑野にまでいたると、高天原の軍との衝突の間隔も、いままでのように間遠では済まなくなってきた。平野での戦いだろうと、耐え抜ける数をも集まった国つ者側の軍は、先陣をきる者たちと後陣を守る者たちのふたつに別れた。

 先陣には大きな軍をひきつれた明日香姫と真由がおり、後陣には八千穂が残った。旗頭としての二人は、じっさいには何もすることがなく、真由が前線に繰り出すわけでもない。ただ、炎の末裔を鎮めえる、凪のおとめとしての真由がいるといないとでは、士気もまるで違ってくる。 後陣の伊住は天幕で寝転んでいるのもつまらないらしく、火を焚いて見張りをしている男たちと、とりとめもない話をしていた。そこに、やはり眠れない八千穂が顔を見せると、伊住は冗談めかして言った。

「なんだい、一人じゃ眠れないのかい」

 八千穂が素直にうなずくと、男たちが笑った。

「すずしろのごとき白い腕が枕でなくば、眠ろうにも眠れまいに」

 武佐師での一件は、すみやかに人々の耳に伝わったのだ。武佐師の首長の息子、居淵と、巫のかたわれである八千穂が、真由を妻問いしたコトの顛末などは、話が話だけに面白おかしく歪められ語られていた。

 八千穂が物憂い表情をしていれば、悪気のない軽口が飛ばされ、ため息をひとつでも吐こうものならば、いわれもなく背中をばちんとたたかれる。軍のひとびとが考えているようなことは、じっさい、何もなかったのだけれど、八千穂がなまじ否定をしないものだから、半月も前に真由とわかれてから、ますますからかいはひどくなった。

 軍の男たちは皆、いたくヒマをもてあましているらしい。今のところ真由を有する先陣は平野を順調に進んでいるようだし、後陣を守るからには、攻め寄せてくる敵もめったにない。兵糧の確保や、もしもの場合の後退走路を固めておけばいいのである。

「真由のことを案じているなら、心配はいらないさ。なにしろ、高天原の将軍にはろくなのがいない。今じゃあ、こっちの軍を見るなり、逃げ出すありさまだ」

 伊住は笑った。三嶋という浅黒い肌の男が、それに続けた。なにか面白いものが見えるかのように、たき火をじっとみつめる三嶋の瞳には、やはり赤い炎が燃えていた。

「おれたちをみくびっていたのがあだになったのさ。いまごろ、先陣の軍の数を見て、やつらは腰を抜かしているだろうよ。・・・おれたちの軍の数は、いままで高天原に押し潰されて、故郷をうばわれた人間の、恨みの数だけいるものな」

 色味を失って散り積もった落ち葉や木切れを火にくべながら、三嶋はなんとなく続けるのである。

「高天原への恨み・・・」

 八千穂がぽつりとつぶやくのを聞きとめ、三嶋は苦笑いをした。

「とはいえ、恨みばかりを持っていたんじゃ、ただの復讐だがね。おれたちは、復讐だけのために戦うのではない。戦うのは、おれたちの未来のためだ」

 八千穂がなにか言おうとした時だった。ここからごく近い場所で、ちいさく馬の嘶きが聞こえた。そればかりではない、腰にさげた武器が鎧と触れ合うときの、金物めいた音も、かすかに、しかし確かに聞こえる。火を囲んでいた男たちの間にぴりりとしたものが張り詰め、たちまちのうちに彼らの表情から笑いがきえた。

「まて、松明の灯火がみえる。敵ならあんなマネはしない」

 伊住はそう言いながらも、油断なく男たちに目を走らせた。

「投降するやつらかもしれない。おれが行くよ」

「伊住、あんたがいくならばおれも」

 まず三嶋がたちあがり、それからあとの三人もわらわらと立ち上がった。しかし伊住は少しだけ唇をゆるめると、八千穂ばかりを手招きした。「あんたたちは、陣のやつらを起こして回れ。あれはただの囮かも知れない。奇襲ではよくある手だ、どこから襲われるかわからないぜ」

 伊住は八千穂に目を走らせた。

「八千穂、おまえはおれと一緒に来なよ。どうせ眠れないんだろう」

 三嶋らが素早く闇中に駆けて行くと、伊住も足早に歩きだした。後陣の軍は伊住がまかされており、伊住に従わない者はなかった。みかけはちゃらんぽらんな伊住であったが、一度うちとけてしまえば、芯には揺るぎないものを持ち、そのうえ人好きのする伊住の性格を好まないものの方が珍しかったのである。

 木立の緑はもはや枯れ葉となって、地面を埋め尽くしていた。落ち葉を踏みしめて行くほどに、松明のあかるさが目に染みてきた。

 静かな夜に訪れた陣への来訪者らは、いくつもの松明を掲げ持ち、そのまぶしい明かりは、彼らの身につける鎧の留め金に反射して、八千穂の目を細めさせた。

 伊住は数歩の距離を取ってから立ち止まると、先頭の馬に乗った大男をながめた。

「あんたたち、何者だい」

 返答によっては、すぐにでも腰におびた剣を抜きはなつであろう、やや剣呑な声であった。頭を殺せば、他の人間は統制がきかなくなるはずだ。それを知ったうえでの間合いの取り方であった。

 伊住は、押し黙っている頭らしき大男をにらんだ。ちょうど松明のあかりの影になっていて、顔つきはよくわからないが、あちらからは敵意というものがまるで感じられない。それに、ただの投降者にしては、戦士のような張り詰めた気配がある。

「答えたらどうだい。その口は飾り物かよ」

 伊住が重ねてそう言うと、大男が馬を降りたのがわかった。松明の明かりに照らし出された足元、落ち葉が積もった直土をふみしめ、進み出てくる男のすがたを見つけて、八千穂は驚いた。

「青田彦」

 松明のあかあかしいひかりに照らし出されたのは、たしかに青田彦の顔であった。髭が濃くなり、前よりもずいぶん険しい顔付きになってはいたが、たしかに青田彦である。

 八千穂が声をあげるのと、伊住が駆け出すのはほぼ同時だった。伊住はわずかの距離をあっと言う間に縮めると、青田彦の胸倉を激しくつかみ、締め上げた。青田彦は黙って締め上げられていた。手下と見える者たちがいきりたったが、青田彦は手出しをさせなかった。

「おまえは青田彦だろう。さあ、名乗ってみなよ」

「青田彦だ」

 悪びれない彼の声と静かなまなざしを目にすると、伊住は怒りがこみあげるのを押さえられなかった。

「あたりまえだ。おれがおまえを見間違えるわけがない」

 突き飛ばすようにして腕を離すと、伊住は鋭く言い立てた。しかしその声には動揺ゆえの、頼りないものもあった。

「何をしにきたんだよ。・・・いいや、その前に、生きていたんだなと言おうか?」

 伊住の言葉の中に皮肉を聞きつけ、青田彦は顔をゆがめた。

「阿多流どのをお守りできなかったこと、謝っても謝り切れぬ」

「ばかやろう。おれは、おまえに謝ってほしいわけじゃない」

 伊住は深呼吸をした。

「おれは、おまえを疑っているんだぜ。なぜおまえはあの日、父さんから離れていたんだ。父さんに一番近い側近だったおまえが、なぜ」

 伊住は戸惑いのなかに怒りを込めて言い捨てた。

「おまえはおれを殺しにきたのか。おれも父さんも、おまえに騙されていただけなのかい。言えよ、青田彦。・・・おまえが高天原をうべなうのなら、おれはおまえをここで殺さなきゃならない」

 伊住の声はごく静かだったが、底にみなぎる怒りは痛いくらいに感じられた。青田彦はいちどまなざしを伏せ、静かに言い出した。

「わたしは一度たりとも、阿多流どのから受けた恩を忘れたことはない」
 青田彦は阿多流の命を受け、美栄彦らの動静を探っていたのだと語った。王坐には阿多流が忍び込ませた手の者がおり、彼らとの連絡をつけるのが青田彦の役目になっていたのだと。

「阿多流どのの側近のなかに探男がいることは、見当がついていた。しかし、厳選に厳選をかさねた側近らであれば、阿多流どのもわたしも、にわかには味方の中に探男がいるとは信じ難かった」

 そうこうしているうちに、真由が王坐から消え、高天原はあふれ出す兵たちで大騒動になった。青田彦もがぜん忙しくなり、阿多流のそばを離れるときも多くなった。そうしたある日のことである。

「・・・高天原のはずれの隠れ家に帰った時には、あの有り様であった」

 青田彦の口調には、いいしれない苦みがあった。

「高天原をぬけ、それから逃げるようにして常陸へ帰ったのだ。しかし、じっとしたままではおれなんだ。滅びの匂いは薄れたが、憎しみばかりは心から消えない故郷の者たちをひきつれ、こうして明日香姫の軍に加わろうと、あとを追って来たのだ」

 数年前に高天原におおきな抗いをした常陸の首長。屈服させられた彼の一族は、その土地神にいたるまで滅ぼされた。青田彦は、常陸の首長につらなる一族の、生き残りなのだ。

 青田彦はしばし黙って、伊住をみつめた。

「罪人として高天原にひきずられてきたわたしを救ってくださったのは、阿多流どのだ。阿多流どのや、彼の息子であるあなたへの裏切りをするくらいならば、わたしはそのまえに自分を殺すだろう。・・・阿多流どのに受けた恩は、わたしが一生かかっても払い切れぬほどの、大きなものであれば」
「伊住、青田彦はうそをつくような人ではないよ」

 八千穂がいたたまれなくなって言い出すと、伊住は首を振った。

「ああ、わかってる」

 伊住は、わかっているさ、ともう一度つぶやいた。

「おれはね」

 伊住の声は、いたく真剣であった。

「おまえだけは、どんなことがあっても信じたい。だから、信じるよ」
 それからようやく伊住はちいさく笑った。そこにはさっきまでの怒りや戸惑いといったものを打ち消した、ひょうひょうとした伊住だけがいた。伊住は無理にでもふつうを装おうとしていた。

「しけた顔をしているなよ。もういい、おれが信じると言うんだから、それでいいじゃないか」

 うつむきがちの青田彦のひろい肩は、こきざみに震えていたかもしれない。

「それよか、話したいことが山ほどあるんだ。・・・なあ、高天原では、おれたち、一日中おもしろおかしくやっていたじゃないか・・・」

 青田彦は顔を歪め、こらえ切れなくなったのか嗚咽をしだした。青田彦がひきつれてきた人々は、黙ったまま掲げていた松明を下におろした。
「泣くなよ、ばか」

 伊住は笑うでもなく、かすれ声で低くつぶやいた。

      *         *         *

 いくつもの馬足が地面を蹴りあげる音が、ひとつの塊のようになって平野を進んでいた。高天原の軍に正面からぶつかろうと、簡単には揺らがない数の大軍が、明日香姫と真由を有してせめのぼっていた。

 蓑野の平野を越えて、あとひとつ山並みを踏破すれば、高天原は目前である。馬足をゆるめないまま軍を進めるものの、その途中、ほろびた人里をいくつも真由はみることになった。高天原の軍をおいかけるようにして平野を横切るものの、すでに高天原の兵らによって踏みしだかれた里の残骸は、真由に因幡の里の滅びをも思い出させずにはいなかった。 そんななか、立ち寄った里でひとりのみなしごが見つかった。それは腹をすかせて泣く気力さえもなくした、五つぐらいの童男であった。

 国つ者たちが立ち上がったのを知って、高天原への抵抗をこころみたのだろう。その結果、里はみなしごをひとり残したまま、あえなく滅びてしまった。豊かだったことを思わせる、いくつもの高床の倉庫は、米一粒すらものこさず奪われつくし、里人たちの骸が黄ばみはじめた草のうえに、無造作に転がっているばかりだった。

 女たちにいたっては、ひどい有り様だった。喉元にはすべからく紫色のあざがつき、口にはあわをふいて死んでいる。若い娘たちのなかでは、そんな死に方をしているものがほとんどだった。みな、白目をむいた苦悶の表情で息絶えている。

「見たことがある。高天原のやつらは、こう、女を縊りながら犯るんだ。そっちのほうが、ずいぶん具合がいいんだと」

 ある男がそう言い様に、唾をはいた。

「土に喪しておあげ。このままでは、いたたまれない」

 明日香がごく静かに言った。明日香がいたたまれないのか、死人たちがいたたまれないのか、どちらだろうかと真由はふと考えたが、今は衰弱しきった童男のほうが気にかかった。

 真由は馬での行軍にも慣れ、ひとりでもたづなが取れるようになっていた。馬から降りると、童男に近づき、しゃがんで目線をあわせた。

「真由どの、こやつは噛み付きますぞ」

 兵のひとりがそう言ったが、真由は頓着しなかった。兵のいかつい手にあった干し肉と竹の水筒を取り上げると、童男のススだらけになったまるい顔を見つめた。童男は泣き声をあげるかわりに、真由をぎりりと睨んでいた。その目は、赤く濁っていた。

「もう安心をしていいのよ」

 五つの童男とは思えないすさんだ目付きに出会い、真由はひるんだ。 この子は、何を見たというのだろう。里の滅び、肉親の死。いままで暖めていた日常が、まどろみの中で抱き締めていた柔衾が、なんの前触れもなくはぎとられてしまった今では、ただの童男でいろというほうが無理なのだろうか。

「さあ」真由はあとほかに言い出すべき言葉もみつからず、水筒と鹿肉の干物の入ったちいさな麻袋を差し出した。童男は真由から目線をはずさないまま、ちらちらとそちらを見ていたが、やがて空腹がぶりかえしたのか、剥ぎ取るようにして真由の手から水筒と袋を奪った。

「なんという。凪のおとめが手ずからくださったというのに」

 童男は兵の呆れ声も気にとめず、燃え落ちて内部が見える住居の陰に走り去り、そこでこっそりと食べ物を口に運んでいるようだった。

 よほど恐ろしい思いをしたに違いない。五つの童男にとっては、里を滅ぼした高天原の軍も、国つ者たちの軍も、まるで変わらぬもののように感じられているにちがいないのだ。

 真由は底の知れないむなしさをおぼえた。兵たちは、真由のことをまさに至上の者であるかのように敬う。国つ者に光をもたらす凪のおとめだと敬い、軍においても中心に置かれ、守られる。真由の生命をまもるためなら、兵たちは喜んでじぶんの生命を投げ出すだろう。

(わたしはただの娘だわ)

 真由ができることに、何があるのだろう。いくつあるのだろう。

 数えてみても、途方に暮れるだけだった。なにしろ、五本の指のうち、一本すらも折れはしないのだから。なにが凪のおとめだ。なにが巫だ。真由は、傷ついた童男ひとり癒せないというのに。泣き声もなくして、この世で信じることのできる、愛しいひとびとも亡くしてしまった童男をまえにして、真由は水筒と干し肉を与えることしかできないのだ・・・。
(わたし、どうすればいいの)

 真由はふと、息詰まるような苦しさ、胸に生まれたしこりを認めて、呻かずにはおれなかった。その苦しさは、彼女が王坐で味わったのとまったく同じものだった。真由を巫として、天照の後継者として扱った王坐の人々を目の当たりにしたときのような、拭い去りがたい苦みが胸にあった。

 真由になにができるというのだろう。真由のために生命を投げ出してゆく人々を前にして、真由はじっさい、何もできはしないのだ。巫の霊力があるとはいえ、真由は死んだ人々までは復ちさせることができない。 八千穂の時は、まさに例外であった。今の真由はちっぽけな切り傷を癒すぐらいしかままならず、それに復ちの霊力を行使したあとには決まって、抗いがたい眠気に襲われる。

 旗頭たる真由が馬上で眠りこけているのもさまにならないし、軍の士気にもかかわるということで、真由は出番がまるでなかった。真由は国つ者の軍の中にあって、まったくの飾りだった。

「何を言うか。真由よ、おまえさまのちからを、わしらは充分にもらっておるというのに」

 卯月は笑いながら言った。

「おまえさまが笑っておれば、わしも嬉しい。おまえさまが暗い顔をしておるのは、わしにとってもまた辛いこと。この軍にある者は、おまえさまの笑顔をみれば自信をえる。することがないなどと嘆くでないよ。おまえさまは、ただ、笑っておればよい」

 つらくとも笑っていろなんて、むちゃな相談だった。真由は泣きたくなったら泣くし、笑いたいときは笑う。悲しいときも笑っている人間なんて、それこそ奇妙ではないか。

 真由がいよいよ沈み込むと、卯月は困ったような表情をした。

 明日香姫のひきいる軍は蓑野の平野を越えると、不破の関を突破し、淡海をへて山城にはいった。大きな衝突はあったものの、あっけないほどに、山城にとどまっていた高天原の軍はこちらに破れさったのである。 あとは筑紫から軍をあつめて攻めのぼる葦生と合流をし、高天原にいっきに攻めよせるばかりであった。

「なにを浮かない顔をしているのだい、真由。山城までのみちのり、高天原の軍などとるにたらぬものだと知ったではないか」

 夕暮れが西の空を染め上げるころになると、夕餉のしたくをする膳夫たちのあかるい歌声が、天幕のなかにまで聞こえてくる。

「まもなく後陣の軍も山城に着くだろう。そなたが案ずるようなことは、何もない。われらの勝利は、もはや揺るぎないものだというのに」

 陣のほぼ中心にある、会議のために張られた天幕は、五人ほどがゆうゆう膝を並べられるほどの、やや大きなものだった。明日香は上座に座り、うつむいたままの真由を眺めた。真由のとなりには、卯月がいる。卯月は軍のなかでも真由にいちばん近い女性として、いつも側にあった。「いやな予感がします」

 真由は心のままを口にした。篝火の灯される時刻になり、気をきかせた兵のひとりが、さっき油の灯火をおいていってくれたおかげで、そばにいる卯月や、上座に座った明日香姫の表情までも真由には見ることができた。

 明日香姫は少女の面輪に、ゆったりとしたほほ笑みを浮かべながら、その理由を聞きただした。

「高天原をにわかに流行病が襲っているという。纏向市街ばかりか、王坐までも、病の猛威には抗えぬとね。高天原の軍がふがいないのも、そのせいではあるまいか。天照も、もはや死の床のべについたという。

・・・風向きはすべてこちらに変わったのだ。高天原の地主神ばかりか、天の星ぼしまでも、今のわれらに味方しないものはないというのに」  明日香はふしぎそうに言った。

「なにをおびえるのだい、そなたは」

 真由はうつむいていたが、心を決めて明日香をみあげた。明日香は幼い少女の面影をしていながら、じっさいは、神代からの長い時間を不死の身で生きているひとなのである。瞳の眇め方も、物言いのしかたにも、ふしぎなまでの透明さがある。もしや、真由の言いたいことを、はじめから分かっているのではあるまいかとも、ふと考えてしまう。

「こうして座っていても、いつも背中から押されているように、落ち着きません」

 眠っているときも食べているときも、真由はなにかにせかされるような気がして落ち着かなかった。真由を焦らせ、その背を前に押し出そうとするのは誰の手なのだろう。ただわかるのは、真由に近づいてくるのが、なにか、とても恐ろしげなものだということ。

 真由の思惑なんてあずかりしらないところで、真由を喰らいつくそうと意気込む、ばけものの張る罠に踏み込んでしまいそうな、わけのわからない恐怖があった。

 明日香は、薄闇の中でかるくうなずいた。

「高天原へ攻めこむ日は、ごく近い。そなたのもてあましている不安は、じつは皆の不安でもある」

 それから明日香はちいさな手で胸元をまさぐると、やわらかな生絹でつつんだ品をとりだした。しろい手が覆いをとりはらうと、やがて両の手の指をゆるくあわせてできる円ぐらいの、そう大きくもない鏡があらわれた。鏡は夕暮れ時の薄暗い天幕のなかにあっても、みずからあかるく輝いており、真由はそのまぶしさに息をひそめた。

「ごらん、御鏡のかがやきを。高天原に近づくごとに、輝きを増してきている。これはね、高天原にあるもうひとつの鏡に、この御鏡が呼びかけているからなのだよ。呼び声とともに、ひとつになろうとする御鏡の意思が、このように輝きを放っているのだ」

 どこまでも清浄なかがやきは、真由の胸をしめつけた。とても不思議な気持ちがした。明日香を神代の昔から不死にしばりつけている鏡。話にはきいていたけれど、こうして目の当たりにするのははじめてだった。明日香が御鏡を見せた意図はわからなかったが、真由は素直にそのかがやきに魅入られていた。

「触れてごらん」

 明日香は真由の気持ちを汲むかのように、やさしく告げた。真由はひざで明日香にいざり寄ると、そっと右手をのばし、波立つ御鏡の表面にふれた。

「水脈の、水脈の匂いがします。澄んでいて、甘い水の匂いが」

 真由は驚きを隠せなかった。触れた指先が、すべらかな鏡の表面にはふれず、水の流れにさらされたせいだった。真由は戸惑いとともに明日香をみつめた。明日香はほほえんだ。

「さぐってごらん。この御鏡は、それはそれは大きな室につながっているのだよ。手を差しいれた者の、魂の室にね」

「魂の、室?」

 聞き馴れない言葉だった。おうむ返しをする真由に、卯月が言った。
「ひとは誰でも、魂をもつ。魂の持つ果てしなさは、室にたとえられる。それはとてつもない広さでもって、ひとりひとりにあるのだよ、真由。それはおまえさまの室なのだ。おまえさまが・・・」

 卯月がそう言っている間にも、御鏡に差し入れていた真由の手が、何かを探り当てた。それは、なにかとても心地いいものだった。触れているそばから、やさしさとありがたさが込み上げ、真由をせつなくさせるのである。やがて触れているものが、だれかの手なのだと思い当たって、真由はとまどった。真由のものよりいくぶんがっしりとして、大きな手だ。すべらかで、指先がしまっているような。

「あ!」真由はふいに声をあげて、御鏡から自分の手を引き抜いた。そのさい誰かの手の感触を乱暴なまでに振り払い、真由は右手を胸に抱き締めるようにしながら、顔を赤くして黙りこんだ。卯月がふしぎそうに声をかけてきたが、答えられるようなことではなかった。

 明日香はすべてを知るかのような優しい微笑をした。

「焦りや恐怖といったものは、たやすくは消えぬもの。無理に消そうとするよりは、それを真っすぐに見つめ、真摯に乗り越えればよいのだ。そなたは、ひとりではない。・・・凪のおとめであるまえに、そなたはただの娘。そなたが全てを負おうとすることはないのだ」

 明日香はつづけた。

「凪のおとめがその名でよばれるゆえんを語ろう。そなたが今感じているすべての不安や恐れは、そなたがこれを知ることで少しでも和らぐやも知れない」
「ゆえん?」

 右手に残る手の感触に、落ち着かないものを感じていると、明日香はやはり、ほほえみながら言った。

「炎の御子を鎮めたゆえに、凪のおとめとは言われてはいるが、炎を凪ぐのは何だと思うね?」

「水です」真由は明快に答えた。すると、明日香は首を振った。

「水ではない。たしかに、水は燃え盛る炎をもけしさる。けれど、凪のおとめの本性とは、水ではない。水と炎は、まるで異なるものだもの。炎と凪は、もっと、ずっと近しいものなのだ」

 真由はわずかに眉根をよせた。

「わかりません。わたし、おとめが御子に凪を与えるということを、炎をすっかり消し去ってしまうことだと思っていました」

「凪海を波立たせるのはなに? 野にあって草木をざわめかせるものはなに? 風だ。・・・凪のおとめの本分は、風とともにある。凪のおとめをすせりびめとも言うが、すせりは柔順の意味にもとれるし、俗語では嫉妬ぶかい女の意味にもつかわれる。すせりびめは柔しき姫でもあるし、嵐き姫でもあるのだ」

「風は炎を鎮められないような気がするけれど」

 風は火をあおり、大きくする。それでは凪にはなりえない。

 明日香は御鏡を生絹で包みながら、しずかに言うのである。

「そなたは火を消し去ることを鎮めだと思っているのだね。けれど、それはちがう。消滅が凪なのではない。凪のおとめは、炎の御子のこころを凪いだゆえに、凪のおとめと言われるのだ。わかるであろう? 殺すことが鎮めではないのだということ」

「すせりびめは、風姫とも言う。風は炎をあおり、高ぶらせる。たしかにそうだ。けれど、それだけではない」

 卯月が口をはさんだ。

「風姫は、炎の行く末を決めるのだ。風のながれる方向に、炎もまたながれる。炎をただしい方向に導くのが、真由よ、おまえさまの役目」

 真由はだまって話を聞いていた。頭の中で答えをひとつづつ組み立てようとするものの、ますますこんがらがってゆくばかりだった。

「巫とは、すなわち炎の御子と、凪のおとめだといってもよい。高天原の炎の末裔のなかでも、荒々しい炎の本性を受け継ぐ者を神薙であるとし、凪のおとめの癒しの霊力を受け継ぐ者を神凪としているだけなのだ」
 明日香が続けると、真由はおもわず声を上げた。

「じゃあ、天照や須佐ノ男も」

「そのとおり。天照は凪のおとめであったし、須佐ノ男は炎の御子であった。ただ、凪のおとめである天照が須佐ノ男を導く方法を誤ったために、すべてが歪みをきたした。風は水になろうとし、炎はそれにあらがった。すなわち、殺しあいよ」

 真由はぞっとせずにはいられなかった。

「そなたらも、必ずしも彼らと同じ道を歩まぬとは言い切れぬ。風と炎は近しいゆえに、狂いも起こりやすい。風が吹く方向をまちがえれば、すべてが灰に変わる。そなたらが二人そろっていることは、まさしく、滅びを抱えていると言っても過言ではないのだ」

 それから明日香は、声をやさしくした。

「須佐ノ男は滅びをおそれて、高天原を去った。八千穂もまた、いちどはそなたから離れた。けれど須佐ノ男と八千穂がちがうのは、逃げずに滅びを打ち砕こうとしたことだ。そなたも、それはとうに知っているね」
 真由は神妙にうなずいた。

「八千穂をみちびいておあげ。八千穂はまだ何かを迷っている。その迷いを断ち切っておあげ。・・・軍の旗頭となるのがそなたの役目ではない。つらいときでも無理をして笑っているのが、そなたの役目ではない。

そなたは、じぶんのしたいことを、ごく自然に行えばよい」

 明日香は、やさしくほほ笑んだ。

「そなたが御鏡のなかで触れたもの、それが今のそなたが一番に欲しがっているものだね。・・・なにを恥ずかしがることがあろう。こころに嘘をつくことほど、体に悪いことはない」

 明日香は、御鏡の中で真由が何に触れたかを知っているのだ。

「こころのままに、ふるまえばよい」

 真由は決まり悪くなって、あいさつもそこそこに天幕からぬけだした。 今夜、伊住がまかされている後陣の軍がこちらと合流するとあって、篝火もいちだんと多く立てられている。闇を払う明るさは、頬が赤いのを見とがめられるようで、真由を落ち着かなくさせた。ひしめくように張られた天幕を擦り抜けてゆくと、ひとりの若い兵が真由のすがたを見つけて声をかけてきた。

「真由どの、例のちびすけを知りませんか」

 陣にあって、膳夫のひとりもかねる健次だ。ちびすけとは、蓑野の平野を行軍していた時に、滅びた里の跡でみつけた童男のことである。みなしごとなった童男をほっておくわけには行かないので、軍がひきとったのだった。

 兵たちが交替で何かと面倒をみていたが、けっして心を開かない。真由も毎日顔を合わせるようにはしていたが、根気強く話しかけようと、食事を隣で取ろうとしても、すぐにどこかへ消えてしまうのだった。

 けれどヤチホコばかりは気に入ったようで、真由はこのところずっと、埴色のテンを手放していた。

「おかしいな。あれで真由どのになついていたようだったから、あなたの所かとも思ったのだが」「なついていたですって」

 真由はすぐさま否定をした。童男のこころを捕らえていたのは、ヤチホコのほうだ。そう言うと、健次はすこしだけ笑った。

「昨日も遅くまでどこかへ行っていて、天幕にも帰ってこないので、少しきつめに叱ったんです。そうしたら、泣いてしまった。・・・おれはあのちびすけが、ほんとうにちびすけだということを、すっかり忘れていたんです。親ばかりじゃない、たくさんの大事なものをなくしたばかりで、笑っていろというほうが無理なのに」

 健次は、真由が黙っているのを見ると、あわてたように明るい声で取り繕った。けれどそれはどこか不自然だった。

「どこかでまた、泣いているような気がしてならない。あの子は、死んだわたしの弟に似ている。・・・もしよろしければ、一緒にさがしていただけないか。柚宇津(ゆうつ)、と呼べばでてくると思うのだが」

 健次は心底すまなそうに言い出した。

「それがその子の名前?」

 健次がためらいがちにうなずくと、真由はこころよく笑った。

「さがしましょう。柚宇津はね、きっと探してくれるのを待っているんだわ。あなたもそんなに、むずかしい顔をしないでちょうだい。柚宇津との隠れんぼだと思えばいいのよ。ただね、見つけたら、ぜったいに叱ってはだめよ」「はあ」

 健次は奇妙な表情でうなずいた。ほほ笑みとも戸惑いともつかない、何か物いいたげな、面映ゆい表情だった。

「なあに」

 真由がたずねると、健次はしどろもどろになった。

「いいや、なに、その・・・はい。叱りません。ええ」

「おかしなひとね」

 真由はあかるく笑った。どうにか余裕を取り戻せそうだった。

 凪のおとめとはつまり、風姫のこと。すせりびめは嵐風でもあり、春に吹くやさしい風でもあるのだという。どのようにでも吹く風に、そもそも形などあろうはずもない。なのに凪のおとめというものに言い知れない重みを感じていたなんて、おかしなことではないのか。

 明日香姫もそれを言いたかったのだろう。真由は真由。軍にあっても、じぶんらしく振る舞うことを真由はきめたのだった。

 今まではへんに敬われるので、真由のほうでもへそを曲げて、兵たちともできるだけ口をきかないようにしていたのだが、それはやはり不自然なことにちがいない。なにもむずかしいことはないなのだ。真由は真由らしくしていればいい。

 柚宇津をさがして陣を少しはなれると、篝火の明るさもとどかない土手のほうで、おさない泣き声が聞こえた。真由は耳をすまして、それが夜鳴き鳥のものではなく、たしかに童男のものだと確かめると、足早にそちらへ近寄っていった。

 闇のなかそそり立つ木々には、青々しい葉はもう見えず、すべてが地面に落ち葉として降りつもっている。真由が足を踏み出すたびに枯れた葉はかさかさと音をさせ、それに気づいたか柚宇津も泣くのをぴたりと止めた。

「柚宇津(ゆうつ)」

 真由はゆっくりと名前を呼んだ。名前をくちびるに乗せるということ。それがなにか、とても大事なことに思えた。

「柚宇津、いらっしゃい。ここは冷えるわよ」

 真由はできるかぎりやさしく言った。母にはなれないけれど、彼をだきしめてやることはできるはずだ。一人ではないのだと、わからせてあげることはできるはずだ。柚宇津が立ち上がる気配がした。真由は一瞬、また逃げられてしまうのではないかと思った。しかし柚宇津はふたたびしゃくり上げると、真由にぶつかるようにして駆け寄ってきた。

 五つほどの柚宇津の背丈は、真由の腰ぐらいの高さまでしかなく、真由はしゃがんでから柚宇津をきつくだきしめた。えりまきよろしく柚宇津の肩に乗っていたヤチホコが、真由のもとに戻ってきた。

 柚宇津が肩を震わせながらも落胆の声をあげたので、真由はほほえんだ。

「ヤチホコ、おまえ柚宇津といなさいな」

 ヤチホコは真由の言いようを心得ているのか、いつものように衣の胸元に滑り込むことはしないで、柚宇津の頭に乗っかった。

 真由はしゃくりあげる柚宇津のすがたに、じぶんの幼かったころのすがたを重ね合わせていた。さびしさをもてあまして、だれかが迎えに来てくれるまで、川べりでひざを抱えていた真由。

 柚宇津からは汗と垢の匂いがした。しゃくりあげ、ときおり鼻をすする柚宇津をだきしめながら、真由は背中をなでた。

「健次がさがしていたわよ」

「たけつぐはすぐに怒る。こわいよ」

 名前をよばれたことで心を開く気になったのだろうか。柚宇津はこのときはじめて、真由に向かって口をきいた。真由は思わずうれしくなって、それに柚宇津の幼さも少しだけおかしかった。

「健次はあなたのことを一番に心配しているのよ。それに、もう柚宇津のことを叱ったりしないわ」

 柚宇津はなにか物を言おうとして、けれどくちびるから言葉が出てこないようだった。真由は根気強く待ちつづけた。

「ぼくは、いつ、死ぬの」

 真由は驚いた。驚いたというより、ぎくりとしたのだった。

「黒鳥がくるよ。おまえを喰ってやるって、ぜんぶをだめにしてやるって。黒鳥がくるよ、黒鳥がくるよ」

 里の滅びを目の当たりにした柚宇津が、死というものを知らないままで、恐れないことこそがおかしいのかもしれなかった。けれど、やはり彼のような子供が死におびえるのは何かがおかしく、かみあわない。無邪気であることを突然に止めさせられた柚宇津への哀れみが、胸にこみあげてきた。

 いいや、それは柚宇津への哀れみというよりは、彼の泣くすがたに幼いころの自分を重ね合わせた、真由自身へのあわれみであるのかもしれなかった。

 故郷をうしない、大事な人たちをうしない、そのすえに一度は絶望をあじわった。あのときの真由が一番に恐れていたことは、このまま生き続けることではなかったか。生き続けることに絶望をしてしまった真由は、けれど一番に死をおそれていたのだ。

「あなたは死なない。わたしが死なせない」

 真由はささやくように言った。泣き止むまで背をなで続けていたが、真由にしがみついた柚宇津の体が、ふいに重くなった。いつのまにか泣きつかれて眠ってしまった柚宇津の体が、真由に寄りかかってきたのだ。 真由は息をもらした。ずっしりと重い柚宇津の体を苦労して背負うと、真由はずり落とさないようにとおぶり直してから、陣の方に歩き始めた。
「ふう」
存外に重い柚宇津をおぶりながら、真由は陣のあかりがとても遠いものに思われた。ずり落ちそうになる柚宇津をもう一度おぶりなおし、ふたたび歩きだそうとしたときだった。

「ここにいたのかい、まゆ」

 真由が顔を上げると、こちらまで漏れ出してくる篝火のあかりを背に受けて、八千穂が立っていた。

「いま着いたんだ。少し探したよ」

 八千穂は真由と柚宇津を交互にみつめていたが、すぐに言い出した。
「ぼくがおぶろう」

 柚宇津はすっかり寝息をたてていた。八千穂に柚宇津をあずけるとき、柚宇津の手が真由の腰までも伸びた、三つ編みに結った髪の毛をぎっちりつかんで放さなかったものだから、真由はしぶい顔をしなければならなかった。

「ずいぶん軽そうにおぶるのね」

 柚宇津の重さを知っていた真由は、かるがると背負う八千穂を眺め、ため息とともに言った。すると彼は笑うのである。

「この子は重いうちには入らないよ」

 柚宇津を背負ってゆっくりと歩く八千穂の背中をみつめながら、真由は明日香姫の御鏡のなかで触れた、手の持ち主のことを考えていた。すると真由の思いを見透かすように、八千穂が陣にはいる数歩手前で立ち止まり、真由を振り返った。

「この子も戦で故郷をなくしたんだろうか」

「蓑野の里で拾った子よ。柚宇津というの」

 真由にはそれ以上語るべきことはなかった。里の滅びはまだ真由の頭にもまざまざしいくらいで、何かを言い出そうとしても言葉が喉で詰まって、息苦しくなるばかりだった。

「この子は悪くない。なのに、いわれもなく故郷を失った。きみだって、そうだろう・・・何のためにぼくらは戦うんだろうか。何に立ち向かっているんだろうか。ぼくは、ずっと考えていた。戦はぼくらに、何ももたらさないのではないかって」

 八千穂はしずかに言った。

「ぼくらは高天原をほろぼそうとしている。けれど、ほろぼすことが解決になるのだろうか。・・・きみは、どう思う」

「滅ぼすのではないわ、きっと」

 真由は明日香姫の言葉を思い出しながら、慎重に言った。八千穂は迷っている。そして真由に答えを求めようとしているのだ。いいかげんなことは言えなかった。

「わたしたち、高天原を鎮めるための戦をしているのよ、きっと。たしかに、戦はむだなことよ。悲しみばかり増やして、柚宇津のような子ばかりを増やしてしまう。でも」

「でも?」八千穂はつづきを求めた。

「高天原は進む方向を間違ってしまった炎よ。いたずらに滅びを与える人たちを見て、わたしは黙っていることはできない。たとえ、わたしにできることが本当にちっぽけなことだとしても、それさえ放棄して黙っていることは、気高の人たちの死をまるでむだにすることよ」

 いろいろな人たちに支えてもらって、ようやくここにいることができる。そのことを忘れてしまうことはできなかった。

「きみは受け継がれるものを、まっとうする気なんだね」

 八千穂は言葉を選びながら言った。

「ぼくら巫がやるべきことがあるとすれば、この世には不要なものを捨て去ることだろう。明日香が言っていたように、神の霊力は神に返すべきだ。いつまでもただびとが持っていて良いようなものではない」

 真由をみつめながら、八千穂はつぶやいた。

「霊力はひとを不幸にする。無目的に存在する霊力ほど、恐ろしいものはない」

「でも、正しい使われ方というのがあるはずよ。霊力にしても、存在することがむだなように見えても、じつはどこかで必要とされているということが、あるかもしれないもの。繁栄のために使うのではなくて、ええと、そう、時と場合を選べば・・・」

 八千穂は安堵したように笑った。

「きみのいうとおりだ。繁栄のために使われた巫の霊力は、ほんとうに誰のためにもならない。ぼくは、高天原に皇子としてうまれた。巫の霊力も使えるようになった。・・・けど、ぼくはただの八千穂でいい。霊力を手に入れた今こそ、そう思うんだ。大王の御座や、大国主なんてたいそうな名前は、ぼくには不似合いだ」

「大国主ですって」真由は声をあげた。

「それって、芦原中津国じゅうを領履く者の名前だわ」

「だから不似合いだと言うんだよ」

 八千穂はひそやかに笑った。

「ぼくは国など欲しくない」

 八千穂は柚宇津をおぶったまま、すこしだけ身をかがめて真由に顔を近づけた。ついばむように口づけをしたあと、それとはべつに真由を深くさぐろうとする彼の口づけを感じて、真由はおどろいてちいさく声をあげた。

「いやなのかい」

 真由が腕で八千穂をつっぱねると、彼はしずかにたずねた。少し声をおとし、目をほそめてじっと真由をみつめるのだ。

「きみがいやなら、もう、しない」

「いやだとか、そういうことじゃないわ」

 真由は顔を赤くしながらあわてて言った。御鏡のなかで触れた手で、真由は触れてほしいと考えていたのではなかったか。口づけばかりでは、どうしても物足りないと感じる自分をみつけて、真由はばつがわるかったのだった。

「あなたがなんにもわかっていないのが困るのよ」

 八千穂は決めつけられて、すこしむっとした顔つきになった。

「ぼくが何もしらないと思っているね」

 いどむような声の調子だったので真由はひるんだが、言い返した。

「だって、あなたはまるきりの子供だもの」

「ぼくを子供というなら、きみだって子供だ」

 どうにもおかしな方向に話が進んでいたが、いまさら止めることもできなかった。柚宇津が八千穂の背中で身動きをしたので、真由は声をひそめた。八千穂も声を落としながらつづけた。

「たしかにぼくは物を知らない。けど、ぼくは、きみに対していつまでも無知のままでいるつもりはないよ」

 真由はぎくりとした。八千穂をみつめると、彼らしくなく真由から目線をはずした。真由は彼の言葉が信じられなくて、ためすように言った。
「じゃあ、証明できるの? なにをどうして、どうやるつもり?」

「ふざけないでほしい」

 八千穂はまじめに言った。八千穂の瞳には、いらだちがあるのだった。
「ことばでなら、いくらでも証明できるだろう。でも、きみが言うのはそのことではないね。・・・ぼくだって、きみに触れたいと思わない時はない。きみに触れてもらいたいと思わない時はない」

 真由が胸の中でもてあましていた気持ちを、八千穂もかかえているとはっきり言い切ったのだ。真由はうれしいのかせつないのか分からないまま、彼の頬を両の手のひらでそっとはさんだ。

「ほんとう?」「ぼくがうそをついたことがある?」

 反対にたずねられて、真由は納得をした。ほんとうに彼というひとは、ウソと言うものをつこうとしてもつけないらしい。正直というより、不器用なのだ。けれど、そんな不器用さも、真由をほほえませるばかりだった。

 八千穂はまえのままの八千穂ではない。与えられるのを待つのではなく、じぶんから進みでていって、ひとつひとつ確信して手に入れてゆくことをおぼえたのだ。・・・確信とは、じぶんで確かめて理解すること。そのすえに生まれた自信が、八千穂を少しづつ変え始めているのかもしれない。

 そして、真由の見立ては間違ってはいないのだろう。でなければ、笑うことすら知らず、うつむきがちだったあの頼りなげなひとが、真由をみてこんなに力強くほほ笑むわけがない。

「国がなくたって、えらくなくたって、あなた、わたしの大国主だわ」 
 篝火が八千穂の横顔をだいだい色に染めていた。
 八千穂は真由のつぶやきを聞きとめると、何も言わないまま、けれど、いたく晴れやかな笑顔をしてみせた。

                           

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック